◎「半生の記」と自叙伝について◎ ---------------------------------------- hp登録上の不備と次なる興味について! 【私のものの見方 考え方(大和出版)】の登録内容が不正確でした。 「半生の記」と内容がダブル部分もあり「重複」を正確に登録しました。 ---------------------------------------- 実は、「半生の記」と今回蛇足的研究で取り上げた「田舎医師」の内容に共通点を発見して確認作業中に 登録内容の不備というか、不正確な部分に気がついた次第です。 松本清張は本格的に、自叙伝を書いていません。「半生の記」は、回想的自叙伝が原題ですが、本格的に書かれたものでは無いと思います。 「半生の記」のあとがきで >私は、自分のことは滅多に小説に書いては居ない。いわゆる私小説というのは私の体質に合わないのである。 >そういう素材は仮構の世界につくりかえる。そのほうが、自分の言いたいことや感情が強調されるように思える。 >それが小説の本道だという気がする。独自な私小説を否定するつもりはないが、自分の道とは違うと思っている。 >それでも、私は私小説らしいものを二、三編くらいは書いている。が、結局は以上の考えを確認した結果になった。 と,記述している。 小説の名を借りて「父系の指」・「骨壺の風景」・「田舎医師」・「暗線」などが多少自伝的な装いで書かれています。 清張作品を通じて、松本清張の両親と家族を改めて深掘りして見たいと思います。 今回はその助走とします。 (素不徒破人) |
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徹底検証【06】 |
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比較表 | |||
「半生の記」に関連して | 「自叙伝的な作品」登場人物 ●私小説的な部部を含む作品● 『父系の指』・『骨壺の風景』・『田舎医師』・『碑の砂』・『暗線』 |
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「半生の記」(改題) (エッセイ・発表(文藝):1963年(昭和38年)8月号~1964年(昭和39年)1月号) (原題=回想的自叙伝) 父の故郷/白い絵本/臭う町/途上/見習い時代/彷徨/暗い活字 /山路/紙の塵/朝鮮での風景/敗戦前後/鵲(カササギ)/焚火と山の町 /針金と竹/泥砂/絵の具/あとがき 「半生の記」は、上記の項目で書かれている。 その中で、「暗い活字」・「紙の塵」は、「私のものの見方 考え方」(大和出版) にも、取り上げられている。 なぜ、独立して取り上げられているかは不明ですが... ------------------------------ 松本米吉(峯太郎の養父) 松本タネ(峯太郎の養母) 松本清張 松本峯太郎 峯太郎は生後間もなく松本家に 里子に出される。 後に松本家の養子となる。 松本家は貧乏だった。 父を産んだ実母は、一時婚家を離れたことがあった。 が、峯太郎を養子に出した後復縁している。 峯太郎の生家は田中という。 峯太郎の実母は、日野郡霞の福田家から嫁いでいた。 復縁した実母は、二人の男の子をもうける。次男は死に、三男が育つ。 |
『父系の指』 (小説・発表(新潮):1955年(昭和30年)9月号) ▲登場人物 松本清張 松本峯太郎 峯太郎は生後間もなく松本家に里子に出される。 後に松本家の養子となる。松本家は貧乏だった。 里子(養子)に出されるときにすでに貧乏だった。 父(峯太郎)の生家は、西田と言った。 父を産んだ実母は一時婚家を離れたことがあった。 なぜ、峯太郎の実母が婚家を離れていたのだろうか? 後によりを戻したのか、婚家に戻り、子供をもうけている。 清張の弟になる次男を産んでいる。 深読みだが、峯太郎の出生には秘密がありそうだ。 例えば、峯太郎の実父は、タニの夫では無かったのでは・・・ 「金を儲けたら矢戸に連れて行ってやる。」が、峯太郎の口癖だった。 清張は私小説は体質に合わないと言っていたが、『父系の指』は、 私小説に近いと、『半生の記』に書いている。 |
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『田舎医師』 (小説・発表(婦人公論):1961年(昭和36年)6月号) ▲登場人物 杉山良吉=松本清張? 杉山猪太郎=松本峯太郎? 猪太郎は生後間もなく杉山家に 里子に出される。 後に杉山家の養子となる。 杉山家は没落する。 猪太郎の不幸が始まる。 「今に石見に連れて行ってやる。」 。 |
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「松本清張全集34巻」の (エッセイより) 1.「学歴の克服」(重複) 2.「実感的人生論」(重複) 3.「ほんとうの教育者はと問われて」 4.「碑の砂」(重複) ※5.以後は省略(5.「「西郷札」のころ」) |
『暗線』 (小説・発表(サンデー毎日):1963年(昭和38年)6月) ▲登場人物 三浦健庸 三浦健亮(三浦健庸の祖父) 新聞記者(私:松本清張?) 黒井利一(私の父:清張の父、峯太郎?) 須知国子(黒井利一の実母) ---書き出し部分--- 三浦健庸先生。先日は、突然お邪魔に上がって失礼しました。新聞社の「文化部次長」という肩書きのついた名刺をさし上げたのは、一面識もない私が、誰の紹介にも依らずにお目にかかる方法として、これよりほかになかったからであります。従って大学教授として、また文化財保護委員としてのあなたの専門である古代染色について話を伺ったには、面会の口実を果たしただけであります。私としては、あなたに直接お目にかかったことと、あなたのご祖父である三浦健亮博士の「古代剣の研究」についてのお話も少しばかり触れて頂きたかったからです。こう書くと、あなたは、それなら何故はじめからそう云ってこないのだとお腹立ちになるかもしれませんが、私としては、或る理由のため、(私に古代剣の知識がうすいこともありますが)正面からおたずねできなかったのです。 利一は、安積(アサカ)家の本家の生まれ。 >八歳のとき他国に出た父は一度もこの生まれ故郷である島根県に帰って >いません。尤も、父にはもう一つの故郷があるのです。それは同じ県の >仁多郡家神村です。 >ここは父の母、私にとっては祖母に当たる国子が嫁に行ったところで、 >本来なら祖母は父をその須地家で生もはずでありました。 >父の姓は須地でもなく、安積でもなく、黒井です。 >つまり、父は嬰児のとき黒井という家に養子に出されたのですが、 >この黒井は同じ能義郡の広瀬町にありました。 >従って父が生命を享けたのが屋神の須地家であり、 >この世の空気をはじめて吸ったのが安積家であり、育ったのが黒井家という、 >ちょっと複雑な関係になるわけです。 >もう少し具体的に云うと、祖母の国子は須知家で父を妊り、 >生家の安積家に還って生み、すぐに広瀬の黒井家に養子に >出したことになります。 >父の利一は須知家の長男でありながら他家に出されたのです。 少し長い引用になりましたが、なぜ養子に出されたかは詳しく書かれていませんが、その経緯は具体的に書かれています。 『半生の記』・『父系の指』に比較しても具体的です。 『暗線』には、父黒井利一の出生の秘密が触れられている。 それは、清張が自叙伝として書き残すにしては、残酷な現実がだったのでは無いだろうか?清張も確実なことは知らない暗線なのかも知れない。 ただ、この件は、清張のエッセイ『碑の砂』に触れられていて、 清張としては、解決済みのようだ。 「父の出雲への思いが書かれている。」 |
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「私のものの見方 考え方」 ◎わが人生観◎ Ⅰわが人生のとき 1.「学歴の克服」 〔「婦人公論」臨時増刊『人生読本』(1958年9月)〕(重複②) 2.「実感的人生論」 〔「婦人公論」臨時増刊『人生読本』(1962年4月)〕(重複②) 3.「暗い活字」 〔「文芸」(1963年8月~1995年1月連載『半生の記』より)〕(重複②) 4.「紙の塵」 〔「文芸」(1963年8月~1995年1月連載『半生の記』より)〕(重複②) 5.「碑の砂」 〔「潮」(1970年1月号)〕(重複②) ※Ⅱ社会の視点以下省略 |
『碑の砂』 (エッセイ・発表(潮):1970年(昭和45年)1月号) ---書き出し部分--- 私の父の故郷は、鳥取県の南部で、中国山脈の脊梁に近いところである。日野川の上流で、この地方は昔から砂鉄の産地として知られている。父はその村の農家の長男として生まれ幼時に米子市のある家に養子にやられた。里児だったらしいが、先方で返さなかったといわれている。それで松本姓になった。貧乏な家だったようだ。父の生家もそれほど裕福ではないが、山林など持っている中程度だった。その長男の父がどうして里児に出されたかよくわからなかった。父は知っていたかどうか分からないが、何も云わなかった。ただ、父の母に当たるひとは父を生むとすぐ十キロばかりはなれた山の中の実家に帰された。その事情は分からない。ところが何年かして、父の両親は再びいっしょになった。そうして二男を生んだ。復縁したとき、母にあたるひとが父を里親からとり返そうとしたが渡してもらえなかったという。 ----------------------------- 清張はこのエッセイの中で、長男でありながらなぜ他家に出されたかはその村では知ることができなかった。と書いている。 そして >最近になって、その秘密が分かった。 >父の母の実家に当たる親戚関係からの手紙で知らせてもらった。。 >秘密というほどではなかった。 >父の祖母に当たるひとが嫁との折合いが悪く、離縁させたというのである。 >実は私は、父の母が離縁されたことにもっと悪い事情を想像していたが、 >これで安心した。 と、書いている。 この「悪い事情」こそが肝で、思い切って云ってしまえば、 「不義の子」の疑惑である。 ※『碑の砂』は、エッセイとして書かれているので、おそらく、清張自身のことであろう。真実として書かれたのだろう。ただ、父峯太郎の生家は「父の生家もそれほど裕福ではないが、山林など持っている中程度だった。」と、控えめに書かれている印象だ。里子としてもらった松本家は峯太郎を返さなくて、養子として向かい入れた。実母は、峯太郎を還して貰おうと努力したらしい。 |
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『骨壺の風景』 (小説・発表(新潮):1980年(昭和55年)1月号) ▲登場人物 松本カネ(峯太郎の養母/清張の祖母) 松本タニ(峯太郎の妻/清張の母) 松本健吉(峯太郎の養父) 松本峯太郎(清張の父) ---書き出し部分--- 両親の墓は、東京の多磨墓地にある。祖母の遺骨はその墓の下に入ってない。両親は東京に移ってきてから死んだが、祖母カネは昭和のはじめに小倉で老衰のため死亡した。大雪の日だった。八十を超していたのは確かだが、何歳かさだかでない。私の家には位牌もない。カネは父峯太郎の貧窮のさいに死んだ。墓はなく、骨壺が近所の寺に一時預けにされ、いまだにそのママになっている。寺の名は分からないが、家の近くだったから場所は良く憶えている。葬式にきた坊さんが棺桶の前で払子を振っていたので、禅宗には間違いない。暗い家の中でその払子の白い毛と、法衣の金襴が部分的に光っていたのを知っている。読経のあと立ち上がって棺桶の前に偈を叫んだ坊さんの大きな声が耳に残っている。私が十八,九ぐらいのときであった ----------------------------- 小説の体裁で書かれているが、エッセイであり自叙伝的だ。 小説の体裁だからどこまで事実か判別できない。 父峯太郎が頼りなく、いい加減な人物だったためか、悲惨な小倉時代の生活が 祖母のカネを通して描かれている。 登場人物は、実在の人物で清張の家族は、そのまま描かれていると考えられる。 書かれた時期が、1980年と、最も新しい。(自伝的作品で) 『恩義の紐』に通じる? |
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◎自叙伝的部分が垣間見られる。 『夜が怕い』(登場人物が関係ありそうだ) 『数の風景』 (山陰が舞台) 『雑草の実』 (エッセイ) 『砂の器』(親子の故郷からの出奔は、清張の父峯太郎の出奔に通じる) |
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清張の父峯太郎が里子(養子)に出された事情ははっきりと書かれていない。全ての作品が生まれて7ヵ月くらいで里子に出され、後に養子となっている。 ただ、峯太郎の実母は、一時期婚家を離れたことがあると書かれている。長男である峯太郎が里子(養子)に出される事情に興味がある。 そのあたりの事情は『暗線』に小説として書かれている。 これは全くの個人的な体験というか境遇であるが、私の生まれた家には、祖父・祖母・父・母と四人兄弟で生活していた時期があった。 家は分家で隣が本家。父の兄弟は男ばかりの四人兄弟。父は長男であるが分家に収まっていた。分家の家長(私にとっては義理の祖父)は、本家筋の兄。 本当なら、反対なのだろうが、推測するには、義理の祖父は 全くの想像である。私の父母は、取り嫁取り婿だったのか?事情は全く知らない。 さらに複雑なのが、私の家には、同居していた祖父母夫婦がいたと思っていた。実は二人は夫婦では無かった。 二人は姉弟だった。(正確に、姉弟か兄妹か?)祖母だと思っていた女性は、婚家から帰ってきたのだろうが事情は一切分からない。 婚家から帰って来るのであれば、実家(本家)に帰るのが普通では無いだろうか? 父の兄弟も四人と書いたが、末の弟は後妻の子で、私が小学校に入る前くらいに嫁をもらって近所に家を構えていた。 三男は外へ出て警察官となりかなり出世していた。後妻の女性は、実子が独立したので、本家を出て実子の末っ子(四男)に引き取られる形で、 一緒に暮らし始めた。 イロイロ書いてきたが実のところ正確かどうか怪しい。当時はこのような事はごくありふれたことなのだろう。 一度調べてみたいと思う。 ※訂正(2022年3月27日記) 実はこの文章には誤りがある。 独り者での部分である。( 子供がいなかったのだろうと思っていた。一度調べて見ようと、書いたが、調べて分かった。改正原戸籍を取り寄せてみた。(「ハラコセキ」と呼ぶらしい) 同居していて、夫婦と思っていた二人は、姉弟でだった。私の父は長男とばかり思っていたが次男だった。 原戸籍で分かった事が沢山あった。少々複雑なので、松本清張の父、峯太郎の事を調べつつ整理してみたい。 |
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足羽隆著『松本清張と日南町』 足羽隆著『松本清張と日南町』という本が自費出版されているようです。 清張の父峯太郎は、矢戸村(現在は日南町)出身である 清張の父・峯太郎は日野郡矢戸村(現・日南町矢戸)の田中家の長男として生まれましたが、 生後まもなく米子の松本夫婦のもとへ里子に出され、後に養子となりました。 『松本清張と日南町』にはそのあたりの事情が記述されているようです。 その本、『松本清張と日南町』を入手したく探していますが手に入りません。 この場を借りてお願いです。 入手方法等ご存じの方がいらっしゃれば教えて下さい。 |
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『半生の記』1966年(昭和41年) 書き出しが「父の故郷」から始まる、自分のことを中心に書いた自伝小説です。父峯太郎が日南町矢戸で生まれたことと、里子に出されたいきさつから、 小説家として独立するまでの四〇年間の自分の半生を振り返りながら書いたものです。これは、清張の生き方と作品を考える上で大変貴重な記録として 注目されているものです。 最初は『回想的自叙伝』として雑誌に連載されましたが、後に単行本として出版するときに『半生の記』に改題されました。 『碑の砂』1970年(昭和45年) 昭和三六年に矢戸を訪問したときのことと思われますが、親せきの人たちの案内で祖父母の 墓詣りをしたようすから書き始められているエッセイです。 『雑草の実』1976年(昭和51年) 広島県出身の母のことを中心にしながら、清張自身の歩みをたどったものです。最初のページに父峯太郎のことが書かれていますし、 最後のところでは、清張が井上靖と出会って励まされ、小説家として独立する決意をしたときのことが書かれています。 『骨壺の風景』1980年(昭和55年) 祖母カネは、清張が一七、八歳のころ亡くなりましたが、その骨壺はお寺に預けたままになっていました。 祖母の夢がきっかけでそのお寺を探し歩くことから物語は始まります。この中に、ほんの少しだけ父の生い立ちのことが出てきます。 『数の風景』1986年(昭和61年) 小説の最初に日野郡や日南町のことが数ページにわたって書かれていますが、中心になるのは石見銀山から始まって 鳥取県の南部町で終わる推理小説です。日南町のことが背景にあると思われるもの 『田舎医師』1961年(昭和36年) 小説の舞台は島根県になっていますが、日南町における峯太郎と清張の姿が作品の背景にあります。 物語は、地主の家に生まれながら幼い時によその家に養子に出され、若い時に家を出たまま一度も帰ることなかった父の故郷を、 主人公の杉山が出張の帰り道に訪ねるところから始まります。 『暗線』1963年(昭和38年) 新聞記者の主人公が、父の故郷を訪ねて父の出生の秘密をさぐる物語で、島根県の奥出雲が舞台になっています。 『夜が怕い』1991年(平成3年) 胃の治療のために入院した主人公が、夜一人になるとよく亡き父のことを思い出します。島根県が舞台ですが、 父峯太郎の生い立ちが背景になって書かれています。 身近な地域が舞台になっているもの 『砂の器』1960年(昭和35年) 「砂の器」は松本清張の社会派推理小説の代表作の一つとして高く評価され、これまで何回となく映画やテレビドラマ化されています。 事情があって住みなれた土地を離れていく親子をめぐる物語です。東京で起きた殺人事件の被害者が島根県奥出雲町で巡査をしていたことから、 奥出雲町亀嵩も作品の重要な舞台になっています。事件は迷宮入りかと思われましたが、今西刑事の執拗な追求で解決に向かい、 一人の若い芸術家の隠された足跡が浮きぼりになってきます。 世の中にある偏見と差別が父と子を引き離していきますが、そんな社会に対する清張の怒りの気持ちを読みとることができる作品です。 (129~135頁) |