題名 | 暗線 | |
読み | アンセン | |
原題/改題/副題/備考 | 【重複】〔(株)新潮社=宮部みゆき 戦い続けた男の素顔:松本清張傑作選〕 | |
本の題名 | 眼の気流■【蔵書No0054】 | |
出版社 | (株)新潮社 | |
本のサイズ | 文庫(新潮文庫) | |
初版&購入版.年月日 | 1976/02/20●6版1976/10/30 | |
価格 | 240 | |
発表雑誌/発表場所 | 「サンデー毎日」 | |
作品発表 年月日 | 1963年(昭和38年)6月 | |
コードNo | 19630600-00000000 | |
書き出し | 三浦健庸先生。先日は、突然お邪魔に上がって失礼しました。新聞社の「文化部次長」という肩書きのついた名刺をさし上げたのは、一面識もない私が、誰の紹介にも依らずにお目にかかる方法として、これよりほかになかったからであります。従って大学教授として、また文化財保護委員としてのあなたの専門である古代染色について話を伺ったには、面会の口実を果たしただけであります。私としては、あなたに直接お目にかかったことと、あなたのご祖父である三浦健亮博士の「古代剣の研究」についてのお話も少しばかり触れて頂きたかったからです。こう書くと、あなたは、それなら何故はじめからそう云ってこないのだとお腹立ちになるかもしれませんが、私としては、或る理由のため、(私に古代剣の知識がうすいこともありますが)正面からおたずねできなかったのです。 | |
あらすじ&感想 | これも、清張の自叙伝的作品の一つである。 が、内容は少々深刻である。 父の出生の秘密が婉曲であるが、リアルに描かれている。 ただ、自叙伝的とするには危険でもある。 公表されているもので、自叙伝とされる『半生の記』だけです。 これ以外では、自叙伝的な作品として『骨壺の風景』・『父系の指』・『暗線』が、三部作と云ってよいと思う。 がこれまでの作品を読んでみて、「田舎医師」も加えてよい気がする。(本格的に?読んだのは、『骨壺の風景』・『父系の指』・『暗線』の順) 四部作と云うことになる。 年代順に並べると 『父系の指』【新潮】1955年(昭和30年)9月号 『田舎医師』【婦人公論】1961年(昭和36年)6月号 『半生の記』【文藝】1963年(昭和38年)8月号〜1964年(昭和39年)1月号 『暗線』【サンデー毎日】1963年(昭和38年)6月 『骨壺の風景』【新潮】1980年(昭和55年)1月号 の、順になる。 この順番は別の機会に触れるが、意味があると思う。ただ、前提が >私は、自分のことは滅多に小説に書いては居ない。いわゆる私小説というのは私の体質に合わないのである。 >そういう素材は仮構の世界につくりかえる。そのほうが、自分の言いたいことや感情が強調されるように思える。 なので、「仮構の世界」である。と、片付けることも可能なのである。 清張にとって、「父の出生の秘密」は、解決済みである。 (エッセイ:「碑の砂」) 清張はこのエッセイの中で、長男でありながらなぜ他家に出されたかはその村では知ることができなかった。と書いている。 そして >最近になって、その秘密が分かった。 >父の母の実家に当たる親戚関係からの手紙で知らせてもらった。。 >秘密というほどではなかった。 >父の祖母に当たるひとが嫁との折合いが悪く、離縁させたというのである。 >実は私は、父の母が離縁されたことにもっと悪い事情を想像していたが、 >これで安心した。 と、書いている。 前置きが長くなったが、内容に入る。 手紙の主は ,新聞記者で、「文化部次長」を名乗っている。 三浦健庸は、大学教授で、古代染色が専門。 書き出し部分からの推測だが、「文化部次長」氏は、肩書きを利用して、「三浦健庸」氏に面談を求めたようである。 読み進むと、その背景が理解出来る。 出だしは、手紙を書きながら、出すかどうか決めかねている様子だ。三浦健庸先生宛である。※健庸の読みが分からない。「ケンヨウ」? 前回の紹介作品No1130の「父系の指」には、殆どの登場人物の名前がないまま話が進み、最後まで、具体的な名前が出てこなかった。 しかしこの作品では、まず、父の名前が「黒井利一」として登場する。自叙伝的作品とされているが設定がかなり違う。 生まれが島根県能義郡布部村。布部村の安積家の本家で生まれた。明治二十八年。 ※生まれが島根県である。布部村(ふべむら) (島根県) - 島根県能義郡。現:安来市。 「父系の指」では、鳥取県伯耆郡矢戸村(現日野町)となっている。島根県(布部村)と鳥取県(矢戸村)は隣接しているし紛らわしい。 利一は、建前では須地家生まれ(屋神村)。実際は、国子(実母)の実家、安積家(布部村)で利一を生んでいる。 その後、黒井家(能義郡広瀬町)へ養子に出されている。 (生まれたという場合、戸籍上の場所と生理的・物理的に生んだ場所の違いや、両親との血族としての関係などがあり複雑だ。特に利一の場合) ![]() 車でのルート。(国道432号:40km程度の距離) 利一は、安積(アサカ)家の本家の生まれ。 >八歳のとき他国に出た父は一度もこの生まれ故郷である島根県に帰って >いません。尤も、父にはもう一つの故郷があるのです。それは同じ県の >仁多郡家神村です。 >ここは父の母、私にとっては祖母に当たる国子が嫁に行ったところで、 >本来なら祖母は父をその須地家で生もはずでありました。 >父の姓は須地でもなく、安積でもなく、黒井です。 >つまり、父は嬰児のとき黒井という家に養子に出されたのですが、 >この黒井は同じ能義郡の広瀬町にありました。 >従って父が生命を享けたのが屋神の須地家であり、 >この世の空気をはじめて吸ったのが安積家であり、育ったのが黒井家という、 >ちょっと複雑な関係になるわけです。 >もう少し具体的に云うと、祖母の国子は須知家で父を妊り、 >生家の安積家に還って生み、すぐに広瀬の黒井家に養子に >出したことになります。 >父の利一は須知家の長男でありながら他家に出されたのです。 ※市町村合併で広瀬町はかなり広域になっている。 広瀬町(ひろせまち)は、かつて島根県能義郡にあった町である。 1967年(昭和42年)8月1日 - 布部村を編入。 2004年(平成16年)10月1日 - 安来市・伯太町と合併し、改めて安来市が発足。 同日広瀬町廃止。合併の際に、住所は「能義郡広瀬町○○」から 「安来市広瀬町○○」と変わり、 読みは 「ひろせまち」から「ひろせちょう」と変わった。 「暗線」が自叙伝的作品としては、最も新しく、内容もかなり踏み込んで書かれているような気がする。 小説としての体裁が色濃く出ていて面白く感じた。これが清張の言う「仮構」なのだろうか? >もう少し具体的に云うと、祖母の国子は須知家で父を妊り、生家の安積家に還って生み、すぐに広瀬の黒井家に養子に出したことになります。 >父の利一は須知家の長男でありながら他家に出されたのです。 話の展開が今までとはまるで違う。 養家先の黒井家は、父が八歳の時四国の宇和島に移住した。父の生涯はほとんど宇和島で終わった。 しかし、六十八歳まで生きた父ですから、島根の故郷に帰ることは出来たはずです。 なぜか帰らなかった。貧乏故に帰れなかったのか。 父の実父は、須知綾造。実母は、国子。国子は、利一を生んだ後、復縁して、弟と妹を産んだ。利一は二人の弟妹を見たことはなかった。 養父は、黒井治作という。 須知家は、島根県の奥地から採掘される砂鉄の工場を持っていてかなり手広くやっていた。 現在須知家は、屋神村には残っていない。二代目当主(利一の弟)が放蕩者で、家財を食い潰し、とうとう村を出奔したからだ。 父は、俺が跡を取っていればと洩らしたこともあった。 初めて書かれる事情だが、決まり文句が出てくる。 >「あんたは貧乏性じゃ。そんないい家に生まれてながら、貧乏なところに養子にやられたのは、よっぽどの不運じゃ。見てみい。お父さんの耳の小さいことを」 母は、私に指さして云いました。 ■日南町図書館(にちなんゆかりの人物より) ![]() 清張の父・峯太郎は日野郡矢戸村 (現・日南町矢戸)の田中家の長男として生まれましたが、 生後まもなく米子の松本夫婦のもとへ里子に出され、 後に養子となりました。峯太郎は養子となってからも 小学生のころまでは、ときどき矢戸に来て、 兄弟と一緒に魚釣りをしたり水泳をしたりして遊びました。 峯太郎にとって矢戸の田中家は楽しい 思い出とともに、幼くして 里子に出されたことへの複雑な気持ちがあったと思われます。 ■□■ 清張地名覚え書き □■□ ●島根県能義郡布部村 布部村 (島根県) - 島根県能義郡。 現:安来市。(ふべむら) ●伯耆郡矢戸村 伯耆郡に矢戸村としては存在しないが、 日野郡に矢戸村が存在した。 現在日野町矢戸という住所が存在する。 ●能義郡広瀬町 能義郡(のぎぐん)は、島根県 (出雲国)にあった郡。 広瀬町(ひろせまち)は、 かつて島根県能義郡にあった町である。 2004年10月1日、安来市・能義郡伯太町 と新設合併し、新市制による安来市 となった。 ●島根県屋神村 屋神村は存在しない。 父は、四国に来ても、することすべて失敗つづきで、仕事を変えること十数回。 私は、やっと中学校を出させて貰い、土地の篤志家の援助で京都大学を卒業した。(この設定は初耳である、「暗線」で初めて語られる。) この父の生活態度から、もし、父が後を継いでもとても商売が成功したとは考えられない。 時代は、砂鉄から鉄鋼を造る時代ではなくなっていた。洋綱が主流になりつつあった。 私は、父が、故郷を訪ねなかった理由が出生の秘密にあったのではないかと考えた。 父は、七歳まで母の生家である安積家に育った。だから、能義郡布部村あたりの事はかなり詳しく覚えている。(これも他の作品では少々違う) 安積家で育った父が、黒井家に養子に出された経緯など、イロイロ分からないことがあった。 そんな父の秘密を知ることが出来ないまま、父は亡くなった。 父の死後、何度か奥出雲地方への旅行を思い立ったが、立ち消えになった。 ところが、社用で米子支局へ出張する機会が訪れた。私は冒頭の手紙の中でも触れたが、新聞社の人間で「文化部次長」の肩書きだった。 タブーにしていたと云ってもよい布部村へ、足を踏み入れたい気持ちと、すぐにでも出張の用事が済み次第帰京したい気持ちのせめぎ合いだった。 広瀬町から布部村までは僅かな距離だった。 私は決断した。 広瀬町に向かった。 ![]() 安来市広瀬町布部は島根県の西部端、中海に注ぐ飯梨川(布部川)の中流域に位置する。 江戸初めは松江藩領であったが、元禄年間(1688〜1704)以降は松江藩の支藩広瀬藩領。 村の中心は町場を形成していて、「樋の廻たたら」を経営した家島家を中心として鉱山業が営まれ、 町は製鉄業によって発展していきました。 広瀬町(ひろせまち)は、かつて島根県能義郡にあった町である。 1967年(昭和42年)8月1日 - 布部村を編入。 2004年(平成16年)10月1日 - 安来市・伯太町と合併し、改めて安来市が発足。 同日広瀬町廃止。合併の際に、住所は「能義郡広瀬町○○」から「安来市広瀬町○○」と変わり、 読みは「ひろせまち」から「ひろせちょう」と変わった。 村に特定郵便局があったので、そこで訊いてみた。 安積家では、安積謙吉という人が一番年寄りで、今も元気だという。 安積謙吉は、本家ではなく、分家の当主らしい。本家はとっくに没落して、家族も引っ越していて跡形もないという。 安積謙吉は六十九歳。父より一つ上、父の従兄だろう。 私にとって、祖母に当たる国子の弟が、安積謙吉の父だった。 私が利一の息子だと自己紹介すると、幽霊でも見るように驚いていた。この村では父の利一のことは全く知られていなかった。 ようやく謙吉老人から利一について少し聞き出せた。 >「利一という子は、広瀬の町から、ときどきここに遊びにきていたが、いつの間にかこっちへ来んようになったなア」 父が五、六歳の頃の話だ。 ※広瀬の町から此処へとは、広瀬の町から布部村へと遊びに来ていたのだ。町村合併で広瀬町になり、安来市になっている。 謙吉老人の記憶は、重大な内容を含んでいた。 >「利一という子は、母親がこの布部の安積から、屋神の須地に嫁に行ったが、利一を妊ったとき、一旦須地の家から離縁になってな。 >この布部の本家に帰ってきたとき、利一を生んだようじゃ。 >それから間もなく、利一は広瀬の町に貰われていったが、ここと広瀬の町は近いけにさっきも云ったように、 >その子は小さい時、ときどき本家に遊びにきよったがな.....」 幼い父が、時々遊びに来ていたのである。五、六歳の頃だとすると、利一は、黒井家に養子に出される前か、出された頃ではないか! 私は、利一の実母(国子)が、実家で出産をしたのだとばかり思っていた。それ自体は間違いないが、離縁されて、実家で出産とは.... しかもその後、国子は婚家に戻っている。そして一男一女をもうけている。 利一は、離縁されて、実家に国子がいる時遊びに行っていたのか? 離縁された国子は何年ぐらい実家で生活したのか? それとも、国子が婚家に再び戻った後に、利一は黒井家に養子に出されていた時に遊びに行っていたのか判然としない。時系列に混乱がある。 ※【日南町図書館(にちなんゆかりの人物)】に記述がある。 離縁や養子の原因などは、謙吉老人も知らなかった。 しかし、謙吉老人の話した内容は、父利一の「暗い出生」を示していて、同情を禁じ得ない。 さらに、「安積家」と「須知家」との間に交際があったかとの問いに、謙吉老人は否定した。ある意味当然だが、国子は復縁している。 謙吉老人に案内されて、父利一の生家に行ったが、跡地には縁もゆかりもない農家が建っていた。 屋神村へ行こうとした。が運転手に断られた、道が悪く、険しい山坂の峠道になる。昔は人力車で行ったらしいが、車では...と尻込みをされてしまった。 米子に引き返すことにして、途中で広瀬の町で車を降りてみた。広瀬の町は黒井家があったところである。 そこが何処だか分かるはずもないが、父の言葉が思い出される。 >伯耆の大山ははな、富士山よりも立派じゃy。高さは富士山ほどでもないが、因幡や伯耆、出雲、三方から眺めて、これくら立派な姿はないけんのう」 いま、その山を見ている。 ![]() 米子から山陰線で宍道。そこからは、木次線が出ていて、備後落合で 芸備線へとつながっている。 宍道の町を出て三時間ぐらいで出雲八代という駅に着く。 バスで一時間ぐらいの山奥に屋神村がある。 出雲八代からどちらの方向にバスで一時間ぐらいだろう。 木次線は、木次、出雲八代、亀嵩と続く 舞台は「砂の器」そのものである。 清張得意の山陰、木次路である。 木次線沿いに流れている川は、斐伊川(ヒイカワ) この川で砂鉄が取れた。 砂鉄工場も残っているのはY製鋼所のものだけだ。 (Y製鋼所とは八幡製鉄のことか?) ![]() 斐伊川流域は、古代から現代に至るまで、山陰地方の政治、文化 、経済の中心として発展してきました。 斐伊川本川上流域では昔から砂鉄を精錬して鉄を作る「たたら製鉄」が盛んで、 その砂鉄採取のために山肌を削り土砂を川に流し、比重の違いで砂鉄分のみを分離する 「鉄穴(かんな)流し」が行われたため、不要な土砂は斐伊川に流れ込み、 下流域に大量の土砂堆積をもたらしました。 >米子から山陰線で宍道。そこからは、木次線が出ていて、備後落合で芸備線へとつながっている。 >宍道の町を出て三時間ぐらいで出雲八代という駅に着く。バスで一時間ぐらいの山奥に屋神村がある。 私はここに来るまで、前もって米子から土地の村役場に電報で砂鉄の歴史を知りたい、二、三人集めてもらえないかと頼んでいた。 この旅が、「屋神村へ行こうとした。が運転手に断られた」続きの旅であり、そもそも目的は何だったのだろうか? ふと疑問が湧いた。 村への電報は、新聞社の用事としての依頼で、電報の頼みは聞いてもらえると思っていた。 出雲八代からハイヤーで屋神村へ向かった。屋神村の中心地と言われる場所は家数が三十戸ばかり、雑貨屋、郵便局もあったが、想像以上の寒村だった。 役場に着いた。電報の趣旨を理解してくれていて、役場の横にある学校に案内をされた。 集まってくれていたのは、特定郵便局の局長、退職した前助役、この学校の二代目校長 私は、「今度この地方のことを新聞に載せる予定で取材に来た」と告げた 私が、聞きたかったの明治期の砂鉄工場のことだったが、三人の郷土史家はさすがにこの地方の歴史に詳しく、古代から現代まで話が進んだ。 ようやく、私が聞きたい時期の話になった。 須知家は相当手広く砂鉄工場をやっていた。一番大きかったようだが、潰れるのも早かった。 >「あれは後取りが駄目でね、すっかり家産を蕩尽してしまった。そこに砂鉄も不況になったから、二重にいけなかったんじゃ」 当時の当主は、須地綾三さん、やり手だった。 >「そういえば、その綾三さんの女房は評判の別嬪じゃったそうなのう」 三人の郷土史家の話は、国子と、その子の利一の話に移っていく。 @そんな別嬪の女房をなぜ須地の旦那(須地綾三)は離縁したのだろう A女房は実家に産みに帰ったと聞いとった。(女房は能義郡布部から来とった) B布部の方でその子が欲しいちゅうて取ったそうで、女房も仕方なしに置いてきたそうじゃ(安積家の家族関係も不明) C一度離縁した女房をすぐに元に戻した。 父の暗秘密が少しずつ明らかになっていくが、肝心のところは全く分からなかった。 >「そいじゃ、二番目に生まれた子が須地の後継ぎということになるが、布部に貰われた子があっちで大きくなったと聞いたことがないのう」 >「うむ、なんでも、その子は、安積の親戚が東京におって、そっちのほうに貰われたと聞いとる。 >それから消息がないけに、やっぱり村にはそれっきり戻ってこなんじゃろう」 三人は、安積家が生まれた利一を、黒井家に養子に出したことは知っていなかった。 あらためて、父の故郷に来たことを考え深く納得した。 三人の話は、国子にまつわる話と父利一の出生の話から、砂鉄景気に湧いた時の話に移っていった。 砂鉄で有名になったこの地に多勢の人がやってきた。その中に東京の若い学者がいた。 >「ああ、あれは三浦健亮ちゅうてな、鉄や刀剣のほうで工学博士になったそうじゃ」 −−−三浦健亮−−− 話は、最初の手紙に戻る感じになる。 私は、三浦健亮先生が若い頃度々砂鉄工場に来ていたことは初めて聞いた。 それは何時頃ですかとの問いに、明治二十五、六年頃じゃったが...一人が答えた。 >「ほれ、郵便局の先代局長がこの土地のことを書くとき、三浦博士に当時のことを訊くため問い合わせの手紙を何度も出したが、 >博士はからは一度も返事が込んじゃったそうじゃな。のう、局長?」 >「うむ。そう聞いとる」 座談会は続くが、肝心な部分はこれだけで充分だった。 その内容は手紙に書き込まれることになる。 国子が利一を産んだのが,明治二十八年(戸籍では、二月二十日) 国子は、前年(明治二十七年)に利一を孕んだことになる。 私は、山陰旅行より帰京してから、調べてみた。 三浦健亮の著作物に島根県の須地家が出ていないか... 全く出ていないわけでは無かったが、屋神村の記述があるだけで特別な意味はなかった。 三浦健亮の著作物に写真があった。 四十七、八と思えるその人相は、頭髪は薄くなり、眼の下にもたるんだ皮が見られる。眼は大きいほうだが、眉はうすいようだ。 鼻梁は立派でまっすぐ徹っている。少し厚めの唇...微に入り細に入り描いている。(父利一に比較しているのであろう) 三浦健亮の研究は、南は九州、北は北海道、樺太さらに朝鮮、満州と鉄鋼にまつわる旅で全国に渡っていた。それ等の旅に関する随筆集が出ていた。 しかし、その随筆集にも出雲のこと、ましてや屋神村のことは一行たりとも出ていなかった。 なぜ.... その理由を考える私は、座談会での先代郵便局長の話がよみがえってきた。 三浦健亮には、屋神村は触れたくない場所であり過去だったのでは。 調べる中で、三浦健庸氏の写真を見つけ出したのです。 三浦健庸氏は、三浦健亮の孫で、古代染色の権威であり、大学教授、文化財保護委員だった。 ※三浦家の家系●祖父:三浦健亮(刀剣の権威・工学博士)→父:三浦健爾→子:三浦健庸(古代染色の権威/私が手紙を出そうとしている) 三浦健亮の孫である、三浦健庸は健亮にそっくりであった。そして、利一も健亮に似ていて、健庸にも当然似ているのだ。 他の自叙伝的作品とは趣が違っていて、「仮構」をかなり意識して書かれた作品と思う。 清張の父峯太郎がモデルではあるが、養父母や清張一家の生活ぶりは描写されていない。作品中私が篤志家の援助で京都大学を出ている。 舞台は山陰で木次線沿線は、清張得意の舞台装置でもある。 ※蛇足 :国子の実家、安積家は布部村では一番の豪農だった。黒井家は貧農。養子に出された利一が、黒井家から安積家へ遊びに行っていた事実。 黒井家から布部の安積家までは二里ばかりある。利一は一人で遊びに行けたのか?私の想像は間違いなかろう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ●参考 『松本清張と日南町』 ●和鋼博物館 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 前身 和鋼記念館 専門分野 たたら関連 開館 1993年(平成5年)4月 所在地 〒692-0011 島根県安来市安来町1058 和鋼博物館(わこうはくぶつかん)は、島根県安来市にある、旧出雲-伯耆における工具鋼(高級特殊鋼の一種)の源流となった 和鋼・玉鋼に関する博物館。1993年に開館した。 日本刀の素材製造方法であり、日本独自の砂鉄による直接還元法であるたたら吹きや、近世の製鉄事情、日本刀の展示がある。 2022年04月21日 記 |
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作品分類 | 小説(短編) | 32P×600=19200 |
検索キーワード | 若い学者・大学教授・刀剣・砂鉄・離縁・屋神村・布部村・矢戸村・広瀬町・文化部次長・篤志家・復縁・木次線・養子・自叙伝・宇和島 |
登場人物 | |
私 | 新聞社の文化部次長。黒井利一は父。松本清張と考えられる。 |
黒井利一 | 私の父。モデルは松本峯太郎?。他の自叙伝的作品とはかなり違っている。四国の宇和島で生涯を終えている。父は、三浦健亮? |
須地綾三 | 国子の夫。妻の国子を一旦離縁している。須地家の当主で砂鉄工場の経営者。手広く商売をしている。 |
須地国子 | 黒井利一の実母。実家の帰って利一を生む。須地家から一旦離縁されている。利一の父は三浦健亮?評判の美人 |
三浦健亮 | 黒井利一の実父? 刀剣の専門家。工学博士。鉄鉱の調査のため全国を旅している。島根県屋神村にも滞在したことがあるり、須地国子と接点がある。 |
三浦健爾 | 三浦健亮の子、健庸の父。三浦家の中ではさしたる実績も無い。 |
三浦健庸 | 三浦健亮の孫。大学教授。健爾の子。古代染色の権威。祖父の健亮によく似ている。「ケンヨウ」と読むのか? |
黒井治作 | 黒井利一の養父。養子の利一の出生の秘密までは知っていない。 |
安積謙吉 | 安積家の分家の当主。六十九歳。父(利一)より一つ上、父の従兄。国子の弟が父だと考えられる。 |