題名 | 骨壺の風景 | |||||||
読み | コツツボノフウケイ | |||||||
原題/改題/副題/備考 | 【重複】〔(株)文藝春秋=松本清張全集66〕 多磨墓地の「磨」は、「摩」の誤植では? ※2016年11月06日確認 むしろ「多磨」が本来の名前かも。霊園も「多磨霊園」 東京都府中市紅葉丘三丁目にある西武鉄道多摩川線の駅は、 多摩川線だが多摩駅ではない。『多磨駅』である。 川の名としては、「多摩川」。こんな例は良くあるようだ、千住と千寿。三田と御田 作品発表の年月日が?/清張事典では、1980年(昭和55年)2月号 |
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本の題名 | 岸田劉生晩景■【蔵書No0167】 | |||||||
出版社 | (株)新潮社 | |||||||
本のサイズ | A5(普通) | |||||||
初版&購入版.年月日 | 1980/10/20●初版 | |||||||
価格 | 980 | |||||||
発表雑誌/発表場所 | 「新潮」 | |||||||
作品発表 年月日 | 1980年(昭和55年)1月号 | |||||||
コードNo | 19800100-00000000 | |||||||
書き出し | 両親の墓は、東京の多磨墓地にある。祖母の遺骨はその墓の下に入ってない。両親は東京に移ってきてから死んだが、祖母カネは昭和のはじめに小倉で老衰のため死亡した。大雪の日だった。八十を超していたのは確かだが、何歳かさだかでない。私の家には位牌もない。カネは父峯太郎の貧窮のさいに死んだ。墓はなく、骨壺が近所の寺に一時預けにされ、いまだにそのママになっている。寺の名は分からないが、家の近くだったから場所は良く憶えている。葬式にきた坊さんが棺桶の前で払子を振っていたので、禅宗には間違いない。暗い家の中でその払子の白い毛と、法衣の金襴が部分的に光っていたのを知っている。読経のあと立ち上がって棺桶の前に偈を叫んだ坊さんの大きな声が耳に残っている。私が十八,九ぐらいのときであった。 | |||||||
あらすじ&感想 | 清張の自叙伝的作品の一つである。 書き出し部分での登場人物、暮らしぶりが自叙伝的である。 >両親の墓は、東京の多磨墓地にある。 と、書かれているが、松本清張の墓は、八王子市の富士見台霊園にある。 祖母カネは、昭和のはじめに小倉で老衰のため死亡した。 カネは父峯太郎の貧弱のさいに死んだ。墓はなく、骨壺が近所の寺に一時預けにされ、いまだにそのままになっている。 出だしは、簡潔な文章で、題の『骨壺』の存在を明らかにしている。 そして、祖母カネ、父峯太郎が、誰に対してなのかの記述がない。二人は実名である。 祖母カネや父峯太郎は、松本清張の祖母(戸籍上)であり、父である事に疑いは無い。後から母タニも登場する。 祖母カネは、峯太郎にとっては、養母である。(自叙伝では、峯太郎は十七,八で出奔すのだが、なぜ同居するようになったのか?) 祖母カネは、峯太郎の養母だろう。松本カネ。 清張が十八,九ぐらいのときなら、清張略歴では以下の頃である。
葬儀の模様が描かれているが、禅宗の葬儀の模様が印象的だ。 私の家は浄土真宗だが、親戚の家の葬儀で 「読経のあと立ち上がって棺桶の前に偈を叫んだ坊さんの大きな声が耳に残っている。」 の、場面に遭遇した。禅宗と云っても「臨済宗」だと思う。【喝】を体験した。 貧乏故に葬儀の後も骨壺を寺に一時預けにしていた。墓も作れず寺に一時預けをするのは貧乏人のすることだった。 清張の描く、父峯太郎は、天性の楽天家でどんな苦境でも、くよくよと打ち沈むことはなかった。そして、横着者であった。 それゆえ骨壺を放置していたわけでは無かった。 私がもの心のついてからの、父の職業遍歴は、人力車の車引き、空米相場師、債権取立て業、呉服店の下足番、 露天商人、路傍の餅売り、飲食店、魚の行商。 私が主語で、清張とは名乗っていない。私は何歳くらいだろうか? そんな父だが、政治話や生かじりの法律知識を並べて、人を感心させるのが得意だった。人前ではよく話すが、金になる話でなく、甲斐性の無い男だった。 峯太郎はよく肥っていた。七十キロぐらいあった(今では決して、肥っているとは言えるほどでもないが)。 そんな男が家でゴロゴロしているとよけいに横着者に映った。 母タニは働き者だった。峯太郎と違って、心配性で、だらしない峯太郎を嘆いていた。 峯太郎夫婦は、知り合いを頼って広島から小倉へ移った後、養父母夫婦(松本兼吉・松本カネ)は、米子を出て下関の壇ノ浦に住んで餅屋をしていた。 峯太郎とタニは、小倉から養父後を頼って、下関で、十数年ぶりに一緒に生活を始めたらしい。勿論私(清張)も一緒に。 私(清張)は、父が三十五歳の時の子供だった。 峯太郎とタニはよく夫婦喧嘩をした。傍にはカネがいた。 凄まじい夫婦ゲンカを目にしても、カネは仲裁に割って入ることは無かった。 >峯さんもおタニさんも仲良うしんさいや、夫婦喧嘩をすると家(え)のうちが繁昌せんけにのう、と顔をそむけて伯耆弁で呟くだけであった。 言い得てみょうである。 カネは息子にも付かず嫁の味方にもならなかった。それがカネの生きるすべだったのだろう。 すでに、カネの連れ合いの健吉は死んでいた。朝は一番に起きて仏壇の花を取り替える。嫁のタニに遠慮があるのか気を休めることは無かった。 峯太郎とカネはろくに話もしない。カネの話は米子時代の誇張を交えた思い出話で、峯太郎は鼻で笑っていた。 峯太郎の養父母から、父の幼時の話を訊いたことがない。 峯太郎の話と云えば、矢戸の話で、矢戸は峯太郎の実父母の田中家の土地であった。 十七,八で出奔した峯太郎にとって米子は楽しい思い出などない故郷だった。 カネは、額が出て、眼が細く、頬が高く、鼻が肥え、うすい唇が横にひろがった... その風貌は事細かに書かれている。 私(清張)は、カネの風貌の細部を覚えているのは、死顔をスケッチしたからだ。 芥川龍之介を愛読していた私(清張)は、そのデスマスクをスケッチした「小穴隆一」の話を持ち出して記述している。 祖母と私の関係が象徴的に書かれてる。 >私は祖母にそれほどなついていたとは思わなかったが、死んでしまうと、私がいちばん祖母を愛していたことがわかった。 棺桶は、父が借りてきた大八車で火葬場まで運んだ。私はその車の後を押した。母の弟が一人付き添っただけだった。 棺桶が、火葬場の竈の中へ入れられたとき、大声で泣いた。 生前祖母のカネは、 >清さん(私を呼ぶ名)わしが死んだらのう、おまえをまぶってやるけんおう、と祖母はいっていた。 「まぶって」守ってやるの意 この話は、『恩義の紐』で作品になる。 このごろになって私は、小倉の寺に預け放しになっている祖母の骨壺が気になりだした。 この頃とは、作品が書かれた時期なのだろうか?そうすれば、1980年前後、清張七十一歳頃?(この作品は、1980年1月「新潮」に発表) 気になりだした私は地図を求めて、記憶を辿る。 >寺の名前は思い出せないが、寺の外観は、宙でも精密な写生図が描けそうなぐらい記憶している。 版下工をしていた清張は、デスマスクのスケッチといい、寺の外観を宙でも描けそうと言うくらいの腕前だったのだろう。私は、「清張」なのである。 北九州市小倉北区は、元々の小倉市だった。 私が居たところは、北から常盤橋、勝山橋、陸軍橋、 貴船橋。 当時は四つの橋だったが、今は七つになっていた。 地図の上で、「旦過橋」を目標に寺の場所を探そうとする。 旦過橋は、神岳川に架かった小さな、短い橋。 川岸の市場へ魚や野菜を揚げていた。 旦過市場 地図からして、「宝典寺」か「安全寺」に見当を付けるが、寺を特定することが出来ない。二つの寺は車で10分弱、3km程度の距離だ。 >私は用事で小倉に行く次男にこの寺のことを調べてくるように言いつけた。 次男が1942年に誕生している。私(清張)が、七十歳頃であれば、次男は、三十七歳くらいになっている。 少々面倒な用事を頼むにしては、ちょうど良い年齢になるのではないか。 次男の報告は捗々しくない。「宝典寺」でも「安全寺」でも、僧侶の答えは心当たりが無いとの答えだった。 ただ、近くに「東仙寺」という寺があり、焼失して、「桂昌院」と合併しているという。 寺の名前が興味深い。 「宝典寺」は、浄土宗。「安全寺」は、禅宗。どちらも小倉に実在する。 「東仙寺」は、小倉には実在しないが、『東禅寺』が「或る「小倉日記」伝」に登場する。この寺が焼失している。 「桂昌院」も小倉には実在しないが、京都府舞鶴市字小倉959に実在する。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室とは無関係のようだ。 私は、「桂昌院」へ電話をして尋ねた。寺は、過去帳を調べてくれて返事をくれたが、「松本カネ」の名はなかった。 手詰まりになった私は、戦前の小倉市の地図を見ることを思いついた。 小倉の北九州市立図書館に電話をしてやっと、「大満寺」に間違いなさそうだと教えてくれた。 旦過市場(宝典寺付近)から大満寺までは、車で10分弱、3km程度の距離だ。(「安全寺」とは反対方向) 「大満寺」で確認が取れた。祖母の松本カネの名が過去帳にあったのだ。 骨壺はすでに処分されており、境内の石塔の下に他の一時預かりの遺骨と共に埋葬されていた。 骨壺が無ければ、せめて位牌でもと、新しく位牌を作ってもらうことにした。 「大満寺」は、清水小学校の前名板櫃尋常高等小学校の近くにあり、私(清張)はそこに通っていた。 私は、「大満寺」に連絡を取り、三,四日のうちに伺うことを約束した。 約束通り、十二月四日朝八時羽田を出発し、十時過ぎに板付空港に着いた。 なぜ板付空港なのか?と思った。北九州空港は、2006年(平成18年)3月16日に開港だった。 博多から新幹線で小倉に向かった。 タクシーで「大満寺」へ向かった。 新しい位牌が待っていた。 ≪真室智鏡善女 俗名 松本カネ 昭和6年2月8日逝 八十三歳≫ 先代の住職が付けたという戒名が、黒漆の新しい位牌に書かれていた。祖母のカネが八十三歳で死んだとき、父の峯太郎は、五十五歳だった。 「大満寺」を出た清張は、待たせてあったタクシーに乗り、火葬場の方向に向かった。 ここからは、私(清張)が位牌と共にタクシーで小倉時代を振り返る旅の話になる。 ※ここからは私を、「清張」と書く。 清張の記憶は鮮明だ。 火葬場に至る風景も、火葬場から骨壺を抱いて家に帰るまでも、鮮明に覚えていた。 家に待っていた母は、 >やれのう、ばばやんも生きているときは苦労しんさったのう と、骨壺を何度も撫でた。母は五十歳だった。清張略歴から、清張は二十二歳だった。 タクシーは、陸軍橋と呼んでいた、紫川橋から香春口へ延びた中島通りへと向かった。近くに十條製紙(当時は、王子製紙)があった。 ※香春口(カワラグチ)が気になった。『渡された場面』に登場する刑事に、「香春銀作」(A県警捜査一課長。元文学青年。 山根スエ子殺しの容疑者に疑問を持つ。) という名の人物がいた。「カワラギンサク」と読む。清張は時々、小説に珍しい名前や場所名を使うことがある。 紫川橋、住吉神社、堀川、旦過市場、亀井湯、兵庫屋という呉服屋(同じものかは不明だが実在する)、 記憶を辿り、眼にする風景と当時の状況が目に浮かぶ。そんな文章の中に、清張と家族の生活状況がはさまってくる。 兵庫屋という呉服屋で臨時雇いの下足番をしていた父は、旦過市場の魚屋から、塩鮭と塩鱒を分けてもらい、天神橋の上で立ち売りをしていた。 清張は、近くの天神島小学校に通っていた。さすがに、学校帰りに天神橋を渡るのが恥ずかしかった。父が四十七歳頃だった。 父は酒は一滴も飲めず、甘いものと煙草が好きだった。母のタニも煙草を手から放すことが出来なかった。 露天商を始める父母。父は、巴焼き、ラムネ、ミカン水。母は、スルメ焼き、ゆで卵を売る。遠方まで出かける。清張は、祖母と留守番。 遅くなっても土産を忘れなかった。他の露天商から買ったものだろうが、珍しいものもあり清張は愉しみだった。 隣は、小さい子供が二人、肺を患って寝たきりの妻と日雇いの夫。松崎と云った。 妻は死んだ。その後に、家主が入った。六十ばかりの後家で、小学校三年くらいの孫娘がいた。どうやら、孫娘は貰い子らしい。 孫娘を折檻する物音と「ばちゃn、ごめん、ごめん」という孫娘の声が度々聞こえる。清張が十三歳頃の頃のことだった。 タクシーは連隊跡へ向かった。 陸軍兵器廠は、給食センター、連隊の後が北九州国道工事事務所、練兵場が建設省営繕工事事務所、丸紅油谷重工、安川電機製作所、村上製紙 湧き上がるように当時の状況が思い出せる。 小倉に来てから、父の峯太郎は真面目に働くようになった。 あまり金になる働き方では無かったが、祖母のカネは、峰さんもよう働くようになったのう、おタニさん、と母に云っていた。 >峰さんもおタニさんも仲良うしんさいや、夫婦喧嘩をすると家(え)のうちが繁昌せんけにのう、と顔をそむけて伯耆弁で呟くだけであった。 カネは口癖のように云っていた。 この時期が、母タニも仕合わせな時期だった。 父峯太郎が飲食店を始める。繁華街の一角に店を出し、腕利きの座敷女中を雇うほどになった。なぜ店を出すことが出来たかはよく分からなかった。 清張は十八歳くらいになっていた。十六歳頃から、川北電気小倉出張所の給仕をしていた。 祖母と清張は近所の家具屋の二階に間借りした。清張は昼間は働きに出て、祖母は、飲食店で下働きをした。 不服も言わずごそごそと働いていた。 >手が空いているときは、おタニさん、ごぼうにでもふこう(削る)かいのう、と自分から申し出た。 牛蒡を削るのはカネの仕事だった。 祖母は、寝る前に近所の銭湯に入っていた。糠袋を金盥に入れて、出かけた。磨き上げて帰ってくる。母よりおしゃれだった。 寝る前に米子の話をよくした。 小さな声で歌いもした。 >米子米子とどこがようて米子、帯の幅ほどある町を、と小さな声で、安来節を口三味線付で口にした。 清張の話は、米子時代の峯太郎の養父母の話しから、峯太郎の話になっていく。 養父は松本健吉という。(「半生の記」では、松本米吉)。養母松本カネと峯太郎の生活ぶりは全く分からない。 峯太郎が田中家から貰い子として松本家に来た事情も分からない。田中家から養子に出した子を取り戻そうとしたが松本家は応じなかった。 父峯太郎と祖母の間で米子の話が出たことも無かった。 峯太郎は、広島でタニと一緒になった。 そこから小倉に行き、さらに、養父母を頼ったのか、下関の壇ノ浦に移った。清張が一歳の頃だった。 壇ノ浦では、養父母は餅屋をしていた。養父母が、米子とは方向違いの下関に移住していたかは不明だ。養父の健吉は清張が三歳の頃死んだ。 峯太郎は、壇ノ浦では人力車の車夫をしていた。 突然、話は、下関に飛ぶ 清張は、新下関からタクシーで旧壇ノ浦に向かった。 清張の思いでは、小倉から下関の壇ノ浦での生活に移っていく。 清張一家を災難が襲う。 峯太郎一家の家が山崩れにあう。道路拡張工事の発破が原因だった。 火の山の麓であり、関門海峡に架かる関門自動車道路の大橋の支柱が立っているところだ。 一家は、旧壇ノ浦から田中町へ移った。餅屋を続けたが、峯太郎は、米相場に手を出す、相場に失敗して、債権の取り立て屋のようなことをする。 餅屋の仕事もまとものしないで、外に出歩いている峯太郎にタニは苦情を言った。腹を立てて、餅をこみ箱に投げ捨てる峯太郎。 >峰さんもおタニさんも仲良うしんさいや、夫婦喧嘩をすると家(え)のうちが繁昌せんけにのう、と顔をそむけて伯耆弁で呟くだけであった。 祖母は、峯太郎夫婦のどちらに味方するわけでも無かった。 いつものように、仏壇に花をあげるのが日課だった。カネの夫(健吉)は死んでいたのだ。清張が二歳の頃。 祖母は、清張が小学校に上がったばかりの頃、教室の廊下から中をじっと見つめていた。祖母は字が読めなかった。 無学な祖母をからかわれて、清張がいじめられるのではと考えていたのだろう、半ば見張っていたのだった。 私が小学校二年生のころの記憶をまさぐり、その頃祖母が住み込みで働いていた女主人の家をさがした。ガス会社の黒いタンクはそのままだった。 ここからのくだりは、「恩義の紐」そのままだ。 女主人に歓迎されているわけでは無かったが、私は祖母のところへ行くのが愉しみだった。 峯太郎とタニの夫婦仲が悪くなり、峯太郎が家に寄りつかなくなっていた。 清張に云わせれば、地獄のような家だった。そんな家より、祖母の傍の方がずっと愉しかった。 祖母が女主人に気を遣い遠慮しているのは十分承知であったが、それでも地獄のような家よりましだった。 祖母は、母のタニのことは心配していたが、父のことは訊かなかった。祖母には母が蒲鉾屋で働いていると聞かれるまま答えた。 峯太郎は落ちぶれた。 祖母に口止めされたが、峯太郎は、祖母に金をせびりに来ていた。 峯太郎は、木賃宿で生活をしていた。そこへ清張も行ったことがある。 母タニの、蒲鉾屋での仕事の悲惨さは筆舌を尽くしがたい。峯太郎も戻り、祖母も一緒に一家は小倉に移った。 少し整理すると 峯太郎夫婦は、知り合いを頼って広島から小倉へ移った。清張は小倉で生まれている。 その後、夫婦は、小倉から、養父母を頼って下関の壇ノ浦に移った。 下関での生活が破綻して、小倉に舞い戻ってきた。 おそらくそんな経緯だろう。 話は再び小倉時代の祖母に戻る。 祖母が晩年を迎えたのは、紺屋町ではなく、中島通りであった。 鮮明な記憶は、祖母の生活ぶりをリアリティ豊かに描く >八十歳を越えると身体が動けなくなった。おタニさん、ごぼうをふこうかいのう、と母の機嫌をとりに申し出る気力もなく、一日じゅうその低い部屋で >ごそごそしていた。便所にはまだ自分の力で行けて、四段ぐらいの階段を上がり、裏の座敷に端を伝わって左突き当たりにある便所の戸を開けた。 >清さんや、あんたに小遣いを上げようの、と言って、私に五十銭銀貨をくれたりした。 そんな祖母の行動も益々不自由になっていった。 あるとき、眼がかすむといい、眼医者を頼んでくれと言いだした。眼医者ではなく内科医が来た。 内科医は帰り際に、母に小さな声で老衰で視力が落ちている、癒らない、もうすぐ失明すると告げた。 ひとりで眼薬をさす祖母を手伝うと、祖母は喜んだ。 >清さんウチが死んでもおまえをまぶって(守って)やるけんのう、とまた言った。 飲食店が順調だった頃はまだ良かった。峯太郎の外出は相変わらずだった。結成された飲食店組合の役員になり嬉々として行動していた。 ただ、不景気で飲食店は左前になり、家賃や酒屋への支払いも困るようになっていった。 楽天家の峯太郎もさすがに困り果てて火鉢を前にしてつくねんと座り込み考え込んでいた。 その情景は >火箸を杖のように握ってうつむいていた。それがいつか居眠りとなり、洟汁が灰の上に氷柱のように下った。 ※洟汁(ハナジル)と読む 祖母は、死ぬ三日目から昏睡状態となった。高鼾が続き、その鼾がやむと息を引き取った。清張が二十二歳の頃。 >カネは、閉じた眼から一雫の泪を出した。 >頬の半分ぐらいのところで停まったその雫は、ガラス玉のように澄み切っていた。雪がやまなかった。 最後の文章は、中島通りを歩く清張の思いで締めくくられている。 >....私が歩くにつれて提げた鞄の中で位牌を包んだ紙がかさかさと鳴る。その音を骨壺の重さと思う。 作品では「私」として登場するが、祖母から「清さん」と呼ばれ、松本清張意外に考えられない。 これは、『自叙伝』だ! 純文学と呼んでもよい!。 ●最後の一行までの経過について。 タクシーで小倉に着いた清張は、「大満寺」で頼んでいた位牌を受け取り、小倉時代の思い出の地を巡る。 必ずしも時系列的に場所を移動したわけではなさそうで、その間に挟まれる思い出も前後しているようだ。 さらに下関に渡り、タクシーで旧壇ノ浦を巡るのだが、最後の文章に辿りつくまでの時系列がはっきりしない。 タクシーは、新下関から乗ったので、小倉からは新幹線で移動したのだろう。 下関から又小倉に戻ったのだろうか? この場面とのつながりが判然としない。 ●松本家の家系図(「半生の記」から創作) ※峯太郎の養父の名が「骨壺の風景」では、「健吉」となっている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ※気になる作品(自叙伝的作品/年代順) 「父系の指」は、1955年の作品 「田舎医師」は、1961年の作品 「暗線」は、1963年6月の作品 「半生の記」は、1963年8月〜1964年1月の作品 「恩義の紐」は、1972年の作品 「渡された場面」は、1976年の作品 「骨壺の風景」は、1980年の作品 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ※禅宗の影響を色濃く反映する臨済宗の葬式の特徴とは 臨済宗とは日本三大禅宗の1つで、葬儀で僧侶が「喝」と叫ぶことで有名な宗派です。葬儀は宗派によってマナーや流れが異なります。 引導法語の最後に「喝(かつ)っ!」と大きな声で一喝することで、言葉に言い表せない教えを故人の魂へ与えます。 また、葬儀の後半には?(はつ:シンバルに似た法具)や太鼓などの法具を打ち鳴らし、音楽と共に故人の魂を送り出すのも特徴の一つです。 2022年04月21日 記 |
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作品分類 | 小説(短編) | 38P×620=23560 | ||||||
検索キーワード | 祖母・大満寺・遺骨・小倉・下関・壇ノ浦・餅屋・蒲鉾屋・米相場・旦過市場・禅宗・新しい位牌・自叙伝・多磨墓地・安来節 |
登場人物 | |
松本カネ | 米子の出。峯太郎の養母。健吉と夫婦。嫁のタニに気を遣いながらも懸命に働く。恵まれない生涯を生きる。 |
松本峯太郎 | 松本健吉・カネ夫婦の養子。私の父であるが、清張の父である。生来の楽天家で生活力の無い甲斐性無し。政治・法律談義好き。 |
私(清さん/松本清張) | この作品では、私として登場。祖母からは清さんと呼ばれる。松本清張本人である。祖母の骨壺を求めて小倉を旅する。 |
松本タニ | 松本峯太郎の妻。甲斐性無しの楽天家の夫と生涯を共にする。働き者で、愚痴をこぼしながらも懸命に生きる。 |
松本健吉 | 峯太郎の養父。カネと夫婦。米子の出で、夫婦で下関の壇ノ浦で餅屋を開く。下関で死亡? |