.

検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その三十一:画家)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
(登録キーワードも検索する)


ページの最後


●画家

●画家
生けるパスカル
消滅」(絢爛たる流離第十二話)
馬を売る女」(黒の線刻画第三話)
すずらん
黒革の手帖」(上)
アムステルダム運河殺人事件
装飾評伝
遺墨」(隠花の飾り第十一話)
与えられた生
紙碑
※「小説帝銀事件


▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽

●職業としては、「警察官」「弁護士」「住職」「作家」「記者」「医者」など今まで取り上げてきた。
直接キーワードとして紹介作品に取り上げたものは、『小説 帝銀事件』『装飾評伝』『紙碑』の三作品である。
記憶を頼りに書くと、『球形の荒野』で、ヒロインの野上久美子が、笹島恭平画伯のモデルになるシーンがあったと思う。
なぜだか、キーワードに「画家」が入っていなかった。
作品紹介のキーワードは、その時の気分で、今考えると熟考していない。特に初期の頃は、簡略に済ましている。
画家は殆どの場合、名前もあり、具体的存在として登場している。
「生けるパスカル」=矢沢辰生
「消滅」=???
「馬を売る女」=石岡寅治
「すずらん」=秋村平吉
「アムステルダム運河殺人事件」=レンブラント
「装飾評伝」=名和薛治
「遺墨」=???
「与えられた生」=桑木
「紙碑」=重田正人
消滅と遺墨だけが人名がハッキリしない。
何れにしても、重要な役割を果たしているようだ。個人の職業として特異な存在と言ってよい。
「音楽家」など「家業」といえば、ひとランク上の人物として簡単に受け入れられる。「作家」もそうだ。「建築家」など同様だ。
具体的に書いてみると『砂の器』を思い出した。ヌーボーグループの面々の職業だ。
●和賀英良:作曲家●関川重雄:評論家●片沢睦郎:画家゚
画家もいたのには驚いたが、「家業」の存在の危うさを感じてしまう。

▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△


2023年8月21日

 



題名 「画家 上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
生けるパスカル 画家の矢沢辰生は、美術雑誌記者の森禎治郎がいう外国の小説の話を、近来これほど身を入れて聞いたことはなかった。矢沢より十ぐらい若い森は、美術雑誌記者になる前は文学雑誌の編集志望だった。矢沢は小説の方面に不案内である。話は銀座裏の飲み屋の二階だった。それはイタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの小説で「死せるパスカル」というのである。何からその小説の話になったのか、矢沢はあとまで覚えている。長い間郷里に帰らなかった東北の出稼ぎ農民が殺人事件の被害者に間違えられているのを知って、おどろいて郷里に帰ったというのが発端だった。その出稼ぎ農民は三年間も妻や親戚などに便りを出さなかった「のんき者」だったが、たまたま妻がテレビ報道で、殺された身元不明の男の特徴が夫に似ているところから警察に届け出た、それが新聞に載って彼の帰郷となったのだった。
消滅
(絢爛たる流離第十二話)
別荘地・溶接工・蜜柑畑・融解・小説・ドストエフスキー・講義録・ガスバーナー 
湘南地方のN都市は、最近、新しい別荘地帯としてとみに株を上げてきた。深く抉られた入江は、夏はヨット港になったし、冬は色づいた密柑山に囲まれて十分に暖かであった。つまり、避暑によく、避寒によかったので、誰かがここに目をつけ小さなコテージを建てた。誰かといっても無名の人間(たとえ金持ちであっても)ではブームにならない。それはジャーナリストが写真班を連れてくるような「著名人」でなければならなかった。映画監督でもいいし、歌手でもいいし、画家でもいいし、小説家でもよかった。俳優ならなおよかった。最初の開拓者がどのような職業であったかは問うところでない。とにかく、一群の有名人たちが別荘をここに持ったことでN地は急激にマスコミの脚光を浴びたのである。雑誌のグラビアには、高名な若い芸術家がヨットに半裸で乗り込んでくるところや、人気女優が海の上にさし出たベランダの上で嫣然としている姿など、きれいな調子で紹介された。 
馬を売る女
(黒の線刻画第三話)
【帯】大都会の盲点・高速道路の非常駐車帯で殺されたのは競走馬情報をサイドビジネスにしていた平凡なOLだった。現代風俗を鮮やかに描く異色のミステリー
画家の石岡寅治は一週間に二回ぐらいのわりあいで銀座に出かける。家は杉並区久我山の何丁目かである。久我山というところは杉並区の西の端で、同時に東京都二十三区の最西端でもある。げんに画伯は三鷹市の井の頭公園を散歩する。銀座には何とか会合があってでかけるのだが、酒の好きな画伯はその帰りにはもちろんのこと、バアにはわざわざでも飲みに行く。当然、帰り時間はそう早くない。帰りはタクシーである。霞ヶ関のランプから高速に入るのだがたいてい十一時ごろで、ときには零時をすぎることもある。この時刻だと高速道路も同じ方向へ行く車が多い。さすがにトラックはないが、マイカー、ハイヤー、タクシーの赤い尾灯が輝きながら連なって走る光景はさながら提灯行列のように壮観である。
すずらん
六月の半ばであった。秋村平吉は、午後零時すぎに新宿駅にきた。真直ぐに出札口に歩いて、行き先までの切符を買った。窓口の釣り銭を待っていると、うしろから軽く背中をつつかれた。だが、彼は振返らなかった。分かっているからである。釣り銭をゆっくり財布の中に押し込み、切符を上着のポケットに入れてから、はじめて向き直った。ベージュのツーピースを着た、二十七,八くらいの女の微笑がすぐ前にあった。「困るな」秋村は女の前をすぎるときに云った。顔をしかめる表情は、彼がキャンパスに向かって絵の調子を見るときすぼめる目つきと同じだった。「三十分も前から来て待ってたのよ」女は云った。やや肥った感じだが、眼の大きい、派手な顔だった。手にしゃれたスーツケースを提げていた。画家のほうは、野暮ったい普通の旅行鞄だった。「離れていてもらいたいな」秋村はならんで歩きたがっている女に云った。眼をあたりに配っていた。待合室には大勢の客が座っていた。  
黒革の手帖」(上) 【帯】十数年の満たされぬ境遇への怨念をかけ、緻密な企画で作成した行金横領のためのブラックリスト---この〝武器〟で見事に転身した女の幸せはどこまで続くか?
「クラブ・燭台」は銀座の並木通りを土橋近くへ歩く横丁で、このへんに多いバア・ビルの一つにあった。五階まで全部クラブとかバアとかの名のつく店で占められていた。ママの岩村叡子は大柄な、背の高い女で、けっして美人ではないが、あっさりとした愛嬌がある。三十四,五くらいで、鼻の先が少し上向いている。頭の回転も早い、開店して十年以上になるが浮沈の多い銀座の世界では人なみ以上の経営才能を要する。女の子が三十人くらいで、半分以上入れ替えがかなり激しい。十一月のある晩、絵描き仲間が三人寄った。向こうのテーブルに顔の小さなホステスがついている。小紋の肩も細い。こちらから眺めても三十を二つか三つは出ているように思われる。「あのひと、新顔だね?」「はい。ハルエさんというの」画家はAの視線に瞳を合わせた千鶴子というのが教えた。「半月前からよ」Aがハルエという女を煙草の煙の中でときどきそれとなく監察すると、なんだかぎこちないところが見える。前から居る女たちが客とふざけていても、ハルエは上体を棒のようにして座っていた。顔は精一杯の愛想笑いをしていたが。

アムステルダム運河殺人事件
一九××年八月二十六日の夕方五時ごろのことである。アムステルダムのヤコブ・ファン・レネップ運河の西河岸通りでマルホ・アンティニクという八つの少女が友だちと遊んでいた。夏の北ヨーロッパのこの時間はまだ真昼間だし、炎天の下である。このオランダの旧くて賑やかな商業都市を訪れた旅行者は、まず遊覧船に乗って定められた運河めぐりをするのが普通となっている。両岸の、赤い煉瓦に統一された狭隘な間口の商館や住居、その白い窓に出された赤い花、川沿いの通りの並木の下にならんだおびただしい自転車、パイプをくわえて歩く人々、すべて音もなく水の上に影を落としている。ボートはその色彩的な倒影を静かに崩しながら、いくつかの橋の下をくぐって進む。背の高いガイド嬢は、大小の運河に三百の橋がかかっていることや、画家レンブラントゆかりの家、第二次大戦のナチの犠牲者アンネ・フランクの家などを指摘し、十七世紀におけるアムステルダムの黄金時代を回顧的に説明し、その合間にマイクをはずして煙草をふかす。オランダ人はそうじてチョコレートと煙草が好きである。  
装飾評伝
画家・作家・自殺・襲撃・放浪・不倫の妻・岸田劉生・ヨーロッパ帰り・芸妓
私が、昭和六年に死んだ名和薛治のことを書きたいと思い立ってから、もう三年越になる。或る人からその生涯のことを聞いて、それは小説になるかもしれないとふと興味を起したのが最初だった。私の小説の発想は、そんな頼りなげい思いつきからはじまることが多い。名和薛治は、今の言葉でいえば、「異端の画家」と呼ばれている一人であった。日本の美術の変遷はヨーロッパの様式を次々と追ってきたような具合で、それがいつも主要な傾向になっているが、その流れから少し外れて、個性的な格式を生み出そうとして、自分の場所の一点にじっと立ち止まっている作家を指して異端といっているようだし、それにこの意味には生活的にも多少変わっていたということも含んでいるようである。 
遺墨
(隠花の飾り第十一話)
速記者・哲学者・古書目録・古本屋・家政婦・離婚・30女・専属・商家の娘・長唄・座談会・講演旅行・泥棒猫・修羅場・風頼帖 
 神田の某古書店から古本市の目録が出ている。二四〇ページの部厚さで、古書籍のほかに浮世絵などの版画や江戸期いらい現代までの書画も収録され、その一部はアート紙で五〇ページにわたる巻頭の写真版となっていて、豪華なものである。その中に「名家筆蹟」という欄があり、画幅、書幅、草稿、書簡、色紙、短冊の類がある。専門家や書家の筆のほか、政治家、軍人、宗教人、文士、評論家の書いたものが多い、もちろん物故者がほとんどである。競売の目録ではないから各店ごとに値段がついている。この値段と筆者とをくらべて見るのは興味がある。画家や書家は別として、当時権勢ならびなかった政治家の書幅のほとんどは安い値である。軍人の書幅が軒なみ下落しているのは仕方がない。総じて値が高いのはいわゆる文化人の筆蹟だが、これにも微妙な差があって、たとえば生前に高く評価されていた文士のものが案外に値が低かったり、どっちかというとおおかたの批評家などに無視されがちだった不遇な人のに高い値がついているのはいわゆる「棺を蓋て事定まる」(生前の名誉や悪口はアテにならない)を、そのまま値段の数字にあらわしているようで興趣がある。
与えられた生
桑木は三ヵ月ほど前に、内臓外科専門のA病院で胃癌の切除手術を受けた。その以前、ほとんどの癌患者がそうであるように桑木も自覚症状がなかった。何となく痩せてきて、顔色も悪くなったのが半年前からである。日本画家である彼は、秋の展覧会に出す大きな作品を春から夏にかけて三つほど制作したので、その疲れのせいだと思っていた。ことに今年の夏は暑さがひどくて身体にこたえた。今まではこういうことはなかったが、四十をこすと無理ができなくなるのかなと思った。が、それよりもここ二,三年の間に画壇で認められるようになってから意識して大きな作品をつづけさまに描いてきたので、その疲労がつもったのだと考えていた。日本画といっても彼の描くのは洋画と同じように百号くらいの大きさに岩絵具を押しつけてゆく作業で、しかも、洋画と違い、日本画の繊細な線を生かして描くから、体力も精神力も消耗する。 
紙碑
画家・再婚・日本美術大辞典・記念碑・未亡人・教頭・校長・教育委員会・編集部・波濤会
 A社から「現代日本美術大辞典」が出る。来年の昭和五十一年春という。全三巻で、目下編集中という。広子はこの話を唐沢未亡人の手紙で知った。夫の留守にきたその手紙は焼いた。広子は十五年前に死んだ画家、重田正人の妻だった。重田の死は四十六歳、広子が三十六歳のときであった。七年経って勧める人があり、子のいない広子は北野孝平と再婚した。北野は都立高校の教頭だった。広子とは七つ違いである。北野も三年前に妻と死別していた。彼にも子はなかった。北野は広子の前夫が画家なのをもちろん知っている。広子は北野といっしょになる前、彼と話した。--重田正人さんのお名前、うかつですが、ぼくははじめてうかがいます。ぼくは高校教師で、教科は数学一本槍なので、芸術とか画壇とかはまったく昏いのですが。
※「小説帝銀事件   画家・青酸カリ・毒殺・小切手・小樽・GHQ・コルサコフ症状・テンペラ画・スポイト・名刺・731部隊・進駐軍・自白・人相書き・面通し・春画
R新聞論説委員仁科俊太郎は、自分の部屋での執筆が一区切りついたので、珈琲でも運ばせようと思って、呼釦を押すつもりであった。窓を見ると、雨が晴れたばかりで、金閣寺のある裏山のあたりの入り組んだ谿間に、白い霧がはい上がっている。南禅寺の杜も半分は白くぼやけている。ホテルは蹴上にあって高いところだし、部屋は五階だから、このように俯瞰した眺望になるのである。下には大津行きの電車が、まだ雫の落ちそうな濡れた屋根を光らせながら坂を上がっていた。どのような美しい窓からの景色も、ホテルの長滞在の間には感興を失うものだ。仁科俊太郎は、この部屋で茶を喫むことを思いとどまって起ち上がった。場所を変えたいが、外出すると時間がかかる。四階に広いロビーがあるのでそこで憩むことにした。彼は上着をつけて廊下に出た。すぐ下だからエレベーターを利用する必要はない。彼は緋絨氈を敷いた階段をゆっくり降りた。 

ページのTOP