.

検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その五:アパート・マンション)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!


ページの最後


●アパート

黒い樹海
喪失
獄衣のない女囚
断線」別冊黒い画集 第六話
渡された場面
砂の審廷 小説東京裁判
繁昌するメス
美しき闘争(下)

※階段
黒い樹海
「隠り人」日記抄」草の径 第四話
小説帝銀事件

アパートには「階段」ということで調べたが
黒い樹海」だけだった。


●マンション
十万分の一の偶然
足袋」隠花の飾り(原題=清張短編新集)第一話

※エレベーター
疑惑」(原題=昇る足音)
小説帝銀事件


それでは
マンションには「エレベーター」ということで調べたが
なにもなかった。マンションに「階段」でもよかったのだが
ただ、時代背景なのか、「マンション」が意外に少なかった。
アパートは全体を調べれば相当な数になるだろう。


おまけで、「階段」と「エレベーター」は、「小説帝銀事件」が出てきた。
それは、エレベーターを使わず、階段を使ったという”そのまま”であった。



2008年04月13日


題名 「アパート・マンション」
●「 まったく偶然のことから、見知らぬ同性どうしが知合いになり、特殊な友情を深めてゆく話は、陳腐な物語として顧られないものだが、「陳腐」が日常から発している以上、現実にその例が多い。福江弓子の経験がそれである。ある早春の雨の晩、弓子はつとめているバアからの帰りを客に車で送られた。ほかに同じ店の女の子が二人いたが、客は順々家に近くで降ろして回るつもりだった。これは女の側に有難迷惑な場合があって、いろいろな意味で本当の住所を知られたくない。弓子は神田あたりまで来たとき、此処で降ろしてほしいと客にいった。客は、おや、君のアパートは池袋のほうではなかったのか、と訊いた。他の女からでも聞いていたとみえる。いいえ、ここでいいのよ、弓子は隣で腰を浮かせた。客の向こうわきに坐っている女も、助手席の女も黙って微笑していた。弓子にいちばん気のある客は、道路に降りて傘をひろげた彼女に未練そうな視線を投げた。
●「黒い樹海 姉は十一時すぎに帰ってきた。笠原祥子はアパートの表に自動車の止まる音を耳にし、それから靴音が堅いコンクリートの階段を上がってくるのを聞いて、姉は上機嫌なのだと思った。姉の信子はR新聞社に勤めている。文化部の記者として外を歩きまわっているから、帰りの時間は不規則だった。遅くなると、社の車で送られて戻ることが多い。姉の機嫌のよし悪しは、車のドアを閉める音の高低でもわかったし、次に、こつこつと三階まで響かせる足音の調子でも妹には判断できた。ドアを煽ってはいったときから、姉の顔は少し酔って上気していた。「ただ今。」声が普通より大きかった。「あら、飲んだの?」祥子の目に、姉は笑みかけ、いつもよりは乱暴に靴を脱いで、畳の上に上がった。「お食事は?」「ごめんなさい。すんじゃったわ。」その返事を、姉は後ろ向きになって外出着を脱ぎながら言った。
●「喪失 男も女も職業をもっていた。田代二郎は運送会社の会計係を勤めて一万五千円を貰う。この月給で妻と子ひとりを養っていた。桑島あさ子は小さな製薬会社の事務員として八千円の給料をとっていた。それで田舎の母のもとに預けてある子供の養育費として千円送り、二千円をアパート代に払い、五千円で生活していた。男は二十八歳の家庭持ち、女は同じ歳で夫を五年前に失っていた。二人の間はあさ子が姉ぶってふるまい、切りつめた金のなかから男の靴下など買ってやり、ふだん粗食しているかわりに男の泊まりにくる夜は牛肉や刺身を彼に食わせた。時には男のせがむままに五百円、六百円の金を与えることもあった。
●「獄衣のない女囚 服部和子は午後四時ごろに会社を出た。今日はいつもより一時間半は退社が早い。どんなに早くとも、彼女には別に喜びはなかった。逢いたい人もいなければ、観に行きたいものもない。かえって時間の早いのが憂鬱なくらいだった。勤めている会社は機械商で、もう十年間タイプを叩きつづけている。年齢も三十二になっていた。今さら若い男とつき合いも億劫だった。十年もいると、職場の男には魅力も何も感じなくなる。いま住んでいるのは公営の独身アパートで、ここに入るまではあちこちのアパートを渡り歩いた。二年前にようやく入居資格の収入に達して申し込んだのが、運よく一年前になって抽籤に当たり、本望を達した。当座はうれしくてならず、部屋飾りや調度を買い揃えるのに生き甲斐を感じたものだ。
●「断線
(別冊黒い画集 第六話)
昭和三十二年の秋、田島光夫は滝村英子と結婚した。当時田島は二十八歳、英子は二十三歳であった。田島は、そのころ、東京の神田にある証券会社に勤めていた。英子の実家は藤沢にあった。それまで二人は洗足池のほうのアパートを借りて、四ヵ月ばかり同棲していた。結婚が正式に決まると、英子の両親は自分の家の近くに新居を建ててやった。両親は土地で旧くから薬品店を営んでいる。父は薬剤師の免状を持っていた。滝村英子が田島光夫を知ったのは、彼女が或る銀行の大森支店で出納係をしているときである。証券会社の社員だった彼は、別にその銀行とは取引はなかったが、何かのときに金を崩しに立寄り、金網の窓口で彼女と顔を合わせた。田島は、そのころ、証券ブームに乗って都内一帯にかなり手広い得意先を持っていた。一件、ま・./seityou_g/074_sei_kusanomiti_dai04wa_komoribito_niltukisyou__01.html控え目な話しぶりとが誰からも好感を持たれた。
●「渡された場面 坊城町は、佐賀県の唐津から西にほぼ三十キロ、玄界灘に面した漁港の町である。小さな半島の突端で、壱岐、対馬沖はもとより、黄海域まで漁船が往復する。古い湊町にはつきもので、遊女町も発達して、そのことだけでも前からひろく知られてきた。町は深い入江を囲っていて、東側と西側とは早道の海上をつなぐ渡船がある。西側に遊郭があった。雹客の朝帰りには楼主のほうで対岸まで小舟を出す。小舟の二階の手すりにならんだ昨夜の敵娼に袖を振られる。朝は海霧が濃いので、姿や妓楼が見えなくなっても女たちの嬌声はいつまでも舟に届いた。このような情緒はいまはない。むろん遊郭が廃止され、妓楼はアパートとか旅館などとなり、階下の一部がパアになったりしているからだ。けれども昔の遊廓の輪廓は荒廃したままだが残っている。高い屋根に看板をあげた旅館やバアのネオンは夜の暗い入江に色を投じる。
●「砂の審廷 小説東京裁判 ずっと前、わたしが購入した古本のなかに、「戦災日記」と題した個人のノートがあった。粗悪な紙の学童用ノートブック三冊にインキの字がびっしりと詰まっている。ぱらぱらとページをめくると、昭和二十年四月から七月までの間、空襲下の東京の生活が書かれているので、あとで何かの参考になると思い、ほかの本といっしょにしまっておいた。わたしは空襲時の東京を知らない。いつだったか、ある日、ほかの本を探すついでにこのノートを取出して開いてみた。「昭和二十年四月十日午前二時、憎ムベキ米機ノタメ戦災ヲ受ク。百七十機来襲。東京都牛込区喜久井町三丁目八一番地 蒲田義孝 五十一年 同 常子 四十七年 同町高橋精三君宅ノ斡旋ニヨリ、同番地長生館二階ニ移転ス。同君宅ト共同炊事生活ヲ始ム。新小川町罹災者二万余名。町内役員ノ労苦思フベシ。観世能楽堂、長生館等ハ収容ノ尤ナルモノニシテ、一部ハ江戸川アパートニモ入レリ」第一ページはこういう書き出しだった。蒲田義孝はこのノートの筆者・./seityou_g/004_sei_giwaku__01.html
●「繁昌するメス 大宮医院は都下K郡B町にある。近ごろ、東京の市街が西に向かってふくれ、戦前には田舎だったこの辺も、今ではすっかり新開地になっている。団地アパートがほうぼうに建ち、駅の周辺に住宅がふえて、土地がひどい根上がりだ。大宮医院は、昭和二十三年ごろ、この土地に開業している。院長の大宮博は外科だが、ひどく評判が良く、現在ではすっかり近代的な建物に変わってしまった。ここに移った当座の大宮医院は、まだ藁葺きだったのである。内科の医者は多いが、外科はわりと少ない。それに、大宮院長の腕が優れていて、こういう辺鄙な町では惜しいくらいだという評判をとっていた。患者も多い。評判を聞いて、わざわざ都心から訪ねてくる人もある。大宮医院は裏に入院患者の病棟を造った。二十ベッドぐらいは楽に収容できる。
●「「隠り人」日記抄
(草の径 第四話)


階段
昭和三十三年三月十一日思いたって一時半ごろから使い古した釣竿と魚籠を持って家を出た。家といっても間口二間に奥行二間の二階建て。これが狭い一間通路をはさんで片側八軒の棟割り長屋である。通路は南の大通りから北の裏通りへ通り抜けとなっている。南が入り口で、北が出口だ。おれの家は北出口の右角の隣りである。この十六軒長屋は、もともと地主が「市場」用に四十年前に建てたもので、各軒とも階下の半分は店舗用に漆喰のたたきにし、奥の半分は畳敷きである。その畳敷きの隅に階段がついて階上にあがる。階上は六畳が一間と押入があるだけ。窓は外側についている。
●「十万分の一の偶然 A新聞一月二十七日朝刊は、「読者のニュース写真年間賞」を発表した。A新聞に限らず、B新聞でもC新聞でも同じような企画を行っている。この懸賞募集の規定は、三社とも似たりよったりだが、A新聞はこう揚げている。《月間賞 その月の投稿写真を対象にして東京、大阪、西部、名古屋の各本社で個別に審査し、その結果を発表し、賞を贈ります。△金賞(一点)=五万円(とくに優れた作品には十万円の特別賞)△銀賞(一点)=三万円△佳作(数点)一万円。年間賞 一月一日から一年間、四社に集まった全応募写真を報道写真家の権威に依嘱して審査(審査員は原則として三年ごとに交替)その結果を紙上に発表、賞杯、賞状と次の副賞を贈って表象します。△最高賞(一点)=賞杯、賞状、副賞百万円△優秀賞(三点)=賞杯、賞状、副賞各三十万円△入選(五点)=賞状、副賞各五万円》さて、二十七日付朝刊は、昨年度の年間賞である最高賞の作品と、優秀賞「緊急着陸十分前の機内」「マンションの火災」「沈没」とを一ページ全面に出した。当然ながら最高賞の「激突」の写真が最も大きく、派手な扱いだった。
●「足袋
(隠花の飾り第一話)
津田京子は、某流の謡曲の師匠であった。大久保のマンションに居る。弟子をとって謡や仕舞いを教えていた。女弟子が多いが、男弟子もあった。弟子たちはほとんど初心者のころから習っているが、四年も五年もつづけているものも少なくなかった。京子は一週間に三回、午後と夜に稽古時間をつくっている。昼間はおもに女弟子、夜は勤め人や商店主の男弟子であった。三十八歳の、面長な、上背のある女だった。稽古の時間はもちろん和服だが、洋装も似合った。弟子に稽古をする以外週一回は、自分自身のために師匠の水野孝輔の稽古を受けに田園調布の家に行く。水野孝輔は家元に次ぐ某流の幹部で、六十三歳になる。彼女は二十年前に入門し、師匠の許可を得て七年前に初心者をおもに弟子をとるようになった。村井英男は四十二歳になる。ある商事会社の総務部長であった。三年前、その会社の女子社員たちのあいだに謡の同好会がつくられ、当時厚生部長だった彼が世話焼きをした。
●「疑惑(原題=昇る足音)

エレベーター
十月の初めであった。北陸の秋は早くくるが、紅葉まではまだ間がある。越中と信濃とを分ける立山連峰のいちばん高い山頂に新しい雪がひろがっているのをT市から見ることができた。T市は県庁の所在地である。北陸日日新聞の社会部記者秋田茂一は、私立総合病院に入院している親戚に者を見舞ったあと、五階の病棟からエレベーターで降りた。一階は広いロビーで、受付や薬局の窓口があり、長椅子が夥しくならぶ待合室になっていた。そこには薬をうけとる外来患者がいつもいっぱいに腰をかけていた。名前を呼ばれるまでの無聊の時間を、横に据えつけたテレビを見たりしていた。ロビーから玄関の出口に歩きかけた秋谷の太い黒縁眼鏡の奥にある瞳が、その待合室の長椅子の中ほどにいる白髪の頭にとまった。頸が長く、痩せた肩が特徴で、後ろから見ても弁護士の原山正雄とわかった。原山はうなだれて本を読んでいた。
●「小説帝銀事件

階段」・「エレベーター
R新聞論説委員仁科俊太郎は、自分の部屋での執筆が一区切りついたので、珈琲でも運ばせようと思って、呼釦を押すつもりであった。窓を見ると、雨が晴れたばかりで、金閣寺のある裏山のあたりの入り組んだ谿間に、白い霧がはい上がっている。南禅寺の杜も半分は白くぼやけている。ホテルは蹴上にあって高いところだし、部屋は五階だから、このように俯瞰した眺望になるのである。下には大津行きの電車が、まだ雫の落ちそうな濡れた屋根を光らせながら坂を上がっていた。どのような美しい窓からの景色も、ホテルの長滞在の間には感興を失うものだ。仁科俊太郎は、この部屋で茶を喫むことを思いとどまって起ち上がった。場所を変えたいが、外出すると時間がかかる。四階に広いロビーがあるのでそこで憩むことにした。彼は上着をつけて廊下に出た。すぐ下だからエレベーターを利用する必要はない。彼は緋絨氈を敷いた階段をゆっくり降りた。

ページのTOP