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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その十四:作家)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
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ページの最後


 作家が登場する作品は結構ある。

すべてでは無いが、清張を連想させるし、清張自身を反映させていると言える。
作家が作家を描く無遠慮さは、あまり好意的では無い。ある意味ユーモラスな人物像
として登場したりしている。
自身が作家であり、それも大作家であるが総じて批判的である。

「Dの複合」と「地方紙を買う女」 は、作家が自作の評価を気にする心理が共通する。
「理外の理」・「賞」は、自戒を込めた「一発屋」的な作家への強烈な批判である。才能の枯渇?は、
不幸な結末を迎えるだけだ。

「装飾評伝」は、清張独特のモデル小説で、虚実が混沌として存在するであろう
不思議な魅力ある作品だ。

●「蒼い描点
●「美しき闘争(上)
●「Dの複合
●「理外の理
●「地方紙を買う女
●「装飾評伝
●「剥製

●「昭和史発掘 第十四話 小林多喜二の死
●「グルノーブルーの吹奏(骨折)
●「
黒の図説 第三話 鴎外の碑
●「生けるパスカル
●「表象詩人
●「風の視線
●「黒い画集 第八話 濁った陽
●「死の枝 第六話 古本
●「菊枕 ぬい女略歴



2018年10月21日

 



題名 「作家」
上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
●「蒼い描点  箱根湯本温泉・女流作家・椎原典子・村谷阿沙子・杉ノ屋ホテル・田倉義三・代作
椎原典子は、新宿発午後四時三十五分の小田急で箱根に向かった。多摩川の鉄橋を渡るころ、川の中では人間やボートが浮かんでいるのが見えた。七月の太陽は傾いているがまだ水の上に燃えている。それから急に相模の平野が青くひろがってきたので、典子のすわっている側の乗客は、あわててカーテンをおろした。その騒ぎで、翻訳物の文庫本を読んでいた典子は目をあげた。時間が時間だけに、車内には箱根泊まりらしい客が見えた。若いアベックもあれば、中年の、夫婦でない組もある。どれも楽しそうに話をかわしていた。通勤で、小田原までで降りる客は、みんな疲れた顔をして黙って目を閉じていた。 
●「美しき闘争(上)  離婚・週刊誌記者・女性の自立・女流作家・熱海温泉街・伊豆・桃色ルポ・奥湯河原
井沢恵子は門を出た。この辺の路は暗い。小さな家が多かったが、それでも住宅街だった。外灯がまばらに路を照らしている。恵子はタクシーの走っている通りへ向かって脚を大きく運んでいた。もう、バスは終わっているだろう。賑やかな通りに出るまで、まだかなりの距離があった。風が冷たかった。その冷たさが熱した頬にこころよい。わずか紙一枚の手続きだった。いや、、判コを捺すことだけで米村恵子に変わったのだ。実に何でもない瞬間だった。この手続きのために、なんと一年間、苦しんできたのだ。泪は出なかった。まだ怒りが胸にたぎっている。たった十五分前までは夫だった木村和夫と姑のミネ子に、引返して怒鳴りたくなる。大きな声で腹の底から罵倒したかった。が、彼女はその離婚届に判を捺したとき、「長らくお世話になりました」と、冷静に両人に挨拶できた。理性に勝った動作だった。その冷静さが今になって腹が立ってくる。
●「Dの複合  宇美辰丸・冤罪・月刊誌・作家・ふだらくとかい・浦島羽衣伝説・東経.北緯・紀行エッセイ読者・計算狂・僻地伝説
午後三時五十三分、列車は、といってもディーゼル車だが、天橋立駅を西に少し向かって離れた。十月二日の、秋のはじめにしては少し涼しすぎる曇り日であった。どうしてこんなこまかい時間に伊瀬忠隆が注意を払ったかというと、列車がホームを動き出したとたんに、彼が腕時計に眼を落としたからである。といって、売店の上に位置した駅の電気時計と、自分のインターナショナルの針と見くらべたわけではない。つまり、退屈だったのだ。彼は小さなあくびをした。京都から乗って、綾部でもいっしょに乗り換えた乗客の半分は、天橋立駅で降りてしまい、車両がにわかに空いてしまったので、退屈感も増し、さらにこれからもっと田舎に行かなければならぬといううらぶれた感じにもなった。
●「理外の理  雑誌・編集長・執筆者・作家・巷説逸話・縊鬼・オデデコ人形・首くくり・風呂敷・作中作品・法医学書
ある商品が売れなくなる原因は、一般論からいって、品質が落ちるか、競争品がふえるか、購買層の趣味が変わるか、販売機構に欠点があるか、宣伝に立ち後れがあるか、といったところに誰の結論も落ちつく。商業雑誌も−−−その「文化性」を別にすれば−−−やはり商品の範疇にはいるにちがいない。したがってその種の雑誌の売行きが思わしくなくなった場合、上記の原則に理由が求められるだろう。不振の商品売れ行きを挽回するには、品質の向上を図って競争品を引き離し、購買層の動向を察知して商品のイメージ転換をなすことが先決である。他の販売機構の不備とか矛盾とかは、商品が好評を博するとあとを追って自ら改まるものだし、宣伝も生々としてくる。利潤が増大すれば経営者は宣伝費を奮発するようになる。この一般論は営利を目的とする雑誌にも適用されよう。
●「地方紙を買う女 甲信新聞・作家・野盗伝奇・連載小説・新聞購読・新大臣・帰郷演説・ピクニック・遺書・心中
潮田芳子は、甲信新聞社にあてて前金を送り、『甲信新聞』の購読を申しこんだ。この新聞社は東京から準急で二時間半くらいかかるK市にある。その県では有力な新聞らしいが、むろん、この地方紙の販売店は東京にはない。東京で読みたければ、直接購読者として、本社から郵送してもらうほかないのである。金を現金書留めにして送ったのが、二月二十一日であった。そのとき、金と一緒に同封した手紙には、彼女はこう書いた。−−貴紙を購読いたします。購読料を同封します。貴紙連載中の「野盗伝奇」という小説が面白そうですから、読んでみたいと思います。十九日付けの新聞からお送り下さい....。潮田芳子は、その『甲信新聞』を見たことがある。K市の駅前の、うら寂しい飲食店のなかであった。注文の中華そばができあがるまで、給仕女が、粗末な卓の上に置いていってくれたものだ。いかにも地方紙らしい、泥くさい活字の、ひなびた新聞であった。三の面は、この辺の出来事で埋まっていた。五戸を焼いた火事があった。村役場の吏員が六万円の公金を消費した。小学校の分校が新築された。県会議員の母が死んだ。そんなたぐいの記事である 
●「装飾評伝  画家・作家・自殺・襲撃・放浪・不倫の妻・岸田劉生・ヨーロッパ帰り・芸妓
私が、昭和六年に死んだ名和薛治のことを書きたいと思い立ってから、もう三年越になる。或る人からその生涯のことを聞いて、それは小説になるかもしれないとふと興味を起したのが最初だった。私の小説の発想は、そんな頼りなげい思いつきからはじまることが多い。名和説治は、今の言葉でいえば、「異端の画家」と呼ばれている一人であった。日本の美術の変遷はヨーロッパの様式を次々と追ってきたような具合で、それがいつも主要な傾向になっているが、その流れから少し外れて、個性的な格式を生み出そうとして、自分の場所の一点にじっと立ち止まっている作家を指して異端といっているようだし、それにこの意味には生活的にも多少変わっていたということも含んでいるようである。 
●「剥製  鳥寄せの名人・武蔵野・新聞社・カメラマン・取材・作家・美術評論家・原稿・物まね・天勝一座・工員服・ズックの鞄
鳥寄せの名人がF市に居るから写真班を連れて、子供向きの読物記事にしてくれないか、と芦沢が次長から頼まれたのは、十月の終わりごろであった。芦田は、そのとき、新聞社の出版局にいて、小学生や中学生むきの雑誌の編集部に属していた。鳥寄せというのは、どのようなことをするのか芦田は知らなかった。「口笛を吹くような恰好で、野鳥の啼き真似をして同類をあつめるだろう」次長もよく知らないらしかった。「なにしろ名人らしい。その男が呼ぶと、付近の空を飛んでいるあらゆる鳥が集まって、その辺の木の枝にとまるそうだ。知らせてくれた者がそう云っている。面白そうだからグラビアで出したい。君は、その苦心談といったようなものを聞いて記事にしてくれ」住所と名前を書いたメモを渡してくれた。F市というのは武蔵野のはずれにある東京の衛星都市だが、競馬場で有名だった。名人の名前は、塚原太一だと鉛筆の大きな字で教えられた。 
 ●「昭和史発掘 小林多喜二の死 治安維持法.共産党.1928年3月15日.拷問.虐殺.特高警察.天皇制.田口タキ.伊藤ふじ子
 小林多喜二のことは、すでに多くの研究や考証がなされて、ほとんどこれに加えるものがない。三十歳にして拷問によって殺されたこのプロレタリア作家は、今日もその作品の評価を色褪せることなく持ちつづけている。多喜二は短い生涯に終わっただけ彼について研究されるものはすべて出つくしている。さまざまな単行本のほか、「多喜二と百合子」という雑誌さえ発行されて、彼の作品のモデルや生活まで精緻な考証がなされている。私は、ここで小林多喜二の文学論を書くつもりはない。また、かつての拙稿「潤一郎と春夫」(第三巻所収)でしたような方法を用いようとも思わない。ここでは昭和史の進行途上に浮かんだ小林多喜二という特異な作家を浮かばせて当時の雰囲気を描こうとするだけである。芥川龍之介と小林多喜二とには何となく似通った点がある。文学的傾向も環境も性格ももとより正反対だ。しかし、どちらも年少にして名を成したこと、若くして死んだこと、どちらも自然死でないこと、昭和初期における二つの傾向の文学がこの両人によって代表されていることなどで、どこか似た感じがする。 
 ●「グルノーブルーの吹奏(骨折) 冬期オリンピック・スキー・距離競技・西側・東側・医師・警察官・グルノーブル
(第9回世界推理小説会議に招かれた
作家10人に依頼した「グルノーブルを舞台にした世界推理小説コント競作」として発表されたものである。)
 「一九××年、グルノーブルで全ヨーロッパ冬季オリンピック大会が催された。そのとき長距離スキー競争の一人が『東側の密使』であることはフランス治安当局にわかっていた。しかし、『西側』の連絡相手が不明だった。競争がはじまった。マークされた選手はビリから二番目を走っていたが、人目のないコースで負傷して倒れた。ビリの西側選手はそのまま走ってゴール点でこれを報告した。救護団がただちに現場へ出動し、報道陣も従った。治安当局は、ビリの西側選手が東側選手に化けた密使の連絡相手と推定。
●「黒の図説 第三話 鴎外の碑  浜村幸平は、これまで著名な文学者の著作や、その人物について考証してきた。彼が対象としたのは、明治・大正期の「文豪」といわれている作家が多い。これは浜村の事大主義からではなく、すでに相当な年月を経てから評価の決定した作家でないと「考証」の意義がないからである。多少、古典的なのはは仕方がない。しかし、浜村の筆は決して衒学的なものではない。彼はこういうものを学者の態度で書いてきたのではなく、いわば一般文学愛好者のためにその趣味を供したのである。したがって彼の書き方は多少ジャーナリスティックである。だが、学者が書くしかめつらしい文章よりときとしてすぐれている。それは、たんにわかりやすいというだけでなく、浜村の研究が文献的な資料に限定されず。また、学者の厳密な主題選択にもとらわれず、興のおもむくまま手をひろげてゆくので、思わぬところに珍重すべき材料を採取しているからである。
●「生けるパスカル   画家の矢沢辰生は、美術雑誌記者の森禎治郎がいう外国の小説の話を、近来これほど身を入れて聞いたことはなかった。矢沢より十ぐらい若い森は、美術雑誌記者になる前は文学雑誌の編集志望だった。矢沢は小説の方面に不案内である。話は銀座裏の飲み屋の二階だった。それはイタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの小説で「死せるパスカル」というのである。何からその小説の話になったのか、矢沢はあとまで覚えている。長い間郷里に帰らなかった東北の出稼ぎ農民が殺人事件の被害者に間違えられているのを知って、おどろいて郷里に帰ったというのが発端だった。その出稼ぎ農民は三年間も妻や親戚などに便りを出さなかった「のんき者」だったが、たまたま妻がテレビ報道で、殺された身元不明の男の特徴が夫に似ているところから警察に届け出た、それが新聞に載って彼の帰郷となったのだった。
●「表象詩人  批評家というのは、その詩的な抽象用語を駆使して作品の鑑賞論を展開しがちである。とくに美術評論家の作品評とか展覧会評となると、その文章の詩的抽象性の極致に感嘆するわたしなどは、美術評論家のこうした語句を蒐集して抽象表現の手本にしたいと思っているくらいである。もちろん、そうした表現は、評者の考えを述べるに当たって従来のボギャブラリーでおさまりきれないから、評者自身の手により新しく造語されるのだろう。しかし、このスタイルが案外評論の権威的な体裁となっているようだ。《若い頃、ある本について自分の直感的な感じと、権威ある批評家の感じとが食い違った場合、わたしは躊躇なく、自分の方が誤っているのだと結論した。批評家が、いかにしばしば、月並みな考えを受け入れるものであるかを知らなかったし、またあまり知らないことでも、確信をもって語ることが出来るとは、夢にも思わなかったのである》(モーム「要約すること」。中村能三訳) たとえば、ここに或る小説家が、作品活動の上で長い遍歴ののち、初期の作品と同じか、または似たようなテーマの小説を書いたとする。批評家はそれを見て、その作家の「回帰」だと言う。一巡して原点に戻ったのか、それとも原点からさしたる発展の才能がなく、仕方なしに元に戻ったのか、そのへんはこの詩的用語では曖昧である。さて、ある傾向の詩人の作品に難解性がいつまでも維持できるのは、小説家にくらべて文章が格段に短いためエネルギーが維持できるのだ、という詩人に対して失礼な憶測的解説がある。しかし、これはやはり資質の問題であろう。たとえば、日夏幸耿之介、西脇淳三郎といった「超自然主義」の詩人は、かなり老境にはいってもその活動がつづいていた。この両氏とだいたい似た傾向の詩人として、かつては木下杢太郎との野口米次郎とをあげることができる。。実際、現在でも「日本文学全集」といったものに、この四氏が同じ巻きでおさまっているのを見かける。 
 ●「風の視線 青森行き急行「おいらせ号」は、上野駅発二十三時で、列車はホームに入っていた。一等車の寝台で、作家の富永弘吉は、鉄道のマークが模様になっている浴衣に着替えて、小型角瓶を傾けていた。雑誌記者の角谷がその相手をしていたが、角谷の方は、まだ洋服のままだった。作家が落ち着いているのにくらべて、編集者の角谷はそわそわしていた。ウィスキーのグラスを口に運ぶのも、中腰の格好だった。どちらも酒のみで、そのほうでは気が合っている。角谷は腕時計を眺めては、通路を入ってくる乗客にちらちら眼をやっていた。「遅いな。」角谷が落ちつきのない眼でつぶやいた。「あと、何分だ?」作家は発車までの時間をきいた。「五分です。」「来るだろう。」と富永は平気でいる。半分白くなった髪を長く伸ばし、口をとがらしてグラスを舐めていた。眼の大きい人だった。その眼を、編集者に微笑わせて、「かわいそうに新婚旅行もできなくて、ここに駆けつけるというのだ。少しぐらいゆっくりしていても文句は言えない。」「そりゃそうですが、」角谷はそわそわしていた。 
 ●「濁った陽(黒い画集 第八話)  劇作家の関京太郎は、今度、ある放送局から頼まれて、一本のテレビ脚本を書くことを約束した。その作品は、近ごろ年中行事になっている重要なコンクールの参加番組だったので、彼は、慎重に筆を執ることにした。この番組は、各局とも特に力を入れているので、彼としても、受賞はしないまでも、あまりみっともない成績はとりたくなかった。テレビのシナリオを書くのは初めてである。関がもっとも頭を悩ましたのは、そのテーマだが、彼は、やはり、社会性のあるものを選ぶことにした。プロデューサーの杉山も同じ意見であった。関は、かねてから「汚職」に興味を持っている。しかし、近ごろ、汚職のことはかなり、小説やドラマにとりあげられている。それで関の考えとしては、正面から汚職をとりあげることをせず、側面からそれを衝きたい野心があった。
 ●「古本(死の枝 第六話)  東京からずっと西に離れた土地に隠棲のような生活を送っている長府敦治のもとに、週刊誌のR誌が連載小説を頼みに来たのは、半分は偶然のようなものだった。長府敦治は、五十の半ばを越している作家である。若かった全盛時代には、婦人雑誌に家庭小説や恋愛小説を書いて読者を泣かせたものであった。まだテレビの無いころだったから、彼の小説はすぐに映画化され、それが彼の小説の評判をさらに煽った。長府敦治の名前は、映画会社にとっても雑誌社以上に偶像的であった。しかし、時代は変わった。新しい作家が次々と出て、長府敦治はいつの間にか取り残されてしまった。もはや、彼の感覚では婦人雑誌の読者の興味をつなぐことは出来なくなった。長府敦治の時代は二十年前に終わったといってもいい。ときどき短い読み物や随筆を書くことで、その名前が読者の記憶をつないでいる程度になった。
 ●「菊枕 ぬい女略歴  三岡圭助がぬいと一緒になったのは、明治四十二年、彼が二十二歳、ぬい二十歳の秋であった。結婚は双方の父親同士が東北の同県人で、懇意であったためである。ぬいは九州熊本で生まれたが、これは父親が軍人で家族と任地にあったのである。父親は聯隊長などをして各地を転転としたから、ぬいも赴任の先々で大ききなった。父親は現役をひき一家は東京に居を構えた。ぬいが東京お茶の水高等女学校を出たのは、そのためである。在学当時のことについては格別のことをきかない。ただ、作文が巧みであったという。その時、もう一人同級に作文のうまい娘がいた。二人はそのため互いに意識していたが、仲良くは出来なかった。その娘は、後年、名のある女流作家となった。ぬいの母親は士族の女で端麗な顔だちをもって郷里に知られていた。

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