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松本清張_乳母将軍 大奥婦女記(第一話)

No_291

題名 大奥婦女記 第一話 乳母将軍
読み オオオクフジョキトウボウ ダイ01ワ ウバショウグン
原題/改題/副題/備考 ●シリーズ名=大奥婦女記
●全12話=全集(12話)
 1.乳母将軍
 2.矢島の局の計算
 3.
京から来た女
 4.
予言僧
 5.
献妻
 6.
女と僧正と犬
 7.
元禄女合戦
 8.
転変
 9.
絵島・生島
10.
ある寺社奉行の死
11.
米の値段
12.
天保の初もの
本の題名 松本清張全集 29 逃亡・大奥婦女記【蔵書No0014】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通)
初版&購入版.年月日 1973/06/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「新婦人」
作品発表 年月日 1955年(昭和30年)10月~1956年(昭和31年)12月
コードNo 19551000-19561200
書き出し お福が竹千代の乳母になったのは二十六の歳であった。竹千代は徳川二代将軍秀忠の長子である。家康は駿府城ではじめてお福を引見したとき、「そちは亭主と何ゆえ別れたのじゃ?」と訊いた。お福は頭を下げたままだったが、少しもわるびれない声で、「稲葉に不埒な所業がござりましたゆえ」と答えた。十五人の妾をもっている家康は苦笑した。お福の亭主稲葉正成はもと小早川家の臣であったが故あって浪人していた。その生活の中で女中に手をかけた。お福はそれを知って怒り、正成の哀願もきき入れず四つの子と生まれたばかりの嬰児を置いて婚家先をとび出したのであった。家康は退ってゆくお福の姿を見送って、傍に控えている執事の本多上野の介正純に、「あれ見たか。強い眼をもった女子じゃ。さすがは斉藤内蔵助の女ほどあるわ。竹が乳母には又とあるまい」と満足そうに云った。竹とは孫竹千代のことである。
あらすじ感想   お福(竹千代の乳母になったのは26歳/後の春日局)
竹千代(後に三代将軍家光となる)
家康(言わずと知れた、徳川家康)
秀忠(二大将軍、徳川秀忠)
稲葉正成(お福の亭主)
本多上野介正純
斉藤内蔵助
明智光秀
江与(エヨ)=竹千代の生母。秀忠の妻。32歳
お市の方の母(織田信長の妹/浅井長政の妻:三人の娘を産んだ/長女=淀君・二女=京極幸相高次の妻/三女=江与)
浅井長政

ざっと登場人物を書き出したが、人間関係を含めて、多様な人物で、全てが登場するとは限らない。説明的な紹介も多く含む。

お福は家康に駿府城で初めて会った。
>「そちは亭主と何ゆえに別れたのじゃな?」家康は聞いた。
>「稲葉は不埒な所業ががござりましたゆえ」お福は答えた。
お福の亭主は、稲葉正成。
家康はおふくが気に入ったのだろう。お福を竹千代の乳母に決めた。
竹千代の実母は、江与だが、お福との顔合わせでは好意は見せなかった。
わが子に乳を含ませるお福に嫉妬があったのかも知れない。
お福はそれを感じながら、怯むような女では無かった。それは家康の見立てでもあった。「斉藤の女だから」
江与の嫉妬は、お福との年齢差から来る「...女盛りの艶冶さがかくしてもこぼれている」にも起因していた。
江与の感情は妙な方向に進んだ。第二子の国松生まれて顕著になった。
江与は、わが子の竹千代が可愛くなくなった。むしろ憎くなっていった。

取り巻きも、江与の意向を受け、忖度することになる。
ぼんやりしている竹千代に比べ、国松は怜悧であった。
最早、度の越した国松贔屓が公然と行われた。二つのエピソードが綴られている。(割愛)
さすがに、お福は黙っていなかった。
こっそり抜け出して、家康へ直訴に赴く。
お福の意を受けた家康は江戸城へ出向く。
>「孫もおおきくなったであろう。見たいものじゃ。ここに連れて参れ」
家康の前に竹千代と国松が現れると、家康は竹千代に声をかける。
>「おお竹千代殿か、大きくなったな。ここへ来い、ここへ来い」と、招いた。
竹千代が進み寄った。いつもの調子で、国松が近づこうとしたら、家康は一喝した。
>「国松控えろ」
そして
>「竹千代殿は世嗣身じゃ。同列はらぬぞ」
同席していた秀忠は、はっとして顔をうつ向けた。秀忠は、家康の下向(江戸城入り)の意味を知った。
夫人(江与)の顔からも血の気が引いた。下を向いて唇を噛んでいた。
末座に座っていたお福は目から泪が溢れ出て止まなかった。


元和九年七月(1623年)、家光は三代将軍となった。言わずと知れた、家光の幼名は竹千代。
元和二年(1616年)に家康は死んでいる。家康の意思は、秀忠の夫人がどんなに国松を寵愛しても相続は出来なかった。
江与も、寛永三年(1626年)に病で死亡した。

お福の勢威は、大奥で重くなっていった。国松は、元服して忠長と称し、大納言として、甲・駿・遠三国の領主となった。
兄弟仲も悪く、母からの寵愛で我が儘に育った忠長は、母の江与が亡くなり孤立無援になり、兄の家光から自刃させられる悲運で生涯を終えた。

大奥は、お福の天下となった。
大奥だけでは無い、次第に政治にも口出しするようになった。
当時の大老や老中は、阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、阿部重次、久世広之などで、竹千代時代の近習として使えた者達ばかりだった。
いわば、お福が叱り撫でて育てた者達だった。

お福の凄まじい活躍が始まる。
江戸幕府と、後水尾天皇側の朝廷とは不和があった。
お福は上洛して、後水尾天皇に会おうとするが、朝廷側は、無位無官の者に拝謁させることは出来ないと断られる。
ならば、「それなら、直ぐに此処で位階をつけて欲しい」と、一歩も引かなかった。
後水尾天皇に拝謁が適うと、「春日」の名を賜った。春日とは、足利義満の乳母の例に依ったのだった。
「春日局」の誕生である。

その頃は戦国の余習が残っていて、美童を愛する風があった。男色の風習である。
家光もその傾向があり、堀田正盛など、家光の寵童だった。

春日局も家光の性癖に困り果てていた。
春日局は、女を見向きもしない家光に尼僧の籍を離れ髪を伸ばし、名も於万の方(オマンオカタ)と改め、側室として送り込んだ。
於万の方は、父を六条幸相有純と言って、育ちの良い十六歳、若くて美しかった。
春日局の眼に狂いは無かった。
家光は、寵童への興味は失って、於万の方へ溺れていった。
春日局には別の心配が起きた。於万の方に子供が出来ることだった。子供が出来ることはめでたいことだが、女は子供が出来ると
>「女子は子を産むと著しく容色が衰えるものじゃ。そなたはまだ若い。上様の御機嫌を末永く取り結ぶように」
と、言い含め、奥医師に調合させた薬を飲ませた。
春日局は、於万の方に子供が出来ることを良しとしない理由がもう一つあった。
於万の方に子が出来ることにより、朝廷と縁戚関係になる事を恐れていたのだった。
策略をもう一段階進めるのだった。
朝廷とは関係の無い娘を物色して、家光にさし出そうとした。選ばれた娘は於万の方似で、さらに若く十三歳だった。
少女は、お蘭という。野洲島田村の増山某の娘。早速大奥に上げさせ、名おお楽と改めさせた。
家光は、たちまち、お楽を認め溺れていった。
ほくそ笑む春日局だった。
お楽は、寛永十七年(1640年)懐妊して、翌年春に出産した。これが男子で、のちの家継である。

家光には、正夫人として摂生鷹司政信の娘がいたが夫婦仲も悪く子もいなかった。
男の子が出来、喜ぶ家光だったが、喜ぶ余りの家光の行動も原因になってか、お楽の産後の肥立ちが悪く健康が回復しなかった。
容色も衰え見る影も無くなっていくお楽に対して、家光の気持ちも萎えていった。
家光の寵愛は再び於万の方へ還っていった。

僅か9000文字程度の超短編なのだが多彩な登場人物とその関係など歴史的事実もまじえての作品で、飽きずに読ませるが、
「講談師見てきたように嘘をつき」ではないが、何処まで本当なのだろうかなど、余計なことを考えてしまう。


大奥は、将軍の私室であり、将軍の夫人(御台所)が中心である。しかし、夫人以上に勢力がある人物があれば、彼女が大奥の実権を握っていた。
春日局はその権力者だった。

>「これより内には男入るべからず」
この告示で大奥は男子禁制となった。この男子禁制を厳密に設けたのは春日局だった。
大奥には、将軍つきの女中が、上臈・年寄・中年寄・中﨟など、二百人以上いた。
さらに、正夫人(御台所)にもほぼ同数の女中が仕えた。だから、総勢五,六百人の女群と言えた。
でも、それだけの規模になったのはずっと後のことだった。
春日局の時代はむしろ、質素だった。
家光が、井上筑後守に
>「いま、米一升の値段はどれほどか」
>「では豆腐はいかほどか」
と、問うても答えられなかった。
家光は、手文庫の中から、種々の品物のの市価を書き付けた紙を見せ、
>「余でもこうしているのに、その方などの小身がそんな心得では用に立つまい」
と、叱責した。みな春日局の指図であった。土井利勝などは彼女に頭が上がらなかった。

春日局の権勢に反撥する者も出てくるのは必定で、大久保彦左衛門など、島原の乱で討伐軍の人選に、
「春日局を討手の大将とするがよい」と、皮肉った。


春日局は、寛永二十年(1643年)死床に伏した。
>「私の命は、往年上様の御疱瘡の時、神仏に差上げておりますから」と、云って医薬を受け付けなかった。
苦痛を組み伏せるように眼光鋭く眼を光らせていた。


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●徳川家光(幼名=竹千代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:元和9年(1623年) - 慶安4年(1651年))である。
乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、
さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。

●春日局(お福)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 - 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、
安土桃山時代から江戸時代前期の
江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である稲葉安、
又は稲葉一鉄の姉の娘・於阿牟、養父は稲葉重通。稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。養子に堀田正俊。
江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。

●江与の方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
崇源院(すうげんいん / そうげんいん、天正元年〈1573年〉 - 寛永3年9月15日〈1626年11月3日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。
近江の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。
崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督(おごう)の名で知られるが、諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。

長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と婚約したが、秀吉により離縁させられて、
その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ)をもうけたが、秀勝が急逝。
江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。猶女に鷹司孝子がいる。


●堀田正盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀田 正盛(ほった まさもり)は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、御側 / 大政参与。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、下総佐倉藩初代藩主。
堀田家宗家初代。堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。
母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。
稲葉正勝は母方の叔父にあたる。

●御水尾天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後水尾天皇(ごみずのおてんのう、ごみのおてんのう、1596年6月29日〈文禄5年6月4日〉 - 1680年9月11日〈延宝8年8月19日〉)は、
日本の第108代天皇(在位: 1611年5月9日〈慶長16年3月27日〉 - 1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉)。諱は政仁(ことひと)。幼名は三宮。

後陽成天皇の第三皇子。母は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の近衛前子(中和門院)。

●大久保彦左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大久保 忠教(おおくぼ ただたかは、戦国時代から江戸時代前期の武将。江戸幕府旗本。
通称は彦左衛門尉。じめ、忠雄と名乗った[2]。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。
妻は馬場信成の養女。『三河物語』の著者としても知られる。

死の間際に家光と幕閣より5000石の加増を打診されたが、幕府創立の功臣である大久保家への数々の冷遇を忘れることはなく不要」
と固辞したと伝えられている。


●徳川忠長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。
極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。
徳川家康の孫にあたる。甲斐甲府藩主。駿河駿府藩主。


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※言葉の事典
●寵童(チョウドウ)
権力者から寵愛を受けて男色の相手をすることになる童。 概要主君から寵愛を受け、男色の相手をすることになった少年のこと。
成長した寵童のその後は、主君の忠実な僕




2025年11月21日 記
作品分類 小説(短編・時代/シリーズ) 9P×1000=9000
検索キーワード 春日局・家光・江戸城・駿府城・乳母・三代将軍・男色・寵童 
登場人物
徳川三代将軍(徳川家光) 幼名竹千代。江戸幕府の第3代将軍(在職:元和9年(1623年) - 慶安4年(1651年))である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。
15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。
春日局 お福。竹千代の乳母。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。
徳川忠長(駿河大納言) 幼名国松。江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。
徳川家康の孫にあたる。甲斐甲府藩主。駿河駿府藩主。兄は三代将軍家光
江与の方 家光の実母。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。
崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督(おごう)の名で知られるが、諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。
いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ)をもうけたが、
秀勝が急逝。江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。猶女に鷹司孝子がいる。
堀田 正盛 家光の男色の相手。堀田家宗家初代。堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。
母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、正盛は春日局の義理の孫にあたる。
稲葉正勝は母方の叔父にあたる。

乳母将軍




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