松本清張_弱気の蟲  黒の様式(第五話)

〔(株)文藝春秋=松本清張全集9(1971/12/20):【黒の様式】第五話〕

No_195

題名 黒の様式 第五話 弱気の虫
読み クロノヨウシキ ダイ05ワ ヨワキノムシ
原題/改題/副題/備考 ●シリーズ名=黒の様式
(改題=弱気の蟲)
●全6話
1.
歯止め
2.
犯罪広告
3.
微笑の儀式
4.
二つの声
5.弱気の虫(弱気の蟲)
6.霧笛の町(内海の輪)
●全集(7話)
1.
歯止め
2.
犯罪広告
3.
微笑の儀式
4.
二つの声
5.弱気の虫
6.
内海の輪
7.
死んだ馬《小説宝石》
本の題名 松本清張全集 9 黒の様式【蔵書No0087】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通)
初版&購入版.年月日 1971/12/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「週刊朝日」
作品発表 年月日 1967年(昭和42年)11月3日号~1968年(昭和43年)2月9日号
コードNo 19671103-19680209
書き出し 川島留吉は或る省の役人をしている。或る課の課長補佐だった。留吉は私大を出るとすぐこの省に入った。友だちは、いかにも彼に似つかわしい職業を得たと思った。勤勉で、律儀で、地道で、いささかのハッタリもない男なのである。学校時代はガリ勉で、いい成績だった。国家公務員の試験成績もよかった。爾来、三十九歳の今日まで二十年近く律儀に役人生活を勤めている。彼の入省は敗戦後まもなくで、世の中が混乱している時だった。大学卒で役人になろうという者はあまりなく、時代の風雲に乗じてヤミ商売をはじめたり、それを発展させて会社をつくったりした者が少なくなかった。就職希望でも、ベース・アップの最も遅い官庁などを志す者はあまりなかったものだ。もっとも、今からふり返ると、風雲組で成功している者はわずかしかいない。彼らの野心のほとんどは失敗し、なかには行方知れない者もいる。
あらすじ感想  川島留吉は、ある省庁の課長補佐。
彼が典型的な官僚で、小役人である事が最初の数行で書き尽くされている。

私は、世間には、東大卒とそれ以外の人間しか存在していないと聞いたことがある。言い得て妙だが、真実でもある。
彼の性格や生活ぶりは、彼自身も自覚している。妻は純子、九つになる男の子と五つになる女の子がいる。
酒も飲まなかった。特別な友人もいない。
山陰の山間部で生まれ、有名な東京の私立大学を卒業して、省庁の課長補佐。郷里では出世頭でもあった。
問題さえ起こさなければ、それなりの役人生活を全うすることが出来たはずである。

川島留吉は、ふとした切っ掛けから麻雀をはじめた。
彼は学生時代に麻雀を覚えたので、ルールは知っていたが、点数を素早く数えることは出来なかった。
他に楽しみを持っていなかった川島は、麻雀に誘われることが愉しくなった。
始めたのは、麻雀のメンバーがどうしても足りなくなり、初心者だと言って断り続けたが、無理に頼み込まれて加わったのである。
接待麻雀ではなく仲間内の手慰みなら、経験者は自覚が有ると思うが愉しいものである。
特に、誰からも相手にされない、酒も飲まない川島は、仲間はずれにされているような存在だったから、のめり込んでいくようになった。
麻雀仲間は、上司もいた、先輩や部下も、他部署の者も居た。出世に影響する訳ではないが、彼の愉しみとして生活に深く入り込んでいった。
妻は、逆に出世の機会にでもなるのではと考えるのか、深夜に帰宅しても文句一つ言わなかった。
川島には無縁だが、役所の他の者は、出張などでメンバーが揃わないとき、外郭団体の人間も狩り出されメンバーはいろいろ替わった。
メンバーは、出世して忙しくなり、代わりの者を頼むようになる。川島は、自らもそんな立場になりたいと思うのである。
そのような中でも、麻雀だけは、とにかく平等で役所の地位など身分的な意識を消すことは出来ないまでも
同等の競技者として振る舞うことが出来た。
話は飛んでしまうが、清張は軍隊生活をある種の平等な空間であると感じたことがあった。
出自など意識することのない、特殊な社会がある種の居心地の良さを生み出していたのを体験していた。

麻雀は手慰みで、掛け金も小さく大きな負担ではなかったが、彼の実力はでは、被害が大きくなっていく。
麻雀はかなり運に左右されるが、回数を重ねると実力が出てくる。トータルするとかなり負けが込んでくる。
平等と感じていた麻雀も負けると軽蔑と嘲笑の対象になり、莫迦にされる。
ここでも彼の「弱気の蟲」が、自らを納得させる。薄ら笑いでその場を誤魔化す。
金銭的な負担をしてまで、嘲笑に耐えなければながない己を恨むことになる。
彼の性格は、興奮すると、いつもは冷静に抑える気持ちが働いて、爆発することを防いでくれた。
それを、自分には、心の中に昆虫のような「弱気の虫」が居るのではないかとさえ思った。
ただ、麻雀をしはじめてから、自分は案外物事にのぼせる立ちである事を自覚する。
麻雀は、彼に現実を逃避させてくれる麻薬のような役目をした。
彼に向けられる蔑視のような中傷にも、負けることによる金銭的な負担も誘われれば断ることの出来ない己の態度は、
沈殿物として積もっていくのである。
川島は道化師になることで過ごすことを覚えた。喜劇役者になることで麻雀仲間から親近感を持たれ事の効果を上げた。

しかし、それは一面的なことで、彼に対する評価は、道化師的な態度こそ彼の人格的な正体と捉えられることになった。
川島は暗澹たる気持ちになり、金輪際麻雀から手を引こうと考えることもあったがそれが出来なかった。
>もう止めよう。金輪際手を引こうと思いながらも、その決心を例の弱気の虫がもそもそと動いて崩すのである。
>そうして、麻雀をすればしたで、金銭的な損失と仲間からの何ともいえない不愉快な言葉に耐え忍ばなければならなか;つた。
>そのつど、弱気の虫が匍いまわるのである。

彼の気持ちを、これでもかこれでもかと表現している。
題名から予想した、小官僚の汚職事件での展開ではなさそうだ。

そんな時、麻雀仲間の浜岡広治がが川島の前に現れた。浜岡は外郭団体の職員で、何度か麻雀をしたことがあった。
浜岡は、川島に麻雀の成績など話しかけながら、アルバイトで麻雀屋を始めようとしていることを話した。
始は女房名義の麻雀屋で、女房の内職程度を考えているようだ。
浜岡の最初からの目的だったかもしれないが、浜岡は、川島を麻雀に誘った。近所の人ばかりで気兼ねがなくていいですよと、誘った。
話の展開が、浜岡が、川島を誘う目的だったたことがハッキリしてくる。
>「みんな、上手な人ばかりだろう?」
>「上手といってもたいしたことはありません。それにヘボも居ますから面白いですよ」
>「ぼくのようにね」
>「いえ、川島さんはお上手ですよ。決して下手ではありませんよ」
>「おだてないでほしな」
>「お世辞で言っているわけじゃありません。本当ですよ。川島さんの麻雀は素直だからぼくは好きですよ。
>麻雀はやはり素直に打ったほうが結局勝ちですな」
>「しかし、ぼくは負けてばかりいる。みんなのいいカモになっているよ」
さらに、川島さんはみんなの神経戦術ひっかかりすぎるんですよ。と続けながら、煽てる。
私は、麻雀の経験があるのでこの話の進み具合が良く理解出来る。
麻雀は初心者でも大勝ちすることがある。麻雀は打ちながら舌戦が展開される。舌戦を愉しむゲームでもある。
それは、掛金が少なく手慰み程度だから言えるのでもある。それでも、負けるとそれなりの負担にはなる。
巧い下手もあるが、性格がよく出るゲームである。
浜岡の話はさらに進む。
舌戦が程度問題であり、座を盛り上げる役目もすれば、対戦相手に打撃を与える場合もある。
特に弱い者に対して冷笑・皮肉を込めた発言は暴力的でもある。反撃をしない相手には容赦がない。
川島がそれに当たることを浜岡は、暗に話すのだった。
決定的な話は、川島が点数を自分で素早く計算できない、だから他人任せにする。それを良いことに、誤魔化しているというのだ。
>「.....ぼくの家の麻雀は、そんなインチキは決してしません」

うすうす気がついていた川島は、浜岡が、同情して麻雀仲間の加藤や横井を批判することに同意もするし、彼らとは遣りたくないと思った。
川島と浜岡の立ち話が終わるのを待つように、加藤に話しかけられた。
加藤は本省の役人で趣味も教養もない男で、麻雀だけが唯一の楽しみの男と川島は見立てている。麻雀の誘いであった。
ついでのように、加藤は、浜岡が麻雀屋を始めるらしい事を知っていたし、浜岡の始める麻雀屋には行かない方が良いと釘を刺した。

川島は、役所の帰りに浜岡に連れられて浜岡の家に行った。

川島は、自己分析の「自分は案外物事にのぼせる立ちである事」を確認することになる。
そして、内在する「弱気の虫」は、相変わらず蠢いているのである。
味気ない公務員住宅住まいの川島は、浜岡家の新築で麻雀屋を始めようとする浜岡を羨ましく思うと同時に、
紹介された妻に「ちょっと魅力のある女」と思った。

以下が、浜岡の麻雀屋に集まったメンバーだった。
近藤五郎:室内装飾屋。痩せた小男。顔色は蒼く貧相である。四十近い年配
田所勇造:土建屋。近藤とは正反対、赭ら顔のでっぷりした男。四十ぐらいで声の大きい男。
鶴巻良一:小さな会社の役員。背のすらりとした、、面長の顔の男。眼鏡を掛けて、知的な感じで、三五,六歳。

このメンバーが何だか胡散臭い。加藤の忠告が気になる。(私の感想)
最初は、川島は見学と言うことで、浜岡が加わって麻雀が始められた。
川島の女房は麻雀屋の店員のごとく働き、サービスをした。
素人臭いサービスが好ましく、味も素っ気もない川島の女房と比べると愛嬌があり川島は羨ましかった。
見学の麻雀が終わったあと、川島は散々誘われた。気になったのはレートの高さだ。役所でやる時の3倍である。
麻雀に参加するかどうか躊躇する川島は、小心者の反面、何かしらの理由を見つけて、大胆になる事がある。
逃げ道を用意して、用意周到なら良いのだが、自分に言い聞かせる言い訳程度の理由だった。
川島は、彼の故郷、山陰に父親の残した山林があった。これを処分して、役所での麻雀で負けた分を返済しようと考えていた。
勿論女房には内緒で話を進めていた。処分できれば、返済しても尚相当な金が残る計算だった。

浜岡の家での麻雀に参加するようになる。
最初の晩には、川島は大勝ちをする。小説の中では特に表現されていないが、仕組まれた勝ちと言えた。
気分良く家路に着く川島だが、わざわざ浜岡の家に集まるメンバーは浜岡の妻の加代子に特別の感情を持っているのではないかと想像した。
鶴巻と近藤は別にしても、田所は怪しいと睨んだ。田所はそれらしい行動もした。
加代子も田所など相手にはしないだろうが、始めたばかりの麻雀屋なので、愛嬌を振りまきながら調子を合わせていると言ったところだろう。
こんなことを考える川島も、加代子に気があるのではないかと思った。川島の自己分析だった。

川島留吉は、たびたび浜岡の家に通うようになった。
四,五回勝ちが続いた。レートが高いだけに勝ちも大きくなった。麻雀をする場の雰囲気も川島にとって好ましいものであった。
川島は、加藤や横井から麻雀の誘いがあっても断った。彼らも、カモの川島がいないので未練そうだった。
川島の勝ちは長く続くはずはなかった。彼の弱気の虫は麻雀をする場合には影を潜めて、一か八かで勝負することがあった。
それは、弱気の虫のなせるわざとも言えた。
考えれば、川島以外は半分プロの麻雀師とも言えた。勝てるはずがない。

役所で横井に声をかけられる。浜岡の家に行っていることを指摘される。
横井はハッキリ言った。君のような下手な人間が他流試合をすると大怪我をする。早いとこやめたほうがいいな。
懲りもせず通い続けて三ヶ月近くになった。川島の一人負け状態だった。

山林の売却の目途は立たない。
金繰りは、行き詰まった。

川島の転落は、坂道を転がるように加速していく。

深刻になる金策は、市中金融に頼る。
役所の高利貸しをする警備員に頼み込む。
一方では、負けた金額を、恥を忍んで猶予して貰う。
その猶予も破綻して、取り立てにあう。
終いには、部下に借りる始末だ。

自転車操業になる金策は詳しく記述されている。破綻は目前に迫っている。
麻雀の負けを猶予して貰っていたが、鶴巻の取り立てに幾らかの金を融通してやり、なんとか逃れる。
それを近藤が嗅ぎつけたのか、取り立てに現れた。市中金融などで手にした金でやりくりした。
最後に田所も、作業服で役所に取り立てに現れた。
どうやら、田所の指示で鶴巻や近藤は取り立てに来ていたらしい。川島にしては田所相手が最大の悩みだった。
一向に進まない山林の売却の話を進めるために田舎に行く決心をし、電報を打った。
最後の手段であり、望であった。
電報を打つだけの行為で川島は安堵した。物事が進んでいく方向が見えたと勘違いしているのだ。
川島が、浜岡の家に出は入りを続けるのは、浜岡の妻の加代子が目的になっていた。

川島は安堵感からか、浜岡の家に向かった。加代子に会うことが目的だった。
近くに来たからちょっと寄ってみたと、口実を考え、浜岡の留守を狙っての訪問である。

浜岡の家で、加代子に声をかけるが返事がない。勝手口に回ってみるが留守の様子だった。
格子戸を揺すると錠が外れた、中に踏み込むと、暗い中に突っ立っている男と鉢合わせになる。田所だった。
田所の顔は蒼ざめたのを通り越して白くなっていた。そして、川島へこの家に来ていたことは誰にも云わないでくれと頼み込んだ。
いつもの田所ではなく、哀願的な調子で言った。
二人の間で約束が成立した。

加代子は殺されていた。
田所は、川島の麻雀での負けを帳消しにしてやると言った。鶴巻や近藤の分も帳消しにすると言った。
川島は、精神的には、田所と共犯者になったのだ。
田所が捕まらなければ、川島も安泰なのだ。

ドンデン返しがある。
本質は、ドンデン返しで解決ではない。
川島が、田所を頼りに、土建屋の事務員にでも使ってもっらうため、田所の家を訪ねる場面で終わっている。


2023年11月21日記 
作品分類 小説(中編/シリーズ) 92P×1000=92000
検索キーワード 山陰・山林・有名私大・エリートコース・省庁・土建屋・麻雀・取り立て・借金・市中金融・転落・外郭団体・レート 
登場人物
川島留吉 山陰地方の学校を卒業し、東京の私大を卒業して官庁の役人になる。エリートコースからは逸れているが、地方では出世頭である。
暇な部署であるが、課長補佐として無難に勤めている。妻の純子と二人の子供がいて、官舎で暮らしている。
酒も飲まずに真面目な男だったが、チッョトした切っ掛けで、麻雀を始める。下手の横好きで、深みにはまる。手慰み程度の役所の麻雀と決別するつもりが、浜岡に誘われてレートの高い麻雀にのめり込んでいく。故郷の山林を売却することをただ一つの頼りに借金地獄に転落する。心の中に巣食う「弱気の虫」が災いする。
田所勇造 浜岡の麻雀屋に出入りする土建屋の男。近藤とは正反対、赭ら顔のでっぷりした男。四十ぐらいで声の大きい男。
浜岡の麻雀屋の中心人物で、近藤や鶴巻らと組んで、川島をカモにしているようだ。ボス的存在。
浜岡の女房の加代子にちょっかいを出して墓穴を掘る。
鶴巻良一 小さな会社の役員。背のすらりとした、、面長の顔の男。眼鏡を掛けて、知的な感じで、三五,六歳。
女を連れて麻雀屋に現れるなど、見かけとは違ったやさぐれたところがある。川島に最初の麻雀の貸しを取り立てに来る。それも女連れ。
近藤五郎 室内装飾屋。痩せた小男。顔色は蒼く貧相である。四十近い年配。
気弱そうだが、それが押しの強さにもなり、川島は手を焼く。
浜岡広治  役所の外郭団体の職員。新築の一軒家を建て、副業として二階で麻雀屋を始める。妻の加代子名義で店を始める。
もともとは、川島の各所での麻雀仲間。役所の麻雀はレートは低いがインチキがあると川島に教える。
巧みに川島の関心を引きつけ、自宅の麻雀に誘う。自宅の麻雀やでは、川島がメンバーになると、自身は参加しなくなる。
妻の加代子は、夫が小説家を目指している様なことを話す。
浜岡加代子 浜岡広治の妻。麻雀屋を切り盛りする。愛嬌のある女で、田所などちょっかいを賭ける。川島も加代子に興味を持ち浜岡の麻雀屋へ通うことを楽しみにしていた。
見かけは、田所のちょっかいは適当に躱しながら、川島には親切に対応する。加代子の本心の記述は無い。
殺されるが、話の展開ではドンデン返しになりる。
加藤 役所での川島の麻雀仲間。
川島相手では、インチキもするし、見下すような発言もして嫌みな男である。
趣味も教養もない男で、麻雀だけが唯一の楽しみの男と川島は見立てている。
役所の麻雀に遠のいた川島を麻雀に誘うが断られる。浜岡の始める麻雀屋には行かない方が良いと釘を刺した。
横井 川島の、役所での麻雀仲間。加藤と同様。
「君のような下手な人間が他流試合をすると大怪我をする。早いとこやめたほうがいいな。」と、ズバリ川島に忠告した。

弱気の蟲