◎「砂の器」と「球形の荒野」◎ ■三木謙一(砂の器)と伊東忠介(球形の荒野)の共通性/職業等■ ●砂の器:「読売新聞・夕刊」(1960年(昭和35年)5月17日~1961年(昭和36年)4月20日) 三木謙一は、元警察官。子供はなく取り婿取り嫁岡山県江美町で雑貨商を営む。江美町は生まれ故郷。 かねてからの希望で倉敷、琴平、京都。奈良、伊勢を旅行。 伊勢の映画館で和賀英良の写真を発見。 予定を変更して東京に行く。 ●球形の荒野:「オール讀物」(1960年(昭和35年)1月号~1961年(昭和36年)12月号) 伊東忠介は、元・中立国公使館付武官。現在は大和郡山で雑貨商を営む。子供はなく、取り婿取り嫁。 奈良あたりの古寺を拝観するのが趣味だった。 明確に書かれていないが、伊東忠介は、「田中孝一」の芳名帳の筆蹟を発見する。 急に東京行きを決意し、家族に伝える。(素不徒破人) |
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徹底検証【05】 |
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比較表 | |
「砂の器」 | 「球形の荒野」 |
●作品発表時期● 【1960年代】 「砂の器」と「球形の荒野」は、殆ど同時期の作品である。 違いは、どちらも連載だが、新聞(夕刊)と月刊誌の雑誌 さらに、今回特に触れないが、1960年発表に長編だけでも『わるいやつら』・『考える葉』・『山峡の章』・『黒い福音』・『異変街道』がある。 『考える葉』は、【週刊読売】1960年(昭和35年)6月3日号~1961年(昭和36年)2月19日号である。 他の作品を含めて(上記の作品)1960年10月には、新聞(夕刊)・月刊誌・週刊誌に長編作品を同時に連載していたのだ。 それだけではない。1960年1月から、【日本の黒い霧】(文藝春秋)の連載が始まった! 恐るべし! 松本清張! |
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●作品発表&蔵書● 「読売新聞・夕刊」 (1960年(昭和35年)5月17日~1961年(昭和36年)4月20日) ■蔵書 松本清張全集 5 砂の器((株)文藝春秋) |
●作品発表&蔵書● 「オール讀物」 (1960年(昭和35年)1月号~1961年(昭和36年)12月号) ■蔵書 松本清張全集 6 球形の荒野・死の枝((株)文藝春秋) |
●書き出し● 「砂の器」は、情景描写で、名前は出てこない。「球形の荒野」は、いきなり名前が出て具体的だ。 |
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第一章トリスバーの客 国電蒲田駅の近くだった。間口の狭いトリスバーが一軒、窓に灯を映していた。十一時過ぎの蒲田駅界隈は、普通の商店がほとんど戸を入れ、スズラン灯の灯りだけが残っている。これから少し先に行くと、食べもの屋の多い横丁になって、小さなバーが軒をならべているが、そのバーだけはぽつんと、そこから離れていた。場末のバーらしく、内部はお粗末だった。店にはいると、すぐにカウンターが長く伸びていて、申しわけ程度にボックスが二つ片隅に置かれてあった。だが、今は、そこにはだれも客は掛けてなく、カウンターの前に、サラリーマンらしい男が三人と、同じ社の事務員らしい女が一人、横に並んで肘を突いていた。客はこの店のなじみらしく、若いバーテンや店の女の子を前に、いっしょに話をはずませていた。レコードが絶えず鳴っていたが、ジャズや流行歌ばかりで、女の子たちは、ときどき、それに合わせて調子を取ったり、歌に口を合わせたりしていた。 ▲「砂の器」(長編) |
芦村節子は、西の京で電車を下りた。ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。道の横に古道具屋と茶店をかねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持ちが軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。夫の亮一とは、京都まで一緒だった。亮一は学会に出るので、その日一日その用事に取られてしまう。旅行に二人で一緒に出るのも何年ぶりかだ。彼女は、夫が学会に出席している間、奈良を歩くのを、東京を発つときからの予定にしていた。薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、今は立派に全容を顕わしていた。いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。 ▲「球形の荒野」(長編) |
●比較対象の人物● 主人公ではないが重要人物「砂の器」=「三木謙一」。「球形の荒野」=伊東忠介 |
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●三木謙一 三木謙一は、元警察官。 子供はなく取り婿取り嫁岡山県江美町で雑貨商を営む。 江美町は生まれ故郷。 かねてからの希望で倉敷、琴平、京都。奈良、伊勢を旅行。 伊勢の映画館で和賀英良の写真を発見。 放浪していた親子で子供の和賀を 三木が一時期、息子同然に育てていた。 だから、三木は和賀英良の全てを知っていた。 子供の頃別れた和賀の父親に会わせたくて、予定を変更して東京に行く。 ■人物像 警察官時代の三木謙一は、全く非の打ち所のない模範的警察官。 悪く云う人は誰も居ないとの評判。 退官後は郷里で雑貨商を営む。子供が無く、取り嫁取り婿だった。。 思い立って、かねてより希望していた奈良、伊勢方面を旅行することになった。 |
●伊東忠介 伊東忠介は、元・中立国公使館付武官。現在は大和郡山で雑貨商を営む。 子供はなく、取り婿取り嫁。 奈良あたりの古寺を拝観するのが趣味だった。 明確に書かれていないが、伊東忠介は、「田中孝一」の芳名帳の 筆蹟を発見する。(野上顕一郎の筆蹟と思う) 急に東京行きを決意し、家族に伝える。 ■人物像 中立国の公使館の武官。陸軍中佐。 軍人だけに、戦争に勝つことを信じていたようだ。 戦後帰国してからは奈良県大和郡山に住み、平穏に 暮らしているように見えた。 子供が居ないので、養子を迎え、取り婿取り嫁で雑貨商を営んでいた。 息子夫婦には多くを語らないが、狂信的な軍国主義者でもあった。 |
●対象の人物の前職と職業● | |
●警察官/雑貨商 駐在所の巡査。夫婦には子供が無く、和賀英良こと本浦秀夫を子供として 引き取ることも考えるが、秀夫は失踪する。 退任後は郷里に帰り雑貨商を営む。取り婿取り嫁で平穏に暮らす。 |
●公使館の武官/雑貨商 終戦まで中立国の公使館付武官を務める。陸軍中佐 引き上げた後、奈良県大和郡山市に住む。雑貨商を営む。 子供は無く取り婿取り嫁。 |
二人の失踪は殺人事件に直結する。 三木謙一は、商売の雑貨商を息子夫婦にまかせ、奈良、伊勢へ旅行に出かける。伊勢で偶然立ち寄った映画館で和賀英良の写真を見つける。 その写真は、立派に成長して、まさに成功を収めようとしている和賀英良の姿が写されていた。 急遽予定を変更して東京に向かう。 そして、三木謙一は、和賀英良に殺される。和賀は、自己の忌まわしい過去を三木謙一に暴露されるのではないか。 現在の自分の地位を脅かす存在として三木謙一に対峙する。三木はそんな人物では無かった。 ただ、別れ別れになっている和賀の父が生きていることを教えたかった。 そして、和賀に父に会うことを説得したかったのだ。親子の不幸な過去を知るだけに、親切心からの行動だった。 伊東忠介は、中立国での一等書記官であった野上顕一郎が和平工作に加担していることを薄々知っていた。 外国の公使館でも当時の時代背景から、戦争推進派と和平派に分かれていた。伊東忠介は、武官で陸軍中佐。生粋の軍国主義者でもあった。 当然野上顕一郎らの和平工作を苦々しく思っていたし、許せなかった。 戦後の伊東は、奈良県大和郡山で雑貨商を営みながもその思想的背景は揺るぎが無かった。むしろ狂信的でもあった。 戦争を引きずりながら生きている伊東忠介は、奈良の古寺を巡ることが趣味だった。寺の芳名帳に「田中孝一」の筆蹟を見つける。それは、米芾の筆蹟跡だった。 見覚えがあった。野上顕一郎の筆蹟だ。その特徴ある筆蹟は伊東忠介を東京に向かわせるだけの印象があった。 伊東忠介は東京に向かい、当時の状況を知る人物に会い、野上の存在を確認することであった。死んでいるはずの野上は、亡霊のように伊東の前に浮遊する。 伊東忠介の追及は、当時公使館の書記生であった門田源一郎に向かう。彼もある意味不幸な戦後を生きていた。門田源一郎は、野上顕一郎の片腕のように 活躍した男で、野上を看取った人物とされていた。裏切り者への復讐に燃える伊東忠介を放っておけなくなった門田は、伊東を殺すことになる。 過去に翻弄されながら生きる人々。 一件、安穏と暮らしている人々にも触れられたくない過去が或る。「砂の器」は、「ゼロの焦点」に通じる。 たった一人に向かった過去の掘り起こしは、多くの人を巻き込むことになる。 同時期に書かれた長編小説である二つの作品は、多くのところで交差している。簡単に言えば、二人の職業が『雑貨商』である必然瀬は何もない。 子供が無く、取り婿取り嫁の必然性もない。 当時の松本清張(1960年代、とりわけ、1960年~1961年)は,膨大な作品を量も質も保ちながら発表している時期だった・ 『日本の黒い霧』が同時期であることも驚きである。1960年代の清張作品 一つ一つの作品の細かい設定(内容に直接関係ない)は、問題にしていなかったのではないだろうか? 蛇足的感想として、小説としての『砂の器』には少し物足りなさというか、不満がある。しかいし、映画の【砂の器】は、最高点を挙げたい。 小説『球形の荒野』は、最初に読んだときは今ひとつといった感じだったが、再読してみて、再評価した。構想(着想)や登場人物の設定、物語の展開 など、清張らしさが凝縮していると言える。映画【球形の荒野】(松竹)は、長編小説の映画化の難しさ痛感させられるが、無難に収めている。秀作と 言えるのでは無いだろうか。 、 |