松本清張_歯止め  黒の様式(第一話)

〔(株)文藝春秋=松本清張全集9(1971/12/20):【黒の様式】第一話〕

No_191

題名 黒の様式 第一話 歯止め
読み クロノヨウシキ ダイ01ワ ハドメ
原題/改題/副題/備考 ●シリーズ名=黒の様式
●全6話
1.歯止め
2.犯罪広告
3.
微笑の儀式
4.
二つの声
5.弱気の虫
(弱気の蟲)
6.霧笛の町
(内海の輪)
●全集(7話)
1.歯止め(1145)
2.犯罪広告(1146)
3.
微笑の儀式(1147)
4.
二つの声(1148)
5.
弱気の蟲(1149)
6.
内海の輪(1150)
7.
死んだ馬《小説宝石》(1151)
本の題名 松本清張全集 9 黒の様式【蔵書No0087】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通)
初版&購入版.年月日 1971/12/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「週刊朝日」
作品発表 年月日 1967年(昭和42年)1月6日号〜2月24日号
コードNo 19670106-19670224
書き出し 能楽堂は八分の入りであった。津留江利子の座っている位置は腋正面のうしろ寄り、ちょうど二ノ松に平行するあたりだった。それで、彼女の視角からいって正面席の観客の顔は斜め向きに自然と眼にはいっていた。江利子は、先ほど、その正面観覧席の中央あたりに旗島信雄の顔があるのに気づいてから落ちつかなくなっていた。以来、なるべく客席の方は見ないようにした。舞台では今日彼女が目当てで来ている人間国宝の老能楽師の「班女」が進行していた。この一番を観たら、次の休憩で旗島には知られないように出て行くつもりだった。後二番残っているが、家のことがきにかかるより、旗島に見つけられるのがいやだった。旗島は前から顔の幅の広い男だったが、今はすっかり肥えて、その顔が余計にふくれていた。髪も前のほうからうすくなってほとんど禿げている。いつぞやテレビで見たときの顔よりもまだ老けていた。両脇に外人夫婦をおいて、しきりと首を左右に回しては能のことを説明していた。五十歳ちょうどのはずだった。死んだ姉の年齢をおぼえているから間違いようはなかった。
あらすじ感想  津留江利子は、能楽堂で観劇中、知り合いの顔を見つける。
何故か落ち着かなかった。
知り合いの人物は、男で、旗島信雄といって、姉の元夫だった。
顔の幅の広い男で、今はすっかり禿げ上がって、肥えていた。姉は死亡していて、旗島は再婚していた。二十歳位の息子が居る。
旗島は外国人夫婦と一緒だった。

江利子の姉は素芽子といって、旗島信雄とは見合い結婚だったが、芽衣子は自殺で亡くなっていた。
旗島信雄は、旗島実造と織江夫婦の養子だった。それは、信雄が十二歳の時だった。
旗島信雄と素芽子が結婚した当時のことがかなり詳しく書かれている。
当時、養父の実造は、朝鮮総監府の局長で京城に単身赴任。江利子はその養父が素芽子の結婚式に参列したので、見ていた。
養父はおそらく、四十五,六歳だった。江利子は十六歳頃。
養母は織江と言って、素芽子の結婚が決まったとき自宅に挨拶に来たのを江利子は見ていた。
信雄を見かけただけで様々な思いが蘇ってくる。
落ち着かない態度の信雄、軽薄ではないかとの印象を受けた江利子だった。信雄は素芽子が自殺した翌年ドイツに留学していた。

江利子は、旗島に見つからないようにしていたが、旗島は江利子を確認していて再会することになってしまった。
挨拶を交わしながらも、早々に別れようとする江利子だが、信雄は引き留める。外国人の夫婦との話を終え先に帰して、江利子に向き合った。
かなりの年月が経っての再会だった。
>「もう、おばあさんになってしまいましたわ」という江利子に
>「そんなことはない、きれいだよ」と信雄は言った。姉に似ているというのが何時もの信雄だった。

コーヒーを誘われたが江利子は断った。(江利子と信雄はどの程度の頻度で会っていたのか判然としない)

帰宅した江利子は息子の恭太の部屋を覗いた。
話は、江利子の家庭の問題に移っていく。それは取りも直さず、息子の恭太の話である。
思春期である恭太の問題行動であるが、性的な目覚めから来る行為は、母親としての江利子の理解出来ぬ出来事として悩ませる。
江利子の夫は良夫と言って、事の顛末を良夫に話す。
良夫は、
>「おれにも多少の覚えがないでもない。しかし、いまは俗悪な週刊誌がいっぱい出ているからな。困ったものだ。」
夫は心配するな、大人になろうとする変わり目の生理的なものだと言った。
夫は、具体的に何をするでも無く、世間にはよくある夫婦関係が続いていた。

江利子の心配をよそに、恭太は遊び歩いている。金を与えなければ良いのだが、与えなければ暴れる。
通いの家政婦におばさんを頼んでいるが、おばさんの手前にもおとなしくさせるには、幾らかのお金を渡すことになる。

夫に話しても埒が明かない。手の付けられない恭太に夫も諦めているようだ。
誰かに相談してみよう。旗島はどうだろうか?その事を夫に相談したが、旗島は江利子の姉の元亭主であり、気重な表情だった。
江利子はすぐに後悔した。江利子も気が進まなかったのだ。
江利子は、旗島に前妻の妹としての近親的な眼差しの中に「ときおり異なった表情」を感じるのであった。

江利子は新婚当時の素芽子の家庭を訪ねたことがあった。姉夫婦は、始は信雄と素芽子、養母の織江と暮らしていたが、
しばらくして養父の実造が朝鮮から帰ってきた。信雄は二階の書斎で夜遅くまで勉強。信雄は几帳面なほど養母には礼儀正しかった。
素芽子から聞かされる新婚生活は、どこか寂しげな雰囲気をまとっていた。
江利子の回想は、良夫に問われるまま続いていた。
はじめは恭太の心配を夫婦で相談していたのだが、話は、姉の素芽子の自殺に及んできた。
素芽子は服毒自殺だった。

「あなた、もうやめて」と江利子が断るが、しばらく話は続いて、素芽子の自殺の全貌が語られる。
そんな中、恭太が帰ってくる。江利子の恭太をいさめる怒声が上がるが、ドアに向かって声を上げるだけで虚しいものだった。
良夫の「もう、いいかげんいしろよ」の声で収めるしか無かった。
翌朝、朝飯も食わず、顔も洗わず、母親と言葉を交わすこと無く慌てて出て行った。鍵をかけ忘れていた。
江利子は、恭太の部屋に入って絶望する。
江利子は、恭太の学校の担任を訪ねる。刈屋と言って物理の先生だった。
刈屋先生の話は、恭太の日常を正確に捉えているようで、江利子も思い当たることだった。ではどうすればいいのでしょう。
江利子の問いに刈屋先生は話し始めた。
楢林という応用化学の先生がいました。T大の講師でした。楢林は、若くして死んだという。
楢林の同級生に「旗島」という生徒がいた。
    楢林は実体験を刈屋等に話した。その話を刈屋は江利子に話し始めた。
         楢林も悪い習慣をおぼえ、成績が落ち始めた。同じ頃、旗島も成績がガタガタになった。
         旗島も楢林同様の悩みを抱えていた。楢林は、旗島がその悩みを克服して、T大へ入学した。
         楢林はやっとT大に合格したのだが、旗島は克己心が強かったと誉めていた。
そして、結論めいて言った。
         義母にあたる方がえらかったかもしれません。やはり、お母さんの力は大きいですよ。

この話の旗島こそ、旗島信雄である。江利子は確信した。

江利子は、良夫と長野県の田舎に行った。良夫の末の弟の結婚式に出席するためだった。
江利子は良夫と良夫の甥と披露宴の会場に向かう車から、白い壁の続く塀の上に出ている顔を見つける。
>「川棚の重三も、花嫁をのぞいて、思わぬ眼の正月をしたわ」
>「あれ、重三かい? へえ、だいぶ年齢とったじゃないか」
>「重三が悪戯をして困るというのは十年ぐらい前だったが、まだその癖はやまないのかい」
>「悪戯はしねえ、しねい訳があるだから...」
良夫と甥の会話は、甥が言いかけて江利子に遠慮したように口をつぐんだ。

甥が話を途中で止めたことは分かったが、何故止めたかまでは分からなかった。
江利子は良夫に問いただしたが、特別な事情があるらしく、帰りの汽車の中ででも話すとその夜は話を打ち切った。

江利子にとって、良夫の話は衝撃的だった。
重三は「病的性欲なんだ」と良夫は話した。
「病気が軽くなったんですか」と問う江利子に、甥が車の中で話せなかった内容を話し始めた。
「それはね、母親が身をもって重三の症状を抑えているとう噂だそうだ」「身をもって.....?」
真実は分からないと注釈は付いているが、重三の悪戯は十七,八の頃からぷっつりと止んだらしい。

恭太は、江利子夫婦が留守中には、かってし放題だった。

話は、再び素芽子が自殺する前の時期の思い出に移る。
今から思えばと言うことになるのだろうが、江利子には、素芽子と信雄そして、義母である織江の関係がギクシャクしていたのではと
思い当たる節があった。

結婚式から帰った後も、あの「重三」の話が江利子から離れなかった。
恭太が帰らない中、夫婦の会話は、素芽子の嫁ぎ先の旗島家の話になった。始は意識していなかったのだろうが、「川棚の重三」の家の話と
重なるのだった。
二人の話は、素芽子の自殺に続いていくのは必然だった。
姉の素芽子の夫婦関係は、姑の織江の監視にあっていたのではと考えるが、もう少し違う秘密があったのでは...
明治の文学者の回想に
>寝室の外に忍びやかな足音がが聞こえると、ほらほら、、来たよ。と傍らに竦んでいる新妻に笑って言う文章があった。
それに続いて、この小説に決定的な記述がある。少し長いが引用する。
>夜中の階段の音がそれではなかったか。養子が十八ぐらいのときに、彼の悪習を癒し、
>T大入学の脱落の危機から救った養母の行為は、そのまま癒着してしまった。彼の意志にかかわりなく、女が添い寝にきたから。
>京城勤務の養父は内地に出張したときそれを知った。その妻は告白したかもしれない。
>夫は憤りを抑えて宥した。高級官吏の夫は外部に漏れる恥を防ぐため、おのれの恥に耐えなければならなかった。

結果として、養子の信雄を結婚させることが選択された防御策だったのだ。
「重三」と「信雄」が同じ、病的な性欲の持ち主であったかは別にして、重三の悪戯が収まったのと、信雄がT大に合格できたことの共通点は
紛れのない事実として受け止めざるを得なかった。
江利子の回想と良夫の思いは一致していた。

小説としては、これから佳境になっていくのだが、実のところ、あまり興味は湧かなかった。
ただ、全くの偶然なのだが、素芽子は服毒自殺をしている。それが『青酸カリ』を飲んでの自殺である。
紹介作品でも『小説 帝銀事件』・『帝銀事件の謎』などで、毒薬について大変興味を持っていたところでの『青酸カリ』で思わず
前屈みになってしまった。毒薬に関連して【登戸研究所】の見学会に参加した。

青酸カリを飲んでの自殺としたが...ネタバレになるのでこれ以上書かないが、新たな登場人物が数名出てくる。
登場人物は複雑に絡み合い、推理小説としての謎解きに入っていく。
それは、江利子が、恭太の担任の先生に相談した話を良夫にしたことで一気に展開していく。
刈屋先生の恩師=楢林(応用化学の講師)
楢林=良夫の会社の資材課長は、楢林の弟。江利子も面識があった。
信雄は青酸カリを入手する=楢林(応用化学の講師/信雄の友人、実験用の青酸カリを譲る、殺虫剤に混ぜる)
素芽子は、青酸カリを混ぜると言って、青酸カリを買っ屋=川田静子(素芽子の友人、薬問屋を営んでいる)


江利子の結論的回想
母一人のところへ嫁入りするのは苦労すると言うが、それは、母が息子を取られた思いが根底にあってのことで、姉の素芽子の場合
露骨に女が女に向ける憎悪があったのではと思った。
そして、織江が信雄にほどこしていた厳格な躾は、他人の眼に隠れ蓑となっていた。この場合のきびしい躾と溺愛とは隣り合っていた。
「歯止め」が効かなかったのだろう。

肝心の謎解きの部分が私にはスッキリしない。
そして、江利子と良夫夫婦と恭太の関係は何も解決していない。
まさに蛇足だが、津留良夫は一流会社?の課長のようだが、家政婦を傭い、妻は能楽を愉しむなど裕福な生活ぶりである。
この設定が引っ掛かる。



2023年07月21日記 
作品分類 小説(短編/シリーズ) 47P×1000=47000
検索キーワード 能楽・養子・京城・朝鮮総監府・T大・義兄・自殺・悪戯・悪習・病的性欲・青酸カリ・殺虫剤・薬問屋・応用化学・資材課長・担任・赤い紙 
登場人物
津留江利子 良夫の夫。恭太の母。結婚した素芽子は姉。息子の行動に手を焼く。夫の協力も余り得られず、悩んだ揚げ句、恭太の担任の教師(刈屋)に相談する。
刈屋の話から、姉の自殺が思わぬ方向へ進んでいく。夫の弟の結婚式へ参列する旅で「重三」を知る。それは、信雄につながり、恭太へとつながる事へ恐怖を抱く。
夫婦の会話から、姉の素芽子の自殺に疑問を持つ。
津留良夫 一応一流会社の課長らしい。夫婦仲も特別悪くはないが、息子の生活が荒れていることに悩む。体力的にも息子に太刀打ちできない。
江利子の姉の自殺に疑問を持つ。青酸カリの入手経路など推理を廻らし、一定の結論を出し、江利子に話す。
津留恭太 江利子・良夫夫婦の息子。恭太の行動には夫婦とも手を焼く。性的な悪習も時期が来れば直るとも思われないほど荒れた生活をしている。
江利子や良夫は、重三や信雄に重なって見える。
おばさん(家政婦) 津留家の通いの家政婦。江利子夫婦が息子の恭太に手を焼く様を知っている。江利子は口の軽そうな家政婦から津留家の秘密が漏れることを警戒する。
旗島素芽子(津留素芽子)  津留江利子の姉。旗島信雄の妻となる。結果として、旗島家の犠牲になる。素芽子は、青酸カリで服毒自殺をしたことになっているが、ちがうようだ。
夫の信雄と義母の織江の特殊な関係に気がつき苦悩する。
旗島信雄 旗島実造・織江の養子。津留素芽子と結婚する。江利子は義理の妹になる。養母の織江と特殊な関係で結ばれている。
結婚後もその関係は「歯止め」が掛からなかった。妻の素芽子は、青酸カリで服毒自殺をしたことになっているが、殺された可能性が示唆されている。
旗島織江 旗島信雄の養母。十七,八歳の信雄の悪戯を身をもって収めたのか?織江が信雄にほどこしていた厳格な躾は、他人の眼に隠れ蓑となっていた。
きびしい躾と溺愛とは隣り合っていた。二人の関係が素芽子を自殺に追いやった訳ではなさそうだ。
旗島実造 旗島信雄の養父。信雄と素芽子が結婚した当時は、朝鮮の京城に居た。朝鮮総監府の局長。妻織江と信雄の秘密を知っていた。
刈屋先生  津留恭太の担任教師。康太の母親から、相談を受ける。恩師の楢林の話を聞かせる。刈屋が話した楢林は、旗島信雄の同級生だった。
そして、その楢林は、津留良夫と同じ会社の資材課長の兄だった。江利子も面識があった。
楢林 津留良夫と同じ会社の資材課長。楢林には兄が居て、旗島信雄の同級生。兄は、応用化学の講師で旗島信雄に青酸カリをわけてやる。
川田静子 薬問屋を営んでいる。津留素芽子の友人。素芽子に青酸カリを売る。
重三 川棚の重三。病的性欲の持ち主。良夫の実家近くに住む。母親が重三の悪癖を身をもって収めたの噂がある。

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