書き出し |
従兄の香取喜曾一が熊本で死んだという電報を私が貰ったのは、昭和三十七年の冬になりかけの頃だった。私は折返して香取喜曾一の妻江津子に返電して、葬式には行けない事情を断った。香取喜曾一とは長い間文通が途絶えていたので、彼が病気をしていたということは私は全然知らなかった。香取喜曾一は、私の母の妹の息子に当たる。彼はT大の医学部を出てから間もなく熊本県の県衛生試験所に入っていた。今まではそこで技師になっている。香取喜曾一と私とが最後に遇ったのは去年の春だった。彼は、ときどき、厚生省か何かの会議で上京してきた。いつも私に連絡しないで素通りで帰ることが多かったが、去年は私の勤めている学校に電話を寄越して、二人で銀座に出て飲んだことがある。それが最後だった。死の電報を貰ったとき、私はそのときの彼の様子を思い泛べたが、健康そうな顔色といい、仕事に対する抱負といい、どうも死の予想が彼にあったようには考えられなかった。彼は相当に飲むがおとなしい酒で、少し出歯の口を絶えず開けてにこにこしていた。こちらから話題をひき出さないと、彼のほうから積極的にものをいうタイプではなかった。私より一つ上だから三十六歳である。 |