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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その十一:銀座)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!


ページの最後


●銀座
言わずと知れた東京の銀座です。地名として、清張作品の銀座を取り上げます。

「とにかく検索」で検索すると9件がヒットします。
キーワードが未入力の作品がかなりありますから、9件はほんの一部だと思います。
重複があり7作品が該当しました。
幻華
影の地帯
いきものの殻
翳った旋舞
考える葉
殺人行おくのほそ道
黒革の手帳

「銀座」は清張のイメージとは少し違うような感じがします。
ただ、「銀座」を舞台にした作品は多いような気がします。「黒革の手帳」「考える葉」など
がすぐ思い出されます。
紹介作品の中では、「いきものの殻」など。
「銀座」は夜の世界.水商売.ホステスなどのイメージで、闇の世界に蠢く輩が
闊歩する小説の舞台には格好の場所です。
しかし、清張の小説に登場する「銀座」は少々視点が違うようです。
が、正面から取り上げた作品は「黒革の手帳」でしょう。
何度もテレビで映像化されおなじみの作品である。
主演女優は華やかである。(原口元子役)
山本陽子(1982年)
大谷直子(1984年)
浅野ゆう子(1996年)
米倉涼子(2004年)
米倉涼子では、「わるいやつら」「けものみち」も映像化された。

「銀座」で検索しヒットした作品で「いきものの殻」は異色な感じがする。
華やかな「銀座」とはかけ離れている。

※書き出しから「銀座」を抽出
幻華
遠くからの声
考える葉
生けるパスカル
黒い画集 第六話 寒流
黒の線刻画 第三話 馬を売る女
地の指
風紋
黒革の手帳(上)
歪んだ複写
屈折回路
聖獣配列(上)
相模国愛甲郡中津村
彩り河(上)(下)

場所として
「赤坂」で:点と線・花氷・天才画の女・熱い絹(上)
「東京駅」で:採霧・黄色い風土・張り込み・隠花平原(下)
「丸の内」で:遭難
「霞ヶ関」で:馬を売る女
などが抽出できる。東京は小説の舞台には事欠かない。


2014年07月14日

 



題名 「銀座」
●「幻華 三月下旬の夜十時すぎであった。銀座八丁目の並木通りを、背の低い小肥りの男と、丈の高い痩せた男とが、タコ焼きの屋台の横で邂逅した。双方でその半顔に射す色つきの光に面貌を認めた。「よう、チュウさんじゃないか」「やあ、ゴーちゃんか」酒の入った声で云い合った。チュウさんと呼ばれた長身痩身のほうは豊かな髪だが闇の中でも目立つくらいに白く、年齢六十二、三、垢ぬけのした服装は、この界隈のこの時刻、ざらに多いどころかの会社の役員か部長といった風采であった。実際その後に肩をゆらさせている三人の部下を従えていた。「近ごろ、景気はどうだい、チュウさん」ゴーちゃんと呼ばれた男がきいた。
●「遠くからの声 民子が津谷敏夫と結婚したのは、昭和二十五年の秋であった。仲人があって、お見合いをし、半年ばかり交際をつづけ、互いに愛情をもち会って一緒になった。愛情は民子の方がよけいに彼に傾斜したといえる。その交際の間、民子の妹の啓子は、時々、姉に利用された。民子の家庭は割合にきびしい方だったから、民子が敏夫と会うのに、そう何度も実行するのは気が引けた。その場合に啓子は利用された。一人で外出はいけないが、二人なら宥される。そのような家庭であった。民子と敏夫の会合は銀座へ出てお茶を飲んだり、食事をしたり、映画を見たり、そんな他愛のないものだったが回数の半分は啓子が必要であった。姉にとって邪魔な存在だったが、家を出るときには重宝だった。啓子は食事でも勝手な注文をつけ、映画も自分の好みを主張した。「利用の報酬としては当然の支払いよ」と云った。散歩するときでも姉たち二人を先にやるという心遣いは無く、いつも敏夫を真ん中にして並んで歩いた。啓子が居る限り、民子は敏夫と二人で居られるという意識の流れは寸分も無く、いつも啓子が対等に割り込んできた。その時、啓子は女子大を卒業する前の年であった。
●「考える葉 その男は銀座を歩いていた。彼は、三十五六ぐらいに見えた。大きな男で、体格がいい。薄ら寒い宵だが、オーバーも何もなかった。くたびれた洋服を着、踵の減った靴をはいていた。ネクタイは手垢で光り、よじれていた。だが、彼は、伸びた髪をもつらせ、昂然と歩いていた。すれ違った者が思わず顔をしかめたのは、その男の吐く息がひどく酒臭かったからだ。夜の八時ごろというと、
は人の出の盛りである。四丁目の交差点から新橋側に歩き、さらに最初の区画を右にはいると、高価な商品を売ることで名の高い商店街がある。どの店もしゃれた商品をならべ、通行人の眼をウィンドーの前にひいていた。品もいいが、溜息が出るほど高い正札がついいていた。この通りをどこでもいいが、左に曲がっても右に曲がっても、夜の銀座の中ではいちばん人の歩きが多かった。 
●「生けるパスカル  画家の矢沢辰生は、美術雑誌記者の森禎治郎がいう外国の小説の話を、近来これほど身を入れて聞いたことはなかった。矢沢より十ぐらい若い森は、美術雑誌記者になる前は文学雑誌の編集志望だった。矢沢は小説の方面に不案内である。話は銀座裏の飲み屋の二階だった。それはイタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの小説で「死せるパスカル」というのである。何からその小説の話になったのか、矢沢はあとまで覚えている。長い間郷里に帰らなかった東北の出稼ぎ農民が殺人事件の被害者に間違えられているのを知って、おどろいて郷里に帰ったというのが発端だった。その出稼ぎ農民は三年間も妻や親戚などに便りを出さなかった「のんき者」だったが、たまたま妻がテレビ報道で、殺された身元不明の男の特徴が夫に似ているところから警察に届け出た、それが新聞に載って彼の帰郷となったのだった。 
●「黒い画集第六話 寒流  B銀行R支店長沖野一郎が、割烹料理屋「みなみ」の女主人前川奈美を知ったのは、沖野一郎が新任支店長として取引先をまわったときが最初であった。つまり「みなみ」は、B銀行のお得意先の一つだったのだ。Rは、東京都内でも活気のある一区画で、都の人口がふくれるにつれて急速に拡大してゆく住宅地を背後に控え、都心からの交通が蝟集し、デパートが競立している。夜の人出の多いことは、銀座を凌ぐものがあった。それで各銀行もことごとくここに支店を置いて激烈な競争をしている。R支店長に転勤してきた沖野一郎は重要なポストに据えられたわけである。沖野一郎には、目下、B銀行で勢力を伸ばしにかかっている重役の推輓がある。桑山英己という四十二歳の常務ある。この若さで常務になっているのは、彼の先代がB銀行創立の功労者で、長い間、頭取をやっていたのである。 
●「黒い線刻画第三話 馬を売る女   画家の石岡寅治は一週間に二回ぐらいのわりあいで銀座に出かける。家は杉並区久我山の何丁目かである。久我山というところは杉並区の西の端で、同時に東京都二十三区の最西端でもある。げんに画伯は三鷹市の井の頭公園を散歩する。銀座には何とか会合があってでかけるのだが、酒の好きな画伯はその帰りにはもちろんのこと、バアにはわざわざでも飲みに行く。当然、帰り時間はそう早くない。帰りはタクシーである。霞ヶ関のランプから高速に入るのだがたいてい十一時ごろで、ときには零時をすぎることもある。この時刻だと高速道路も同じ方向へ行く車が多い。さすがにトラックはないが、マイカー、ハイヤー、タクシーの赤い尾灯が輝きながら連なって走る光景はさながら提灯行列のように壮観である。 
●「地の指   銀座裏のバー「クラウゼン」といううちだった。午後九時半というと、商売はこれからというときだ。ギターを肩にかけた男二人が出てくるのと入れ違いに、社用族らしいのが三,四人、洒落た樫のドアを押した。冬の晩のことで、中にこもった暖かい濁った空気が顔を搏った。眼鏡をかけた男は目の前が真白に曇ってあわてる。女給たちが口々に叫んで集まってくる。客はオーバーを次々に剥がされた。社用族は広くとったボックスに案内された。ここでは馴染みとみえて、ママが他の席から起って来て、「いらっしゃいませ」ママは落着いている。自分でその貫禄を見せているのかもしれない。和服だったが、芸者のお座敷着のような裾模様の着物を着ている。三十二歳の、よく肥えた女だ。なるべく若く見せようとしてか、髪をふんわりと上でふくらましている。社用族はどこのバーでも歓迎される。たちまち五,六人の女たちがここに蝟集した。洋装、着物、とりどりだった。 
●「風紋   早春の朝、今津章一は東方食品株式会社に、一番気に入った服を着て出勤した。ネクタイも昨夜銀座で買ったものをつけていた。埃っぽい、ふだんの通勤服と違って、心まで清潔にひきしまった感じがした。本社ビルは日本橋にある。三年前に新築したもので、今では場所柄かえって贅沢な感じがしないでもない中層六階建ての白亜が朝の強い光線に浮き出ていた。今津の所属は三階の文書部であった。文書部の広い一部屋の五分の一くらいの場所に今津の机はあった。文書部との間は衝立で仕切り、机が四つならんでいた。外側の窓際を除いて、三方の壁は書棚が塞いでいる。ちょっと見ると、新聞社の調査室を小さくしたような感じだが、ここは社史編纂室という名がついていた。社史編纂室は半年前に発足したばかりで、書棚の蔵書も資料もまだ乏しい。今津が入ると、室長の浅野忠と山根静子という女の子が一人、ぽつんと坐っていた。 
●「黒革の手帳(上)   「クラブ・燭台」は銀座の並木通りを土橋近くへ歩く横丁で、このへんに多いバア・ビルの一つにあった。五階まで全部クラブとかバアとかの名のつく店で占められていた。ママの岩村叡子は大柄な、背の高い女で、けっして美人ではないが、あっさりとした愛嬌がある。三十四,五くらいで、鼻の先が少し上向いている。頭の回転も早い、開店して十年以上になるが浮沈の多い銀座の世界では人なみ以上の経営才能を要する。女の子が三十人くらいで、半分以上入れ替えがかなり激しい。十一月のある晩、絵描き仲間が三人寄った。向こうのテーブルに顔の小さなホステスがついている。小紋の肩も細い。こちらから眺めても三十を二つか三つは出ているように思われる。「あのひと、新顔だね?」「はい。ハルエさんというの」画家はAの視線に瞳を合わせた千鶴子というのが教えた。「半月前からよ」Aがハルエという女を煙草の煙の中でときどきそれとなく監察すると、なんだかぎこちないところが見える。前から居る女たちが客とふざけていても、ハルエは上体を棒のようにして座っていた。顔は精一杯の愛想笑いをしていたが。 
●「歪んだ複写   十一月の末の、寒い宵であった。六時前だが、完全に夜になっていて、東京の西の繁華街と言われるS地区には、銀座裏と同じくらいに賑やかな灯が輝き、人間の数はもっと多く流れていた。K通りは、近くに劇場や映画館が集まっていて、近所は、キャバレー、バー、ナイトクラブ、料理店といった店が、これも銀座裏と同じようにひしめいている。夜の遊び場であった。無論、広い地域なので殷盛さが平均しているという訳ではなかった。すこし横の通りにそれると、灯の稠密は少なくなり、人の歩きは疎らになる。が、その種類の店は、相変わらず多かった。ひとりの男が、人でも待っているような恰好で、その通りの或る地点に佇んでいた。寒い風のせいか、彼は片脚で貧乏ゆすりをしていた。近くのネオンの光が、男の顔を紅く浮かせるので分かったことだが、彼は三十前後の年齢にみえた。風の油気の無い髪と、古いオーバーの裾が煽られていた。使い過ぎたネクタイも結び目が細くなっているし、靴にも艶がない。要するに、安サラリーマンとしか踏めないのである。 
●「屈折回路   従兄の香取喜曾一が熊本で死んだという電報を私が貰ったのは、昭和三十七年の冬になりかけの頃だった。私は折返して香取喜曾一の妻江津子に返電して、葬式には行けない事情を断った。香取喜曾一とは長い間文通が途絶えていたので、彼が病気をしていたということは私は全然知らなかった。香取喜曾一は、私の母の妹の息子に当たる。彼はT大の医学部を出てから間もなく熊本県の県衛生試験所に入っていた。今まではそこで技師になっている。香取喜曾一と私とが最後に遇ったのは去年の春だった。彼は、ときどき、厚生省か何かの会議で上京してきた。いつも私に連絡しないで素通りで帰ることが多かったが、去年は私の勤めている学校に電話を寄越して、二人で銀座に出て飲んだことがある。それが最後だった。死の電報を貰ったとき、私はそのときの彼の様子を思い泛べたが、健康そうな顔色といい、仕事に対する抱負といい、どうも死の予想が彼にあったようには考えられなかった。彼は相当に飲むがおとなしい酒で、少し出歯の口を絶えず開けてにこにこしていた。こちらから話題をひき出さないと、彼のほうから積極的にものをいうタイプではなかった。私より一つ上だから三十六歳である。 
●「聖獣配列(上)   銀座の雑居ビル、バアの名が階数に従ってタテにならんだ看板の四階が「クラブ・シルバー」である。開店五周年記念の内祝いは去年の秋にすませた。三月半ばの寒い風が八丁目の道路に舞う晩、時刻は九時をまわったころだが、三十六,七の背の低い小肥りの男が、その倍も丈がありそうな外人の男を連れて入ってきた。入り口近くの席にいたホステスらが男客を見るなり、腰を浮かしておじぎをし、同時に、ママ、ママ、と奥へむけて呼んだ。店は、奥に長く、真ん中がせまい通路で、向かって左側にテーブルが一列にならび、右側は入口からトイレ、更衣室、長いカウンターの酒場となっている。これは正面窓ぎわに近いところでカギの手に折れていて、いちばん奥のテーブルとの間にできたスペースには花をのせたピアノがある。カウンターは桜材二枚継ぎの本格で、磨きこんだ飴色の下から柾目が浮かんでいた。酒瓶棚を背にしてバーテン二人が働いていた。 
●「相模国愛甲郡中津村   私が資料などをよく頼む古書店にI堂というのがある。神田では大きい店の一つだし、老舗でもある。ここは二階まで古本がぎっしりと詰まっているが、二階にはだいたい好事家向きの和書が積み上げられている。そのほかの洋書関係では、初版の『イソップ物語』の原書や南蛮関係の珍書も揃っている。私は銀座に出るついでに、時間があればこの店に寄ることにしている。ここでよく顔の色艶のいい、でっぷりと肥った年寄りだった。はじめは大学の先生かと思っていたが、度々顔を合わせてるうち、眼が合えば軽く会釈をする程度になった。階下と違って二階は特殊な客なので、何となく親近感が湧く。暮れも迫った或る日だった。古本も普通の店並みに赤札の売出りがあり、階下の一般書の部は普段より客が混み合っていた。その日もその老人と閑散とした二階でいっしょになった。 
●「彩り河(上)」(下)
 
五月十六日の夜九時ごろである。この時刻、首都高速道路霞が関料金所は中だるみといった状態である。十時半になると、料金所は乗用車で混み合いはじめ、十一時から一時までが混雑のピークとなる。銀座のナイトクラブ、キャバレー、バー、飲み屋などの客が帰宅するころだった。ラッシュになると、料金所の入口に車が無秩序に殺到する。ここはブースと呼ばれる赤塗りの、細長い、ちょうど列車の車輌のような通行券授受施設が四つある。内回り線に二つ、外回り線に二つ、そのいずれも全開となる。車の群れは南の官庁街の坂道を上がってくるのと、さらに東の有楽町方面から国会議事堂前を回ってくるのとがある。車の四つの川がゲートの前で合流して溜まり、洪水のようになる。ドライバーたちは一秒でも早く料金所の前に近づこうとひしめき合う。その前方がトンネルに入る下り坂となっているので、あたかも狭い下水管の入り口に溢れた水が少しずつ奧へ吸い込まれて行くぐあいだった。料金所の年とった係員がてんてこ舞いする時間帯である。 

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