題名 | 小説 帝銀事件 | |
読み | ショウセツテイギンジケン | |
原題/改題/副題/備考 | ||
本の題名 | 松本清張全集 17 北の詩人・象徴の設計■【蔵書No0098】 | |
出版社 | (株)文藝春秋 | |
本のサイズ | A5(普通) | |
初版&購入版.年月日 | 1974/01/20●初版 | |
価格 | 880 | |
発表雑誌/発表場所 | 「文藝春秋」 | |
作品発表 年月日 | 1959年(昭和34年)5月号~7月号 | |
コードNo | 19590500-19590700 | |
書き出し | R新聞論説委員仁科俊太郎は、自分の部屋での執筆が一区切りついたので、珈琲でも運ばせようと思って、呼釦を押すつもりであった。窓を見ると、雨が晴れたばかりで、金閣寺のある裏山のあたりの入り組んだ谿間に、白い霧がはい上がっている。南禅寺の杜も半分は白くぼやけている。ホテルは蹴上にあって高いところだし、部屋は五階だから、このように俯瞰した眺望になるのである。下には大津行きの電車が、まだ雫の落ちそうな濡れた屋根を光らせながら坂を上がっていた。どのような美しい窓からの景色も、ホテルの長滞在の間には感興を失うものだ。仁科俊太郎は、この部屋で茶を喫むことを思いとどまって起ち上がった。場所を変えたいが、外出すると時間がかかる。四階に広いロビーがあるのでそこで憩むことにした。彼は上着をつけて廊下に出た。すぐ下だからエレベーターを利用する必要はない。彼は緋絨氈を敷いた階段をゆっくり降りた。 | |
あらすじ&感想 | 仁科俊太郎は、R新聞の論説委員。 小説のタイトルは、「小説 帝銀事件」だから、小説と銘打っていても実際の事件を取り上げている。 蛇足的研究にも書いたが、概要は以下の通りである。 ●帝銀事件(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』) 事件発生直後の現場の様子 場所 東京都豊島区長崎(現在の豊島区長崎1丁目) 標的 帝国銀行 日付 1948年(昭和23年)1月26日 概要 毒物殺人事件 死亡者 12名 犯人 平沢貞通とされている ★帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店 (1950年に統合閉鎖され、現存しない)に現れた男が、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。 画家の平沢貞通が逮捕され死刑判決を受けたが、平沢は獄中で無実を主張し続け、刑の執行がされないまま、1987年(昭和62年)に95歳で獄死した。 第二次世界大戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、後述のように多くの謎が残るため、未解決事件とされることもある。 ●年表 1947年10月14日:安田銀行荏原支店で類似事件。 1948年1月19日:三菱銀行中井支店で類似事件。 1948年1月26日:帝国銀行椎名町支店で事件発生。 1948年8月21日:捜査本部の名刺班が画家の平沢貞通を北海道の小樽で逮捕。 1948年8月26日:検事・高木一による平沢の取調べが始まる。 1948年9月23日:平沢、自供を始める。 1948年12月10日:東京地裁で第1回公判。平沢は自白をひるがえし、帝銀事件については無実を主張。 1950年7月24日:東京地裁で死刑判決。 1951年9月29日:東京高裁で死刑判決。 1955年4月6日:最高裁で上告棄却。死刑が確定。 1959年11月10日:松本清張『小説帝銀事件』出版。GHQによる謀略説。 1960年1月-12月:松本清張『日本の黒い霧』雑誌連載。GHQによる謀略説。 1962年6月28日:「平沢貞通氏を救う会」結成。 1962年11月24日:平沢、東京から、仙台の宮城拘置所に移送される。 1964年4月12日:熊井啓監督の映画「帝銀事件 死刑囚」公開。GHQによる謀略説。 1965年3月19日:帝銀偽証事件で「救う会」代表を逮捕。 1985年4月29日:平沢、仙台から八王子医療刑務所に移送。 1987年5月10日:平沢貞通、八王子医療刑務所で死去。95歳。 1989年5月10日:第19次再審請求。 2015年11月24日:第20次再審請求。 冒頭の仁科俊太郎が京都の何処のホテルで、何を執筆しているのかまるで分からない。 そして、上記の年表からしても何時の時期かハッキリしない。 仁科俊太郎は、ロビーで知った顔の男を見つける。その男は、警視庁の要職に就いていたが、今はある公団の理事をしている、岡瀬隆吉。 挨拶を交わし、二人は、話し始めたが、岡瀬は外国人の男を見つけ、不愉快な顔に変わった。 岡瀬が見つけたのは、アンダースンと呼ばれる男であった。仁科もその名は聞き覚えがあった。 仁科は、アンダースンに会ったことは無かったが、岡瀬隆吉は話し始めた。 >「ひどい奴ですよ。わが儘で、自分の言う通りにならなければ癇癪を起こして、すぐに日本政府の役人にピストルを見せびらかすんですからね。猛牛のように無知なんです」 岡瀬隆吉は罵った。 罵りながらも、岡瀬の話は、聴き手の仁科の賞賛に饒舌になっていった。岡瀬の話が「帝銀事件」に及ぶと急に話が澱み始めた。 調子に乗りすぎた反省が岡瀬に見えた。狼狽えているようだった。 仁科は言った。 「帝銀事件にも?」 二人の話は、岡瀬の待ち合わせの相手が来たことを理由に、岡瀬は、話の方向を巧妙に変えながら終わった。 仁科俊太郎は、岡瀬隆吉の迂闊な話題に取り憑かれた。 小説の舞台は、事件現場に移る。帝国銀行、椎名町支店。 小説ではあるが、現場の状況がリアルに描かれている。逆に小説だからこそ客観的にリアルである。 清張が、「小説 帝銀事件」にした理由でもあるのだろう。 作家は、神となって現場の全てを客観的に把握している。だから、事細かに描くことが出来る。 第一回緊急電の電文は、このように打たれた。 刑事部長、一月二十六日午後六時半、緊急各司目白一号 本日午後三時スギ管内長崎一ノ三三帝国銀行椎名町支店ニ左ノ男来タリ、都ノ者ダガ、イマ進駐軍ガ消毒ニ来ルカラ、 薬ヲ飲ンデイテクレ、ト銀行員ホカ十五名ニ毒薬ヲ飲マセ、毒殺シ逃走ス(七名死亡)。被害金不明。犯人相四十年位。他不明。 続いて同六時四十分には、 殺」訂」本日一号ノ左ノ通リ、犯人相四十五、六歳、五尺二寸クライ、ヤセ型、丸ガリ、ネズミ色オーバー、白腕章 これが苦悶している被害者たちから聞き得た犯人の最初の特徴であった。 事件がGHQとの関わりを示すことになる証言をしたのは、支店長代理の吉田武二郎だった。 東京都の赤い印の腕章をつけた男が、名刺をだし、東京都衛生課並びに厚生省厚生部医員、医学博士と書いてあった。 支店長代理は名前は思い出せないと言った。男は、長崎に二丁目の相田という家の井戸で集団赤痢が発生した。このことがGHQのホートク中尉に報告があり、 すぐ行くから、お前は先に行けと言われてきたと話した。ホートク中尉は後から来る消毒班を指揮することになっている。 その消毒の前に「予防薬」を飲んでもらうことになったと言った。 帝銀事件の毒殺は、「予防薬」をもってして実行されたのだった。 支店長代理の供述の中で進駐軍の係名は、ホートク中尉であったが、ホーネット、またはコーネットに改められた。 犯人の人相は、鼻筋の通った品のいい好男子であったことは、生き残りの四人とも証言している。 犯人は、手馴れた様子でスポイトのようなものを使って茶碗に注ぎ分けた。支店長代理の証言では、犯人お手つきは巧みだったが「手が無骨すぎた」と証言している。 飲まされた薬の味、色、臭いなど証言は微妙に違っていた。二回目に飲まされた薬は、水のようだったと一様に証言した。 不幸なことに、事件当初は、集団中毒と思われて現場の保存など殆ど出来ていなかった。 徹底した指紋採取がおこなわれ、誰の者とも分からない指紋が二つ発見された。 捜査は初めから難航が予想された。 このような事件には、類似の事件とか、未遂の事件があるはずだと江田捜査係長は主張し、その着眼点は当たっていた。 新宿区下落合の三菱銀行中井支店で帝銀事件の一週間前に未遂事件があった。 事件の細かい経緯や概要など様々に語られ、書かれてもいるので省略するが、清張は犯人の特定を進めるために外堀を埋めていくように事件に迫る。 問題になる幾つかのポイントがある。 事件には二枚の名刺が使われる。松井蔚(マツイシゲル)は実在の人物(本人が配った「厚生技官 医学博士 厚生省予防局」記入の名刺) 類似した事件があった。犯人は同一人物らしく、それぞれの事件現場に顔を出している。 帝銀事件で使用された毒物は青酸化合物らしいのだが、百二、三十種類あって特定できていない。 事件の様子から、医学関係・毒物などに詳しい人物が考えられる。 帝銀事件の際持ち去られた小切手が翌日換金された。換金の際に筆蹟も残されていた。 最初の事件現場では指紋も採取されていた。 比較的証拠もありそれほど難解な事件とも思われない。 ただし、捜査関係者を始め多数の人物が登場する。 モンタージュの作成が始まる。似顔絵画家の小川寅治に協力を求める。(不思議なことに「小川寅治」が実在の人物かは不明) 松井蔚の捜査のため、事件翌日には、松田警部補班、塚本部長刑事は仙台に向かった。 すれ違いに、仙台に住む松井蔚は、事件を新聞で知り、東京の捜査本部に出頭した。 「蔚」の文字が特殊なため、名刺は松井本人のものだとすぐに分かった。 松田警部補は、古志田警部補に代わったが、彼の粘り強い捜査は誰に渡されたかに迫る状況までたどり着けそうになった。 交換先不明の名刺は十一枚というとこまでこぎ着けた。 松井蔚は、几帳面な性格らしく、名刺交換した相手を記録していた。その中に「平沢大瞕」という人物がいた。 平沢大瞕は、平沢貞通の雅号で大暲(たいしょう)、後に光彩(こうさい)を名乗った。 ここで、「帝銀事件」の犯人とされた平沢貞通が登場するわけであるが、当時の捜査状況は平沢を捜査線上から外す状況だった。 ただ、名刺関係の捜査は続いていて、古志田警部補と福島刑事は、平沢に会うために小樽へ向かっていた。(平沢の実家) 平沢の家を探してあてた古志田警部補は、腑に落ちない体験をする。平沢の家では、弟が出てきて対応した。玄関に待たせたまま、二階に上がっていった。六,七分待たされた。二階に通され、両親を紹介された。父親が重態との情報があったが、元気だった。案内された部屋は平沢の仕事部屋の様だが、仕事をしていた雰囲気は無かった。 古志田警部補は驚いた。平沢貞通は手配の人相写真にそっくりだった。しかし、同行した福島警部は、別に疑いを持っていない様に見えた。 古志田警部補は、平沢家を辞した帰り道、平沢が犯人に間違いないと力説した。 ここまでの状況は、平沢貞通犯人説の状況証拠を読者に徹底して報せている感がある ただし、捜査の主流は軍関係の追及にあった。 事件の核心は、毒殺事件である事であった。毒薬の必要な知識を持ち、操ることが出来る人物、毒薬の入手が可能な人物を探すことであった。 そして、冷酷な事件を実行しうる人物像が背景に在ると考えられていた。 「小説 帝銀事件」も、軍関係の捜査に移る。七三一部隊も登場することになる。 清張と「七三一部隊」にはある因縁がある。森村誠一の「悪魔の飽食」が書かれた経緯が二人の関わりを示しています。 ※パンドラの過去「松本清張と森村誠一」を参考にしてください。 清張が七三一部隊に興味を持っていたことはあきらかである。「悪魔の飽食」が書かれる20年前の話である。 捜査の主流が軍関係に移ったかに見えたが、大きな壁に突き当たる。 >推察できることは、主流派の軍関係の捜査が、不意に、途中で、巨大な壁に突き当たって、絶望しなければならなかった、ということである。 平沢は再び捜査の主な対象になって行く。 伊豆の伊東市の海老名旅館に3日間逗留し、東京の中野の自宅に帰った。自宅には二日ほどいただけで北海道へ旅行に出た。 北海道は、小樽市で平沢の故郷であるから帰郷と言うことである。この帰郷は、弟の貞健が結核で重態のため予定された行動であった。 小樽署の刑事が二人訪ねてきて松井蔚との名刺交換を尋ねた。 平沢の説明は淀みなく、二人の刑事も納得したように帰って行った。 夕方に別の刑事かもう一人来た、なんとも奇妙な経緯だった。 平沢は、弟の貞健を旭川に見舞った。この弟は貞通が見舞った十日後に死んだ。 この間の経過を平沢自身が獄中で書いたものがある。その中に小樽署の刑事達と鮨屋で記念写真を撮っている。さらに、茶碗でお茶を飲んだが、これが指紋採取でもあった。なんとも不思議な行動であるが、仕組まれたものであることはあきらかだった。 今であれば、写真など他の方法で入手することなど簡単ではないだろうか、指紋の採取も同じはと考えるが、時代的制約なのだろうか? 東京に帰った古志田警部補は写真を江田係長や前岡捜査課長に見せたが、似ていないと相手にされなかった。 二人は軍関係追及の急先鋒だった。実際に犯人の顔を見た、吉田支店長代理と阿久沢好子にも見せたが、似ても似つかないと一蹴された。 古志田警部補は、写真撮影時に平沢が表情を変えた思っていた。 逆に、平沢をよく知る人物に聞くことにした。平沢のパトロンとされる、鉛筆会社の社長佐藤健雄に確認した。 ところが、佐藤健雄が、調べに向かった刑事に言った言葉記述されているが、写真が平沢に似ているかどうかのハッキリした記述が無い。 文章の終わりに、記述は公判で古志田警部補が述べた証言とされている。 しかも、その証言は佐藤の話と違っていた。 捜査本部内での捜査方針を廻って対立があるように描かれている。江田係長や前岡捜査課長と古志田警部補の対立である。 古志田警部補は、平沢犯人説から様々な状況証拠を集めてくる。 事態は劇的に変化する。 平沢貞通は、古志田警部補によって逮捕されたのだった。 古志田警部補は、一芝居打って平沢貞通を小樽市署へ呼び出し、芝居がかった場面で逮捕状を読み上げた。 平沢の東京までの護送は、平沢の「ありのまま記」に書かれていて、その内容らしい記述が続く。 第一部が終了だ。 逮捕されてからも平沢貞通の供述はハッキリしない。自白もしない平沢、関係者の面通しも明確な結論は得られない。 苛烈を極める取り調べと、「日本堂」に関する詐欺事件を自白してがんじがらめにされた平沢は自白のそぶりを見せて、義弟の風間龍に面会させてくれと求める。検事は、自白の可能性を信じて面会を認める。 しかし、平沢は、面会に来た風間龍に事件の核心には何も触れなかった。再び、帝銀事件について告白すると言って、風間龍に面会を許される。 「龍ちゃんよく信じてくださいよ、ごらんなさい、あることはある、ないことはないと十分申し上げますから、命がけで申し上げますから、私は龍ちゃん、帝銀のことに関しては、天地神明に誓って犯人じゃありません」 この頃から、平沢の供述は支離滅裂で警察も手を焼いた。 証言者の証言も調べれば辻褄が合わなくなるし、平沢に有利と思われる証言も、肉親の証言と言うことで証明できない。 細かい証言内容の不一致など省略するが、はたして、平沢貞通は帝銀事件の犯人なのだろうか疑問を残しながらも >---事件捜査は終わったのである。 >警視庁の支流に冷たい眼で見られながら、こつこつと名刺の線を辿っていた地味な、目立たない傍流が勝ったのだ。 >眼の前に遮断されたままになっていた軍関係の主流派が「北海道で狐に憑かれた男」に屈服したのである。 >軍関係捜査は消えた。 平沢は自供したが、稲佐検事は裏づけをしなければならない。 毒薬の入手・スポイト・犯行時交換した名刺・平沢のパトロンとされる人物(椎熊三郎・林輝一・清水虎之助)・清水虎之助については平沢の作り上げた人物と言うことになった。最後に動機が問題になった。自白した平沢は、壮大な動機を稲佐検事に話す。 平沢の動機は、要約すれば、「テンペラ画復興の資金」と言うことで、稲佐検事も認めた。 一応自白しながら掴み所のない話もするし、前言を度々替え嘘もつく。平沢の人間性すら疑いたくなるのであった。 虚言癖でもあるのか、逮捕後も平気で嘘をつくので、警察も振り回されれる事になる。 >「お前の言っている嘘をならべたら、どれだけあるか分からないよ」 と言うと >「たしかにそうです」 一事が万事、こんなありさまだった。 それでも、起訴され、公判に廻された。 小説は、始めに登場する人物に戻る。 R新聞論説委員仁科俊太郎は、「強盗殺人被告平沢貞通」の捜査記録や検事調書、検事論告要旨、裁判記録、精神鑑定書、被告人手記、弁論要旨などを読み耽っていた。 仁科俊太郎は、教育関係が専門で、帝銀事件のような刑事事件は専門外で読むことにも苦労した。 仁科は、専門外の事件を熱心に調べる事を訝る女房の質問に答えた。興味を持ったのは、彼が外国に行っている間の事件だららと。 死刑判決も出ていることだし、女房はあんな極悪人はさっさと死刑になれば良いのにと言った。 「判決と執行は別だ」と言う仁科に、「どうして別なのかしら?」と納得がいかないようだ。 女房の言い分は、たった一人しか殺されていない事件でも死刑になっている。十二人も殺して....これには仁科も反論できない。 ただ、仁科は別な感想を持っていた。その一つは、「獄中で病死をするのを待っている...」 もう一つは、この事件には確証が無いことである。 仁科俊太郎は、検事論告を全て読み終わって、自らが書いたメモを見た。 名刺・面通しの人相・小切手の筆蹟 これが「直接証拠」と言える物だった。 ともかく、平沢貞通の逮捕・起訴によって、軍関係の捜査は消えた。 仁科はここで、ホテルのロビーで岡瀬隆吉に会ったとき、岡瀬の洩らした一言を思い出していた。 「アンダースンが、帝銀事件のときもね」 弁護団が結成された。 主任弁護人正木亮・山田義夫・松本嘉一・向山義夫・高橋義一郎で構成された。 仁科は、弁護団の主張を読むことになる。 当然、検事の論告に対比されるのであるが、平沢のアリバイや筆跡鑑定の弁護団の反証が面白い。 筆跡鑑定の科学性を否定している部分など当時としては当然だろう。筆跡鑑定で平沢の犯人説を後押しした形になった鑑定人が、過去の事件で個性鑑定なる手法で「確実」としながら間違いを犯していた反証など説得力がある。 平沢の人相についてである。 似ているとは、顔全体の印象であり、これも断定的にはなかなか言えない。驚いたのは犯人との面通しが取り調べに立ち会いながら行われていることである。私の知る限りでは、刑事ドラマなどである、取調室内が見える小窓があり、そこから覗いて確認するシーンなどである。 一時間に近い取り調べに立ち会い、追及される容疑者を見ながらの面通しは、犯人を誘導しているようなものである。 仁科の検事の論告、弁護団の反論を読んだ上での感想が清張の見解と重なる。 >平沢の人相が犯人の顔に似ていることは、間接証拠として、最も強力のようで、実は、一ばん脆弱な点ではなかろうか。 ここで、平沢をひいき目に見ている者にとって厄介で説明に困る事実がある。 事件後に平沢は大金を手にしている。その大金の出所を説明できていない。説明できていないと言うよりも説明しないのである。 主任弁護人の正木亮は、その事も理由で、主任弁護人の地位を降りている。 平沢貞通の事件前に起こした詐欺事件と相まって、平沢犯人説に一般的な裏づけを与えることになる。 大金の入手について面白い説が書かれている。平沢が「春画」を書いて、大金を手にしたのではないかとする説である。 それなりの画家である平沢が、「春画」を書けば相当の金を得ることが出来るのである。ただ、彼の画家としてのプライドはそれを語ることは出来なかったとする話である。それなりに説得力を感じるが、証明のしようがない。春画の現物が出てこないのである。 仁科俊太郎は、考える。平沢貞通のような容疑者はいくらでもいるだろう。実際に捜査線上にも幾人かの容疑者が浮かんでいる。 帝銀事件の容疑者の特徴は、医療関係者で、毒物の知識があることにあった。松井蔚も容疑者の一人だったがアリバイがあった。 もう一つ、犯人像として考えられたのは、残忍冷酷な犯罪を実行しうる性格というか人間性である。 清張は、日本の黒い霧第八話「帝銀事件の謎」(原題:画家と毒薬と硝煙)で面白いことを書いている。 >詐欺事件と大量虐殺事件とは、自ら質が別だ。だが、一般的には、そのような悪いことをするから大量の毒殺もやりかねない。 >と言う印象にとなる。しかし、詐欺を働く者には殺人ができない。と言う信念は、誰より捜査に携わる熟練の捜査員達が知っている筈だ。 >詐欺と殺人とは根本的に犯人の人格が違うのである。 しかし、そんな特徴にも当てはまらない平沢が逮捕されたのだった。 仁科は、捜査方針が急転換し、軍関係者から平沢逮捕に至ったことに疑問を持ちながら、軍関係の捜査は、どの程度の広がりと深さを持って行われたのか調べ始める。 しかし、平沢については詳しく教えてくれるが、軍関係の情報は自社の記者達を含めて他社の記者もハッキリした返事をしないのである。 当時の記者達が、警視庁の発表だけを伝達していた結果ではないかと仁科は考えた。 それでも、仁科は捜査の片鱗を聞き出すことに成功した。 警視庁の軍関係の主な捜査対象は、川崎市登戸の第九技術研究所と大陸の謀略部隊、第731部隊だった。 第731部隊は、石井中将(石井四郎)率いる部隊で毒物の研究をしていた。後に、森村誠一が「悪魔の飽食」で告発した部隊だった。 石井中将ら一部幹部は、終戦後秘密裏に帰国したが、占領軍に確保され、占領軍司令部の技術嘱託となったのである。 帝銀事件の捜査本部は、石井中将の身辺に着実に迫っていたのだった。 不幸なことに、戦後の状況が帝銀事件に影を落とすことになる。 731部隊の残留部隊は、ソ連に捕まり、戦犯として裁判にかけられた。軍事機密として重要な意味を持つ731部隊の成果?は、米ソに分断される形で、それぞれの軍隊に持ち込まれることになった。 仁科は、裁判記録を読むことが出来たが、そこには肝心の青酸カリに関連するような研究も実験も書かれていなかった。 >帝銀事件当時、731部隊の某幹部が「オレの旧部下がやったかもしれない」と洩らしていた。 犯人に迫りつつあった捜査が急転換したのは、捜査が大きな壁に突き当たったからだろう。 仁科は、岡瀬隆吉が不用意にもらした『あの時は、アンダースンがね...』に突き当たったのだった。 清張が、あえて「小説」のタイトルを付けて書いたにしては歯切れの悪い終わり方に思える。 仁科俊太郎の結論は 第一審の裁判長はともかく判決を下した。しかし、第一審裁判長の気持ちの中には、第二審の裁判長、最高裁の裁判長への恃みが全く無かったとは言えまい。まだ最高裁がある、というのは、ひとり被告の側だけの叫びではなかろう。 と結んで締めくくっている。 事実、最終的に、歴代法務大臣も死刑執行命令に署名しないまま、1987年(昭和62年)5月10日午前8時45分、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。95歳だった。 事件の背景に終戦後の米ソの対立があったのでは、それは戦争勝利国として日本軍から得られる情報(毒薬・細菌)を独占しようとする企みだったのでは。あの731部隊が人体実験までして得た情報・資料は価値あるものだったのだろう。 如何なる科学者も手にすることの出来ないデータなのだ。 ●小説という名の小説は、以下の通りである。 小説 3億円事件「米国保険会社内調査報告書」 小説 帝銀事件 小説 東京帝国大学 砂の審廷 小説 東京裁判 一応読んだ気になっているのは、3億円事件と帝銀事件だけである。 「小説三億円事件」と「小説帝銀事件」の相違だが、未解決事件と法的には決着が付いた事件の違いが大きい。 (帝銀事件は今なお再審請求がされている)実在の事件がテーマだが、小説にはフィクションがつきもので「3億円事件」では自由な発想で犯人に迫っている感じがする。一方、「帝銀事件」は、法的な決着が付いているので登場人物も捜査関係者は架空の名前で書かれている。 犯人(平沢貞通)サイドの登場人物は実名で書き分けられている。フィクションも組み込まれていないように思える。 ************************************************************ ■「小説 帝銀事件」の覚え書き■ 犯行で得た金銭の使い道の全貌がハッキリしない。 犯行に使われた毒薬の特定が出来ていない。 時々出てくる「アカハタ日記」が、分からない 四つの事件 ①帝国銀行椎名町支店の毒殺事件 ②荏原の安田銀行荏原支店の同種の事件(犯行は失敗する) ③三菱銀行中井支店での犯行未遂 ④安田銀行板橋支店での事件(帝国銀行の犯行の贓物である小切手を現金化する) を共通の犯人とする検事の陳述が具体的証拠で裏づけされなければなりません。単独犯なのだろうか? 私の読み落としかも知れませんが、一つ気になる点があります。それは「指紋」です。事件現場に残された茶碗から採取された不明の指紋が登場する場面がないのです。平沢の指紋は小樽で採取されていますので当然比較され結論が出ているのでしょうが記述がありません。 平沢貞通のすぐバレるような嘘の供述がたくさんあることです。それも、自白後の供述に見られることです。何の意味があるのだろうか? 平沢は、弟(貞健)の死に顔を見て、帝銀事件の死者を思い出し自白をする決意をしたとか、犯行前に進駐軍のジープが防疫に為に近所にいたことを利用して、帝銀事件の説明をしようとした。これらの事は嘘で有ることがハッキリしたのである。 平沢の不合理な説明は、コルサコフ症状で説明できるのだろうか?病的である事も感じられる。 ②の荏原の安田銀行荏原支店の同種の事件(犯行は失敗する)は、帝銀椎名町事件と同様、行員に薬を飲ませている。全く同じ手口を予行練習のように実行している。 順番は、②→③→①→④の順で犯行は行われた。 犯行の翌日に、小切手を現金化している。その割には、かなりの現金を帝銀事件の現場に残している。 現金化に、事件の翌日に、大した金額でもないのにノコノコ危険を犯して出向くだろうか? 事件は単独犯のだろうか? ●コルサコフ症状 コルサコフ症候群は、主にアルコールの多飲に伴うビタミンB1欠乏によって生じるウェルニッケ脳症の後遺症として発症する認知症です。 この病気について報告したロシアの精神科医セルゲイ・コルサコフにちなんで病名が付けられました。 ウェルニッケ脳症と併せて、「ウェルニッケ・コルサコフ症候群」とも呼ばれますが、ウェルニッケ脳症は発症せずに(もしくは気づかずに)認知症として受診し、コルサコフ症候群と診断されることもあります。 アルコールの多飲だけでなく、低栄養・消化管の切除・透析などによって、脳の活動に必要なビタミンB1が欠乏し、ウェルニッケ脳症を経てコルサコフ症候群を発症することもあります。 ウェルニッケ脳症は早期の適切な治療により改善が期待できますが、コルサコフ症候群に移行すると回復は望めません。 コルサコフ症候群の症状 記銘力障害(最近の出来事を記憶できない)、失見当識(時間や場所など自分が置かれている状況が理解できない)に加えて、作話がみられます。 作話とは記憶障害の一種で、自分が覚えていない記憶を補おうとしたり、誤った記憶をつなぎ合わせたりして無意識に話を創作することです。 本人は嘘の話をしているという意識はなく、相槌を打つなどの会話スキルが保たれている場合もあるため、初対面では作話であることに気づかないこともあります。 平沢貞通は33歳のとき、狂犬病の予防注射を受け、その副作用として記憶障害を主症状とするコルサコフ症候群を発症した。そのため、平沢は、誰にでも分かるようなその場かぎりの作話をするようになった。 平沢は、目撃者からの情報によってではなく、「松井」名刺の線から「犯人」として浮びあがったというだけ。平沢を有罪とした判決はいくつもあるけれど、結局、平沢の「自白」と目撃者の供述だけ。帝銀事件を平沢につなぐ客観的な物的証拠は何もない。 平沢には詳細な「自白」がある。しかし、その「自白」によってあらたに暴露された事実というのは何もない。平沢の「自白」については、それを「補強すべき証拠」が物的証拠に関する限り皆無である。 ●エピソード 第2次佐藤内閣で法務大臣を勤めていた田中伊三次は、島秋人を含む23人分の死刑執行命令書に署名したが、この中で平沢の名を見付けた際、 「これ(平沢)は冤罪だろ」として執行対象から外している。 ■羅生門(証言について) 同じ場面を見ていても違う証言をしています。記憶違いと言うこともあるのでしょうが、己に有利な話をしてしまうのが人間なのでしょうか? 黒澤明監督の映画、「羅生門」が好きで、何度かDVDで見ています。平沢と平沢を逮捕した古志田警部補(居木井)の取り調べ場面など後に残された記録を読むと、二人は同じ場所にいて、言葉のやり取りをしていたにもかかわらず証言は違うのです。人が人を裁く難しさ、それも自白で裁く恐ろしさを痛感させられます。 ▲映画●帝銀事件 死刑囚(ていぎんじけんしけいしゅう)/公開年月日:1964/4/12 製作:日活 配給:日活 監督・脚本:熊井啓 ▲テレビドラマ●「帝銀事件」(サブタイトル「大量殺人 獄中三十二年の死刑囚」)。1980年1月26日 脚本 - 新藤兼人・監督 - 森崎東・監修 - 野村芳太郎 企画 - 霧プロダクション・原作:松本清張(日本の黒い霧・小説帝銀事件)「帝銀事件」 ▲参考書籍 【日本の黒い霧 第八話 帝銀事件の謎(原題=画家と毒薬と硝煙)】 ************************************************************ 2023年05月21日 記 |
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●以下捜査関係者 古志田警部補=居木井為五郎 稲佐検事=高木一 江田係長=甲斐文助 前岡捜査課長=堀崎繁喜課長 捜査関係者以外は実名で登場しているようだ。 平沢貞通・松井蔚・風間龍・平沢武彦(平沢貞通の養子/森川哲朗の息子)など... |
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●テンペラ画 テンペラは、卵や鑞、カゼインなど乳化作用を持つ物質を固着材として利用する絵具および絵画技法のことで、これで描いた絵画を「テンペラ画」と呼びます。歴史的には卵テンペラが最も代表的な絵具です。西洋絵画の歴史においては、長い間その主軸をなすのは漆喰の壁に描かれたフレスコ画や石膏の下地を施した板に描かれたテンペラ画で、油彩画が主要な位置を占めるのは16世紀に入ってからのことでした。「テンペラ」の語は「混ぜ合わせる」という意味のイタリア語「テンペラーレ」に由来し、画家が顔料と練り合わせ材を混ぜる行為を意味します。 2023年06月21日 記 |
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作品分類 | 小説(長編) | 131P×1000=131000 |
検索キーワード | 画家・青酸カリ・毒殺・小切手・小樽・GHQ・コルサコフ症状・テンペラ画・スポイト・名刺・731部隊・進駐軍・自白・人相書き・面通し・春画 |
登場人物 | |
平沢貞通 | テンペラ画家。帝銀事件の犯人とされ、94歳で獄中で死亡。横山大観の弟子、大観は後にそれを否定する。雅号は大暲(たいしょう) |
古志田警部補 | 捜査本部の名刺班主任。居木井(イキイ)為五郎がモデルと思われる。平沢を犯人と目星を付け厳しく追い求める。結果逮捕に至る。 |
松井蔚 | マツイシゲル。実在の人物、本人が配った名刺には「厚生技官 医学博士 厚生省予防局」 の肩書き。容疑者の一人だったがアリバイがあった。 戦時中、南方軍防疫給水部(9420 部隊)に在籍 → 原住民多数を毒殺した疑い. |
風間龍 | 龍は、平沢の義弟(妻マサの実の弟)の風間龍。平沢は取調べ検事に龍の介添つきで告白させてくださいといい、自白することを匂わせている。 |
鎌田リヨ | 平沢貞通の愛人の一人とされている。鎌田りよ(判決書では鎌田リヨ)は、判決がくだる直前に手記『生命ある限り』を出版した。 手記で、愛人関係は認めているが、金銭的には世話になっていないという。 |
稲佐検事 | 高木一がモデルと思われる。検事で、平沢の取り調べに当たる。 |
仁科俊太郎 | R新聞の論説委員。この小説では清張の身代わり的存在。 |
岡瀬隆吉 | 京都のホテルで偶然仁科俊太郎と会う。旧知の間柄である。警視庁の要職に就いていたが、今はある公団の理事をしている。 仁科との話の中で不用意に洩らした「あの時は、アンダースンがね...」の言葉に仁科俊太郎は突き動かされる。 |
アンダースン | GHQの将校? 岡部隆吉のアンダースン評「ひどい奴ですよ。わが儘で、自分の言う通りにならなければ癇癪を起こして、すぐに日本政府の役人にピストルを見せびらかすんですからね。猛牛のように無知なんです」 |