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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その弐:駅前&電車)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!

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「駅前」で検索すると7作品です。

水の肌」(原題=沈下) ・「土偶」(【死の枝】第十一話)・「地方紙を買う女
彩霧」・「神々の乱心(上)」・「夏島」・「不運な名前」(藤田組贋札事件)
「駅」で検索するとかなりの数になりそうです。


関連で「電車」で検索すると10作品。
金環食」・「球形の荒野」・「水の炎」・「黒の様式/微笑の儀式
小説帝銀事件」・「ある小官僚の抹殺」・「日光中宮祠事件 」・「皿倉学説
脊梁」・「行者神髄
なぜか、「駅前」とダブりがなかった。むしろ、「タクシー」とのダブりが多い。



2007年4月12日


題名 「駅前&電車」
●「水の肌(原題=沈下) 企業から頼まれた興信所や私立探偵社の個人身許調査報告書は、女遊びとか金使いが荒いとかいう素行内偵調査とは違って、およそ内容の面白くないものである。企業が依頼する調査の対象は、個人の場合だと、経営側にとって好ましくない社員だとか、入社を予定している新人に行われることが多い。後者の場合は依頼の目的がはっきりしているけれど、そのほかは依頼主が目的を明瞭に示さず、ただ調査だけを委嘱することがある。調査側によけいな先入観を与えないで、客観的な資料を得たいからであろう。調査報告書も、その通りに無味乾燥な字句で綴られる。もっとも浮気の調査報告でも「×日午後×××分頃、××××殿は××駅前×××子殿と落合い、タクシー×町の温泉旅館××荘に入る。×××分に至も両人は出てくる様子はなく、調査員は本日の張り込みを解く」といった式の文句だ。
●「土偶
(死の枝 第十一話)
汽車の中は立っているだけがやっとだった。ほとんどが買出し客か米のヤミ商人だった。時村勇造と英子のように発車前から座っていないと、座席に腰を下ろせる状態ではなかった。それも十時間近く乗りつづけてきた。駅からやっと出たとき勇造は、まだ自分の身体でなかった。手枷足枷で閉じこめられたものが俄に解放されたら、こういう気持ちになるだろう。身体に感覚がなかった。立ちつづけも辛いが、座ったまま身動きできないというのも責苦である。駅前からは、今度は立ちづめのバスに乗った。まだタクシーはなかった。ハイヤーでもタクシーでもそこにあったらどんな高い料金でも出すところである。金はふんだんに持っていた。古いバスは長いこと傷んだ道路を走った。坂道にかかると、渓流が横手に見えるのだが、立っているのが精いっぱいでは窓からのぞくどころの算段ではなかった。バスも買出し客でいっぱいだった。目的地の温泉の町に降りたとき、もう一度人心地が戻るのに時間がかかった。
●「地方紙を買う女 潮田芳子は、甲信新聞社にあてて前金を送り、『甲信新聞』の購読を申しこんだ。この新聞社は東京から準急で二時間半くらいかかるK市にある。その県では有力な新聞らしいが、むろん、この地方紙の販売店は東京にはない。東京で読みたければ、直接購読者として、本社から郵送してもらうほかないのである。金を現金書留めにして送ったのが、二月二十一日であった。../seityou_g/606_sei_natusima__01.htmlは、彼女はこう書いた。−−貴紙を購読いたします。購読料を同封します。貴紙連載中の「野盗伝奇」という小説が面白そうですから、読んでみたいと思います。十九日付けの新聞からお送り下さい....。潮田芳子は、その『甲信新聞』を見たことがある。K市の駅前の、うら寂しい飲食店のなかであった。注文の中華そばができあがるまで、給仕女が、粗末な卓の上に置いていってくれたものだ。いかにも地方紙らしい、泥くさい活字の、ひなびた新聞であった。三の面は、この辺の出来事で埋まっていた。五戸を焼いた火事があった。村役場の吏員が六万円の公金を消費した。小学校の分校が新築された。県会議員の母が死んだ。そんなたぐいの記事である。
●「彩霧 午後四時半に銀行を出た。なま暖かい早春の土曜日であった。スモッグで朝から太陽が白く濁っている。いつもは六時過ぎまで残るのだが、今日は営業が午前中の上、出納との帳尻もいつもより早く合った。安川信吾は使い古した黒皮の手提鞄を面倒臭そうに持っている。映画館に入り、二時間かかって外に出ると食事を摂った。百円のチキンライス。八時近くになっていた。ふらりと街を歩く。少し重そうな鞄であった。有楽町界隈は、人で混み合っている。彼は銀行マンらしく調髪には気をつけるほうである。二十八歳。ぶらぶらと歩いて洋品店に入った。下着が一通りと、セーターと替ズボンを一つずつ買った。ついでにスーツケースを求めて、買った品をその中に突込み、総計八千円を払った。財布の中は残り少なくなっている。二つの荷物を両手に提げてタクシーに乗り、東京駅前の小さな果物屋に入った。横では稲荷ずしや巻きずしを売っている。汚い店だ。
●「神々の乱心」(上) 東武鉄道東上線は、東京市池袋から出て埼玉県川越市を経て、秩父に近い寄居町にいたっていた。武蔵野平野の西南部を横断しているかたちである。その途中に「梅広」という駅がある。昭和八年現在の東武鉄道の時刻表で池袋駅から所要時間が約一時間である。ここは埼玉県比企郡梅広町で、人口約一万三千。郡役所、裁判所出張所、警察署、比企郡繭糸同業組合支部、武州中央銀行支店、県立中学校、小学校などが備わっている。駅前通りには商店がならび、料理店も多い。旅館は六軒ある。駅前広場にタクシーが以前からみると相当ふえた。二つの自動車会社が一日平均三十台近くの車を動かして川越市、熊谷市、鴻巣町、玉川村方面へ客を運んでいる。昭和八年十月十日午後二時半ごろ、埼玉県特別高等警察課第一係長警部古屋健介が北村幸子を梅広警察署に呼び入れて参考人として尋問したのは、次のように偶然のことからだった。
●「夏島 横浜に用たしのついでに夏島に行った。かねてから見たいところだったが、こういうときでもないと機会がない。五月の半ばの日曜日だった。京浜急行の金沢八景駅前からタクシーに乗った。運転手は三十前だった。「夏島町のどのへんですか?」シャツ着の運転手はきいた。十一時ごろだが、もう初夏の陽であった。「島のような小さな山なんだけど」「山は、いっぱいありますよ」お宮の前に車をとめて運転手は南の方角を指した。ずっと向こうになだらかな丘陵が伸びていた。伸びた先は海のである。三浦半島の地図を頭に浮かべると、ここはその真ん中の東側であり、東京湾を隔てて房総半島の富津あたりと対い合わせになっているはずである。「戦時には海軍の飛行場があって、敗戦後はアメリカ軍が使用していたところがあるね?」
●「不運な名前」(藤田組贋札事件) 三月末の或る雨の日、安田は岩見沢の駅で降りた。昨夜泊まった札幌を今朝早く発ったので、着いたのが午前十時ごろだった。手提鞄一つを持ち、タクシー発着場にならんで三十分くらい待った。雨降りのため客の列が長い、安田は肌寒いなかで駅前商店街の雨で暗い風景を眺めていた。岩見沢は前に旭川へ行くとき通過したことはあるが、降りたのは初めてであった。ようやく順番がきて、走り戻ったタクシーに歩み寄った。雨滴が首筋に冷たかった。行き先の月形町の名を云うと、運転手はアクセルを踏んだ。方角は西だった。ヒーターの暖気と雨で白く曇った窓に朦朧とした町なかが過ぎると、広い田園についた直線道路が流れてきた。フロントガラスをワイパーが拭いた透明な扇形の中に、耕された冬枯れの原野がどこまでも続くが、山らしいものはまだ見えなかった。地図では丘陵の裾が目的地であった。
題名 「電車」
●「球形の荒野 芦村節子は、西の京で電車を下りた。ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。道の横に古道具屋と茶店をかねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持ちが軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。夫の亮一とは、京都まで一緒だった。亮一は学会に出るので、その日一日その用事に取られてしまう。旅行に二人で一緒に出るのも何年ぶりかだ。彼女は、夫が学会に出席している間、奈良を歩くのを、東京を発つときからの予定にしていた。薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、今は立派に全容を顕わしていた。いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。 
●「金環食 石内は、上野の坂を登った。初夏に近い強い陽が、地面に突き刺している。葉の茂った木陰で、人が憩んでいたが、どの人間も疲れたように手脚を投げ出していた。リュックサックや肩掛鞄が、大事そうにそばに置いてあった。ほとんどが食料なのだ。昭和二十三年五月だった。石内は、科学博物館のほうへ歩いた。近ごろ、ようやく、社では自動車を出すようになったが、それでも、今日のような不急の取材のときは、電車でとぼとぼ来るほかなかった。石内が、科学博物館の建物の近くに来たとき、今日の日食報告会の議場になっている、裏側の建物の方に人がぞろぞろ曲がって行くのが見えた。年輩者が多かったが、どの肩にも、弁当を詰めた鞄が下がっていた。石内は辺りを見回したが、他社の者の顔はあまり見当たらなかった。今日の日食報告会が地味な内容なので、他社ではあまり取材欲を唆らなかったらしい。
●「微笑の儀式
(黒の様式 第B話)
春の終わりから夏の初めに移る季節だった。鳥沢良一郎は、奈良から橿原神宮方面行きの電車に座っていた。車窓に動く午前の明るい陽射しは彼の白髪をきらめかせた。彼は、その陽のぬくもりを肩に愉しみながら本を読んでいた。鳥沢良一郎博士は、ある大学の法医学教授を二年前に退職した。今では別の大学にときどき講義に行く以外、べつに忙しい仕事も持たない。いや、もう一つ、大学の講義以外に、警視庁の科学捜査研究所の嘱託という名で、十日に一回ぐらい、警視庁に話をしに行っているが、これは前に関係の深かった法務関係の人たちから特に頼まれたもので、いわば余生の片手間だった。鳥沢博士は教授のころ、裁判の鑑定をずいぶん頼まれた。彼は血液型の研究が専門で、その方面では世界的な学説を出している。鳥沢理論というのは、現在でも法医学に業績を固定させている。遺伝も彼の専門となっている。鑑定もそうした方面が多いが、もちろん、それだけに限定されたのではない。裁判鑑定はあらゆる分野のものを引き受けなければならなかった。
●「小説帝銀事件 R新聞論説委員仁科俊太郎は、自分の部屋での執筆が一区切りついたので、珈琲でも運ばせようと思って、呼釦を押すつもりであった。窓を見ると、雨が晴れたばかりで、金閣寺のある裏山のあたりの入り組んだ谿間に、白い霧がはい上がっている。南禅寺の杜も半分は白くぼやけている。ホテルは蹴上にあって高いところだし、部屋は五階だから、このように俯瞰した眺望になるのである。下には大津行きの電車が、まだ雫の落ちそうな濡れた屋根を光らせながら坂を上がっていた。どのような美しい窓からの景色も、ホテルの長滞在の間には感興を失うものだ。仁科俊太郎は、この部屋で茶を喫むことを思いとどまって起ち上がった。場所を変えたいが、外出すると時間がかかる。四階に広いロビーがあるのでそこで憩むことにした。彼は上着をつけて廊下に出た。すぐ下だからエレベーターを利用する必要はない。彼は緋絨氈を敷いた階段をゆっくり降りた。
●「ある小官僚の抹殺 昭和二十××年の早春のある日、警視庁捜査二課長の名ざしで外線から電話がかかってきた。呼び出しの相手を指名しているくせに自分の名前を云わない。かれた、低い声である。課長は受話器を耳に当てながら、注意深く声の背景を聞こうとした。電車の音も、自動車の騒音もなく、音楽も鳴っていなかった。自宅から掛けているという直感がした。話はかなり長く、数字をあげて、内容に具体性があり、聞き手に信頼性をもたせるに十分だった。重ねて名前を聞くと、都合があって今は云えないと、かれ声はていねいに挨拶して先に切った。ふだん話をするのになれた人間の云い方であった。いうところの汚職事件が新聞に発表されたとき、人は捜査当局の神のような触覚に驚く。いったい、どのようにして事件の端緒をかぎあてたのだろうかとふしぎな気がする。多くは、彼らの専門的な技能に帰納して、かかる懐疑を起こさないかもしれない。しかし、職業の概念に安心するのは、そのゆえにあざむかれているのである。
●「日光中宮祠事件 この事件の小さい紹介は、警察図書の出版社から発行している雑誌「捜査研究」に掲載されている。私はこれを読んだとき興味をもった。いったい、この雑誌は月々一項はかならずこうした捜査ケースを載せているが、なかにはつまらないものがあるけれど、この事件だけはおもしろかった。筆者は東京近県の県警察本部刑事部長のK市である。去年の晩秋、私はたまたま紹介する人があって当のK市に会った。東京から電車で一時間とかからないでその県にはいるが、土地の古い料亭で、川魚料理をいっしょに食べながら話は聞いた。料亭の裏は釣堀になっていて、すでに寒そうな池の水にはいわし雲が映っている。掘をのぞきこんだ柿の枝には赤い実がついている。向こうの枯れた平野には家がまばらで、時おり、電車の音が聞こえてくるといった環境であった。
●「皿倉学説 採銅健也は六十五歳になる。井之頭近くに住んでいて、週に一度、R医科大学に電車で通う。自宅からバスに乗り、吉祥寺駅から一時間ぐらい電車に揺られて都心に近い駅に降りる。ここから学校までは五〇〇メートルぐらいで、ゆるい坂道を上がって行く。この学校では教授となっているが、べつに講座を持っているわけではなく、ときたま気の向いたときに、孫のような学生に話をしてやる程度だった。学生たちは、高名な採銅教授が顔を見せるというのでかなり集まる。採銅教授が定年で官大を退職してここに拾われたのは、弟子の長田盛治たちの好意によった。生理学の大家として知られてきた採銅健也が名誉教授としてその官大の教授会に危うく否定されかかったのはさまざまな理由があるが、主として教授の身辺にとかくの噂があったからである。
●「脊梁 ほとんどの小説には背景になる土地が指定されてある。東京だったり、地方だったり、小都市だったり、山村、海浜だったりする。しかし、これは雰囲気を出す以外にあまり意味がない場合が多い。どこにでも起こりうる人生の話には、舞台の指定を必ずしも必要としないからである。少なくとも、この話は、日本のどこでも起こる可能性を持っている。東京××区にしてもよいし、青森県××××村にしても一向に差支えはない。しかし、ぼんやりした具体的なイメージを読者に与える上から、とにかく東京の或る郊外の新開地としておく、都心から西北に電車に乗って約四十分、付近は、十年前までは農村とまばらな市街地とであったが、近年、工場の誘致と住宅地の激増で発展したところである。一本の必要な道路は舗装されているが、少し外れると、昔から村道が畦道と紛らわしい恰好でうねうねと曲り、雨が降れば、長靴が泥濘にぬかるむ。
●「行者神髄
(【文豪】1.)
一月下旬から伊豆の伊東に仕事を持って行っていたわたしは、一週間ぶりに宿をひきあげることになった。伊東駅から電鉄に乗らずタクシーで熱海に向かったのは、電車待ちの退屈をきらったのでもなく、一刻も早く熱海駅から新幹線の「こだま」をとらえて帰京を急ぎたいからでもなく、伊東の宿に滞在している間に果たせなかった熱海市の水口町に行っててみたかったからだ。宿では締切の迫った原稿を書いていたので、近くなのにその時間がなかった。二月初めのその日は朝から小雨が降ったり熄んだりして、海岸沿いを走るタクシーの窓からは近くの波しか見えず、沖合は灰色の海霧が黒い斑ら雲につづき、東の空ほど暗くなっていた。「熱海はどこですか?」
錦ヶ浦を越えたところで運転手は髭の濃い顔を半分横にしてきいた。
●「隠花平原」(下) 修二は、翌朝十時ごろ、東京駅に行った。電車に乗る前に構内から、R新聞の城西支局の吉田に電話した。まだ出社していないかとも危ぶんだが、その吉田の声がいきなり受話器に出た。「いま、あなたのほうに電話しようと思っていたところです」と、吉田は弾んだ調子で云った。その精力的な顔が浮かぶような声だった。「え、何かありましたか?」修二は訊き返した。「例のタクシーのことですが、あれはやはり嘘らしいですね。下諏訪に行ったことですよ。こちらから下諏訪の支局に頼んで、あの辺の宿を全部調べてもらったんです。東京から運転手付きのタクシーが来て四月六日に泊まったとなると、すぐに分かりますからね」「なるほど」「ところが、そうした旅館は一軒もないということです。運転手は泊まった旅館の名を云ってないし、出鱈目だったことはほぼ確実です」

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