松本清張_父系の指

No_337

題名 父系の指
読み フケイノユビ
原題/改題/副題/備考 【重複】〔(株)新潮社=宮部みゆき 戦い続けた男の素顔:松本清張傑作選〕    
本の題名 松本清張全集 35 或る「小倉日記」伝・短編1【蔵書No0106】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通) 
初版&購入版.年月日 1972/2/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「新潮」
作品発表 年月日 1955年(昭和30年)9月号
コードNo 19550900-00000000
書き出し 私の父は伯耆の山村に生まれた。中国山脈の脊梁に近い山奥である。生まれた家はかなり裕福な地主でしかも長男であった。それが七ヵ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところに里子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。里子とはいったものの、半分貰い子の約束ではなかったかと思う。そこに何か事情がありげであるが、父を産んだ実母が一時婚家を去ったという父の洩らしたある時の話で、不確かな想像をめぐらせるだけである。父の一生の伴侶として正確に肩をならべて離れなかった”不運”は、はやくも生後七ヵ月にして父の傍に大股でよりそってきたようである。父が里子に出されるという運命がなかったら、その地方ではともかく指折りの地主のあととりとして、自分の生涯を苦しめた貧乏とは出会わずにすんだであろう。事実、父のあとからうまれた弟は、その財産をうけついで、あとで書くような境遇をつくった。
あらすじ感想 この作品も、清張の自叙伝的作品の一つである。

伯耆(ホウキ)の山村に生まれた父。生まれた家はかなり裕福だった。
七ヶ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところへ里子に出される。
父の一生の伴侶として正確に肩をならべて離れなかった”不運”は、はやくも生後七ヵ月にして父の傍に大股でよりそってきたようである。
なんとも、父の生涯を一行の文で表現しているようだ。
書き出し部分だけで、父の不遇を全て語り尽くしている感があるが、清張自身は深い哀れみを持って父を見ている感じがする。
タイトルからして、父の話だ。
生まれが伯耆の山村。中国山脈の脊梁に近い山奥である、と書いているが具体的な記述は無い。



自叙伝的な作品と言われるだけに、父の生い立ち、経歴など松本清張の父峯太郎だろう。
すると、生まれた場所は伯耆郡矢戸村(現日野町)と考えられる。
日南町図書館(にちなんゆかりの人物より)
清張の父・峯太郎は日野郡矢戸村(現・日南町矢戸)の田中家の長男として生まれましたが、
生後まもなく米子の松本夫婦のもとへ里子に出され、後に養子となりました。
峯太郎は養子となってからも小学生のころまでは、ときどき矢戸に来て、兄弟と一緒に魚釣りをしたり水泳をしたりして遊びました。
峯太郎にとって矢戸の田中家は楽しい思い出とともに、幼くして里子に出されたことへの複雑な気持ちがあったと思われます。


経歴も他の自叙伝的作品に登場する峯太郎そのものである。(ただし、この作品「父系の指」は、自叙伝的作品としては最初に書かれている/1955年)
この作品に峯太郎の名は登場しない。
@生まれた家はかなり裕福な地主でしかも長男である。
A七ヵ月くらいで貧乏な百姓夫婦のところに里子に出される。そのまま、養子として育つ。
   ※反対なら理解出来る、よくある話と言えるだろう。子だくさんの貧乏な百姓夫婦が次男、三男を里子に出す。養子先は跡取りのいない裕福な夫婦。
B里子に出されたとはいえ、半分貰い子の約束では無かったかと思う(この作品での記述)。Aを考えると奇妙だ。
C父を産んだ実母が一時婚家を去っていたということを父が洩らした
DCが、ABの事情ではないかと、不確かな想像をめぐらせる。
   ※Dが、自叙伝的作品とした最後の作品である『暗線』にと結実する。
自叙伝的な作品は、上記の@〜Dが全て根底になっている。
さらに、その父が、十九の時に故郷を出てから、ついぞ帰ったことがなかった。(この作品では十九歳と断定しているが、他の作品では十七、八歳)
しかも、故郷を出たことが「出奔」と表現されている。故郷に帰ったことがないのが貧乏故で、本人の望郷の念は一生の夢として続いていた
私は、幼い頃から何度も矢戸の話を聞かされた。
>矢戸はのう、ええ所ぞ、日野川が流れとってのう、川上から砂鉄が出る。大倉山、船通山、鬼林山などという高い山がぐるりにある。...
>「今にのう、金を儲けたら矢戸に連れていってやるぞい」

父のいつもの言葉である、矢戸に連れていってやる...の話になると、母は、
>「ふん、また矢戸の話がはじまったのう。もう聞き飽いたがな」
と冷笑していた。

「生まれたところ」と言えば、父母の所在地がそれに当たると思う。出生届が出された自治体なのだろうが、峯太郎は母が、国元に帰り出産をし
七ヵ月で里子に出されているので、どこと特定できない。さかんに矢戸の思い出を話すが、そんな思い出があるのだろうか?(これには伏線がある
「峯太郎は田中家の長男として生まれている。」との表現も厳密ではない。

●藤井康栄著「松本清張の残像」から、「清張略歴」
父峯太郎は、鳥取県日野郡矢戸村(現・日南町矢戸)の田中家の長男として生れ、幼児に同県西伯郡米子町(現・米子市)の松本米吉、カネ夫妻の養子
となったが、十七、八のとき出奔し、広島で書生や看護雑役夫などをしていた。
そこで、広島県賀茂郡西志和村別府(現・広島市)の農家の娘で、紡績女工をそていた岡田タニと知り合い、結婚した。
やがてふたりは、日露戦争直後の炭坑景気に沸く北九州に渡ったものらしい。
矢戸の話が、養家での話だろうと想像したが、「清張略歴」からすると、生家での思い出らしい。

母の父を見る眼がどこか醒めていて厳しい。
母は、私(清張)に、いつかこういうことを言ってきかせた。 
     ※この作品でも、主語は私として登場するが、「清張」であることは間違いない。以後、基本は私(清張)と記す
>「わたしのお母さんがはじめて、おまえのお父さんを見てのう、かげでわしに、あんたの亭主は
>男ぶりはええが耳が小さいけい、ありゃ貧乏性じゃと言いんさったが、まことそのとおりじゃ」

この、「耳が小さい」と言うフレーズは、自叙伝的作品では数ヶ所に登場する。

峯太郎の養父は百姓をしながらか、不明だが、付近の鉄山で働くようになった。養家の付近では印賀鉄という砂鉄の採鉱地だった。
  ※印賀鉄(いんがてつ)
     伯耆の印賀鉄、これを千草といって第一に推し、つぎに石見の出羽鉄、
     これを刃に使い、南部のへい鉄、南蛮鉄などというものもあるが、ねばりが強いので主に地肌にだけ用立てる。
               日野郡のたたらの歴史 - info-hinonohi ページ! (tatara-navi.com)
以上の記述は、作品の「暗線」に発展していく。

父の実母は、里子に出したあとも、こっそり父に会いに来ていた。年に二、三度くらいであった。
実母は、土産に反物は、義母。我が子には、着物、帽子、下駄、下着など背中に背負って山坂を越えてやってきていた。
その夜は、一晩中、わが子をかきだいて寝た。
そのことは、父が清張に寝物語的に、涙ぐみながら聞かせていた。
実母の訪問も峯太郎が六つぐらいまでだった。実母に弟が生まれた。
父は、その弟と二三度会ったと言ったが、私(清張)は、嘘だと思った。
父が、十九で出奔する頃は、一家は淀江の町に移っていた。一家で移るくらいだから、百姓はしていなかったのだろう。(小作人だった?)
鉄山で働くときからそうだったのだろう。
淀江は日本海に面した町で、父は魚売りになり、天秤棒を担いで山奥まで売りに歩いた。(出奔する前なら十五,六の時?)
養母は、ぼんやりしていたが、しんは吝嗇で根性に意地があった。淀江は、雨傘の産地で、養母は、傘張りの内職をしていた。
内職は仲間を集めて一緒にしていた。
時に、仲間にせがまれると、安来節を歌うこともあった。
>淀江、淀江とどこがようて淀江、帯の幅ほどある町を、...
安来節の歌詞はその地方地方でイロイロあるようで、即興でも歌われるようだ。(歌詞は違うが、この一節は「骨壺の風景」にも出てくる。)
 
 一例だが ●出雲名物 荷物にならぬ
        ●聞いてお帰れ 安来節
        ●松江名所は かずかずあれど
        ●千鳥お城に 嫁が島
        ●俺がお国で 自慢のものは
        ●出雲大社に 安来節
唄に添えられる民俗舞踊「どじょうすくい」は、安来地方の名産・安来鋼を製造する「たたら吹き製法」において、
原料の砂鉄を採取する際の動作がルーツと言われている。
この「砂鉄を集める」というルーツから考えると、「どじょう」という言葉は、
魚のドジョウではなく「土壌」を意味することになる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
淀江町(よどえちょう)
淀江町(よどえちょう)は、かつて鳥取県にあった町である。西伯郡に属していた。
また、役場は大字西原に所在していた。2005年(平成17年)3月31日に米子市と新設合併し、(新)米子市となった。
合併前の面積は25.74km2、合併前の淀江町の人口は9,000人余りであった。






       ●淀江傘:和傘伝承館●
取県米子市淀江町の伝統工芸品・淀江傘の製造工程を
実演、販売している。

厳しい山陰地方の気候に適して、実用性に富み、
丈夫なことで知られる

淀江傘は番傘、蛇の目傘が主流で、蛇の目の形(梅の
花型、亀甲)や特有の
糸飾りに特徴があり、見た目の
美しさも魅力。
実際に傘の材料に触れ、作る体験
ができるほか、好みの傘も購入できる。



ここからは、父が出奔後の話になっていく。
広島に出てきた父は、陸軍病院の看護人になった。それから、県の警察部長宅で書生のようなことをした。
父の性格からして、空いている時間は法律関係の本を読むことが出来、仕合わせな時期であった。勉強できる環境だった。
ただし、清張に言わせると、特別目的を持っていたわけでもなく、いつも行き当たりばったりの仕事選びしかしてこなかった父には厳しい指摘をしていた。
>せいぜい六法全書を撫でた程度で、あったにせよ、父はひどくインテリになった気でいたのである。
物知りを自負する父は、ひとかどの学問があると自慢顔だった。父は、学問について憧憬があったのだろう。
(父峯太郎のこのような性分は、自叙伝的作品の至る所に出現する)
そんな父が、「眼に一丁字のない」母と一緒になったのは、父の不運の一つであろうと書いている。
   
※「眼に一丁字のない」は、一つの字をも知らない。無学である。の意味
    「父系の指」では、母が字を知らないと書いているが、「骨壺の風景」では祖母が、字を読めないと書いている。

(出奔後、広島で母と出会い結婚する)このあたりの事情は不明で詳しく書かれていない。他の自叙伝的作品で二人の馴れ初めなどは不明。
書生をやめた父は、人力車の車夫をしていたようだ。
母は、広島の山奥の百姓家の出身であった。母は、紡績工場の女工だったようだ。
以下が印象的だ
>私は、自分の両親が人力車をひく車夫と紡績女工であったということにも、ほとんだ野合に近い夫婦関係からはじまったということにも、
>あからさまな恥は感じない。
>しかし、自分の出生がそのような環境であったという事実は、じぶんの皮膚に何か染みが残っているような、
>他人とは異質に生まれたような卑屈を青年の頃には覚えたものであった。


私(清張)は、広島のK町の生まれたと聞かされた。
「清張は、1909年(明治42年)12月21日福岡県企救郡板櫃村(キクグンイタビツムラ)(現・北九州小倉北区)で生まれる。」と略歴には書かれているが、
広島説もある。おそらく「父系の指」がその出所だろう。
「陋屋」(ロウオク)に一人の少年が訪ねてきた。(※陋屋:狭くてみすぼらしい家。また、自分の家をへりくだっていう語。陋居?(ろうきょ)?)少年は、西田と名乗った。

少年は、父の後から生まれた、弟の民治だった。再会が私(清張)の眼から描かれているが、清張は何歳くらいだろうか?
民治は、米子の中学校を卒業して、山口の高等師範学校に行く途中だと説明した。民治は十六歳くらいだろう。
推測すると、峯太郎と、七,八歳程度離れていると考えられるから、二十四,五歳前後。清張は...少しつじつまが合わないような気がする。
よく読むと、必ずしも、清張の目線で描かれている訳ではなさそうだ。再会の場に清張がいたとは限らない。

「よう、ここがわかったのう?」 
少年は母(峯太郎の実母)が淀江の家から聞いたと言った。峯太郎は出奔後も何某かの金を養父母に送っていたのだ。
民治は、母(峯太郎の実母)が、兄さんのことをとても心配していると言いながら、かつての母のように、反物や、シャツや、下駄などの土産物を差し出した。
父が、弟に会ったのはこの再会が生涯で最後だった。

私(清張)が三つの時、一家はS市に移った。S市は、下関市。この書き方だと、広島から下関に移ったようだ。
   (一家は、他の作品では、下関餅屋を営んでいる養父母と暮らし始めている。清張が三歳の頃祖父が死亡している。)

六七年後、西田民治からのハガキで、O市で教師をしているとの便りがあった。
「民治の女房は学校の先生じゃったそうな」峯太郎は誇らしそうに言った。
峯太郎は、母を不足に思っていた。それは、一字も解せぬ無教育の女を妻にしていることであり民治の妻に比較しても羨望の気持ちがあった。
峯太郎は、妻を戸籍に入れなかった。
私(清張)は、戸籍上は私生児だった。
米相場で少しゆとりが出来、懐具合が良かったとき、女も出来た。
>おまえのような女は女房でないから離別すると言いだした。
母は、無学ではあったが、気の強い女で、学校に行かなかったのも先生に叱られて意地でやめたのだった。
母は、商いさえしていれば食いっぱぐれはないと考えていた。餅屋をやっていた時期である。
餅を作りながらの夫婦喧嘩は、作りたての餅をゴミ箱に投げ入れる乱暴でさらに険悪になり、父は二、三日も家に帰ってこなかった。
(「骨壺の風景」にも同じ場面がある)
父に女が出来たが、その女は、土地の芸者だった。母は、帰ってこない亭主を探して、夜の花街を探し歩いた。清張の手を引きながら。

父の幸運もそんなに長くは続かなかった。相場で損をする、仲買店は出入り禁止になる。借金取りには追われる。
家に帰れば、母が青筋を立てて、父を責め立てる。
父は家出をした。家出をされては、母も途方に暮れた。
近所で親しくしていた蒲鉾屋に世話になることになり、女中がわりに働いた。近所付き合いなら、対等だが、女中がわりなら主従とも言えた。
蒲鉾屋で働く場面は凄惨で凄まじい。
学校帰りの私(清張)を待ち伏せするように、校門の側に立っていた。声をかけられ、「お母は元気か」ときいた。
父に連れられて、木賃宿に行った。(この場面も「骨壺の風景」に出てくる)

もとどおりに一緒になった夫婦は、九州のY市へ渡った。(Y市は、当時の八幡市だろう)

読み進むにつれてある事に気がついた。
自叙伝的作品と思い込んで読んでいたが、途中で「西田民治」が弟として登場するが、義母夫婦も実母も、父の名前さえも登場しない。
清張らしき人物も「私」としての登場だけだ。(西田姓は父の実父母家の姓であるが、本当は田中という、名も田中嘉三郎)

その時々の印象的な場面は、他の自叙伝的作品にも登場する。しかし、作品的にはこの「父系の指」で最初に書かれたものである。
そのため、何度も読んだことのある場面に遭遇する。作品的には印象が薄まり面白くない。
具体的には、これまで他の作品と比較して書き出してみたが...以下少し書いてみる。
     師走の人通りの多い橋の上で塩鮭や鱒を売っていた。
     引っ越しして、二間しかない貧しい家の一間に住む。隣が家主、六十をこした老婆と九つばかりの娘がいた。 
     テキ屋家業を始める。巴焼きやスルメの醤油焼き。母も手伝った。父は大八車で、母は、手押し車。
     相変わらず口やかましい母だったが、父は真面目に働き出した。
     政治話をする父、それは自慢話として語られる。「あんたは根っからこんな商売をする人じゃあるまい」と言われたとか
     母は、「ふん、また法螺をふいている」。人前でも悪口を言うことがあった。
母の弟は、「あんな法螺吹きは嫌いじゃ」と言っていた。父が遊んでいた頃は、「姉さん、別れたらいつでもわしのところへ帰ってきんさいや」と言っていた。
母にはこの弟以外に三人の妹が故郷にいた。夫婦喧嘩の時は、母の弟妹が後ろ盾だった。一人っ子の父に独り者と罵った。
一緒には暮らしていなかったが、弟の民治が父の気持ちの上でも頼りだった。
民治から「受験と学生」という雑誌が送られてくる。

※実際「受験と学生」なる雑誌があった。でも、関係はなさそうだ。

送られてきた雑誌は「主筆 西田民治」と署名があった。
手紙には
今度こういう雑誌を出すことになった。兄上には自分の息子より六つぐらい年上の男の子があるそうだから、
来年は中学校だろう。参考に毎号お送りすると記されていた。


父はうれしくてたまらない。
「主筆、西田民治......か」
「おまえにはこんなええ叔父さんがあるんだぜ」
礼状を出せと催促するのだった。
しかし、私(清張)には、読書価値がなかった。それはとっくに上級学校に行く希望を捨てていたからだ。
こんな雑誌をあてがって、満足している父にむしろ反感があった。


父は、五十近くになってテキ屋家業は止めた。
練兵場前に兵営に面会に来る人たちを相手に、屋台の餅や、駄菓子やラムネを売る屋台店を出した。
屋台店の前を四,五人で通る私や友達を呼び止めて
>「どうじゃ、おまえたちは学校でどんなことを教えてもらったかしらんが、政治の話をおれが少し教えてやろう」
小学生を前に、政治を語り始めるのは傍目には滑稽極まりない。
清張は、「そういう時の父は苦労のない人間であり、人のよさがまるだしだった」と書いている。なぜか温かい眼差しである。

私(清張)は、西田民治に手紙を出したことがある。
東京に出て勉強したいから面倒を見てくれないかと書いた。はっきりと断られた。
勉強は東京でなくてもどこでも出来ると見当違いの返事があった。見たことのない叔父への手紙だった。

母の弟はしっかり者だった。
父を法螺吹きと言って嫌っていた。母の前でも同じで父の悪口を言った。母は、それが実弟が自分の見方をしてくれていると思っていた。
叔父(母の実弟)は、私(清張)の指を見て
>「お前の指の格好は親父そっくりじゃ、親子とはいいながら、よく似たもんじゃ」
と笑った。私の指は伸ばすと反るくらい長かった。
その笑いは、嘲りがあるように思われた。
>しかし、この叔父からそう言われるくらい、胸に毒がまわる思いがしたことはなかった。「おまえも親父に似てつまらん男になるぞ」
という同じ意味が叔父の嘲笑にある気がした
二人の叔父から受けた感情は、「嫌悪」として清張に沈殿したようだ。

叔父(母の実弟)が、仕事で東京に出張すると立ち寄った。
喜んだ父は、叔父(母の実弟)に西田民治宅を訪ねてくれと頼んだ。住所は世田谷区世田谷一丁目○○番地


※世田谷区世田谷一丁目は、世田ヶ谷通の上町付近で
世田ヶ谷中央病院の近くである。
清張の叔父(西田民治)は、他の作品では医者として
登場することもあったと思う。


出張から帰った叔父(母の実弟)から報告を受けたが
素っ気ないものだった。
>大きな構えの邸にびっくりした。たいそう金持ちらしいよ。
>本人は留守で奥さんが出てきて、
>遠いところをありがとうございました。帰ったら申し伝えます。
「ただそれだけかな?ほかに何も言わなんだかな?」
>「ほんにんがおらんから話がるはずがないがな、
>かないじゃわからんことじゃけな」

叔父(母の実弟)は、かげで母に言った。
>「兄さんもよくよく貧乏性に生まれたもんじゃのう。
>弟のほうがあがいに出世して」

叔父(母の実弟)が報告する場面でも、誰の目線なのか気になる。
私の「清張」自身が、その眼で見、その耳で聞いたのか、今ひとつ理解出来ない。
>民治が山口高等師範学校に行く途中、広島を訪ねてきた時が、弟妹流離の二つの線がはからずも途中で交差した一点ということになるのであろうか。
母が洩らした、「あんたは兄弟縁のうすい人じゃなあ」の一言は父への慰めであろうか...

それから二十年の歳月がたった。
私は九州のある商事会社の社員になっていた。
それが、電工の見習い、活版所の小僧、植字工、店員、外交員、保険勧誘員などの職業を経ての末だった。
自叙伝的ではあるが、「仮構の世界につくりかえる。」ことが小説として厚みを増しているのだろうか?(私には少々疑問だ)
平凡な結婚をし、二人の子をもうけた。母は死んだが、父は、七十を越して生きていた。

私は、大阪に出張した帰り突然、矢戸に行くことを思いついた。
これから先は、「田舎医師」である。
本来なら、作品順という意味だが、「父系の指」を読んだ後「田舎医師」を読めば、違う感想を持ったかも知れない。
矢戸に向かって、西田家を訪ねる。西田善吉、西田小太郎、西田与市という家があるという。西田民治の親戚らしい。
西田善吉が西田家の本家筋らしい。本家筋とは、父の親父の兄に当たる筋らしい。西田善吉を訪ねることにした。

西田善吉は医師だった。往診を頼まれれば馬で行くのだと妻は言った。
善吉を待つ間、昔のアルバムを見せられた。それは己の境遇と余りにもかけ離れた西田家の繁栄を眼のあたりにさせられるものだった。
西田善吉の妻がアルバムを見せるのが、特別自慢をする気持ちではなかろうに、むしろ退屈しのぎの接待としては自然な行為でもあろうに
私は、そのアルバムを見ているのが辛抱できなかった。愉快でない気持ちは抑えきれなかった。
善吉が帰らないことをいいことに、暇を告げた。

家に帰ると父は待ちかねていた。電報で、矢戸に行くことは伝えてあった。
「矢戸に行ったそうなが、どうじゃったの?」
「行ったけど、つまらん所やった」
残酷な返事しか出来なかった。
それでも、「あのな、今度、時候のええ時に一緒に行こうな」と言わずにはいられなかった。

矢戸から帰った後、礼状を書いた。それに返事が来た。
父の生家は民治宅から一町離れた所にあり、売却されているとのことだった。
民治が成功して、出版社の社長をしていること、住まいは田園調布に移りかなりの生活をしていることが記されていた。
そして、
>他の親族もまずまずかなりの生活を営みおり、一族結束相互扶助にてつつがなくやっております。
そこには、家系図のようなものが添えてあった。
系図に書かれた名前の下には、いちちt、中流以上、当地方では上流とか中流とか生活状態が書かれていた。
「みんな、ええ暮らしをしとるんじゃのう」
父の言葉には、”一族結束相互扶助”にはずれた孤独の寂しさが滲んでいた。
新しい民治の所在を知った父は、民治に手紙を出した。返事はなかった。

社用で東京に行くことになった私。民治宅を訪ねてくれと頼む父。民治は田園調布に移っていた。
西田民治は株式会社髟カ館の社長。(髟カ館は実在するが関係なさそうだ)私は、民治宅を訪ねた。
民治はすでに亡くなっていた。遺影がまさに父そのものだった。
民治の後を継いでいるという長男に会った。私とは従弟と言うことになる。
食事も出され、私はそれなりに歓待されるのだが、それは西田善吉宅を訪ねた時に見せられたアルバムに同じだった。

「矢戸に親父の分骨を埋めようと思いましてね」
リンゴの皮を器用にむきながら長男の従弟が話した。
ナイフを当てながら、くりくりとリンゴをまわしている従弟の指に、ふと眼を止めた。
それは長い指だった。
わたしのゆびにそっくり似た指だった。
>外国兵が日本の女に生ませたわが子を識別するのに、自分の爪のかたちとその子のそれとを比較するという話を私は思い出した。
そんな話があるのだろうか?
父系の指への嫌悪と憎悪の感情は、同じ血への反発であり、相手に対する劣等感であった。

最後まで名前が出てこない。
途中でも触れたが、場面場面に私(清張)が存在していたのか、作家としての「神」が、俯瞰して、登場人物の心を語らせているのか
最後まで私(素不徒破人)には、整理できなかった。私には消化不良だった。



−−−−−−−自叙伝的作品を年代順に並べると−−−−−−−−−−−
父系の指」は、1955年の作品
田舎医師」は、1961年の作品
暗線」は、1963年6月の作品
半生の記」は、1963年8月〜1964年1月の作品
恩義の紐」は、1972年の作品
渡された場面」は、1976年の作品
骨壺の風景」は、1980年の作品


2022年04月21日 記 
作品分類 小説(短編) 24P×1000=24000
検索キーワード 不運・伯耆郡矢戸村・里子・養子・出奔・印賀鉄・砂鉄・安来節・淀江町・和傘・車夫・女工・S市(下関市)・餅屋・学生と受験・田園調布・長い指 
登場人物
私が作品中で父と呼ぶ。作品が松本清張の自叙伝的作品とされていて、父とは清張の父、峯太郎と考えられる。
私が作品中で母と呼ぶ。作品が松本清張の自叙伝的作品とされていて、母とは、夫峯太郎の妻タニと考えられる。
最後まで私として登場。松本清張と考えられる。
西田民治 私(清張)の父の弟。父(峯太郎)が養子に出された後に生まれた弟で、私(清張)の叔父に当たる。出版社の社長
西田善吉 私(清張)の父方の本家筋の人間。矢戸に住む。開業医をしている。
母の実弟 私(清張)の母の実弟、叔父。法螺吹きは嫌いと、私(清張)の父を軽蔑している。姉思いの弟でもある。広島の鉄道会社に勤めている。
西田民治の長男 父親(西田民治)の後を継いで社長をしている。私(清張)にとっては従弟に当たる。私(清張)と同じく父系の指の持ち主。

父系の指




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