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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その二十:官僚&汚職&自殺)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
(登録キーワードも検索する)


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紹介作品の【ある小官僚の抹殺】にちなみ、『官僚&汚職&自殺』で検索。

●『官僚』
絢爛たる流離 第十話 安全率」(19633年(昭和38年)10月号
東経139度線」(1973年(昭和48年)2月号
私説・日本合戦譚 第九話 西南戦争」(1965年(昭和40年)9月号

●『汚職』
黒い画集 第八話 濁った陽」(1960年(昭和35年)1月3日~4月3日
ある小官僚の抹殺」(1958年(昭和33年)2月号
が、ヒットした。

●【自殺】
情死傍観」(1954年(昭和29年)9月号
背広服の変死者」(1956年(昭和31年)7月号
八十通の遺書」(1957年(昭和32年)4月号

三種盛合わせとばかりに「官僚&汚職&自殺」と検索したが、共通の作品はなかった。
「代議士」も仲間に入れたが、 「東経139度線」が、【官僚】【代議士】で、そろって出てきた。

■【代議士】
絢爛たる流離 第六話 夕日の城」(1963年(昭和38年)6月号
東経139度線」(1973年(昭和48年)2月号
速記録」(1979年(昭和54年)12月号


1954年9月から1979年12月に掛けて書かれた作品である。
それぞれのテーマ(キーワード)では共通点があるが、時代背景を考えても特別なことは浮かんでこない。
ただ、【自殺】は、1950年代に集中している。
40歳台前半(芥川賞受賞後)から60歳前半の時代である。脂ののりきっている時代でる。


2020年03月21日

 



題名 「官僚&汚職&自殺」
上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
●『官僚』
絢爛たる流離 第十話 安全率
(19633年(昭和38年)10月号)
総学連・東亜鉄鋼・バー・コスタリカ・学生運動・反安保闘争・革命前夜・×印・ガラス・デモ・資本家
東亜鉄鋼会長加久隆平が初めて福島淳一の声を電話で聞いたのは六月十二日の夜だった。それは成城の自宅にかかってきた。ちょうど、会社から帰ったところで、妻も娘もどこかの招待で観劇に呼ばれ留守をしていた。だから、女中の取次ぎで加久隆平は気軽に電話口に出る気持ちになっている。人間いくらか孤独の状態になったとき、知らない人間の声でもつい聞いてみたくなるものらしい。「ぼく、福島と申します。御主人でしょうか?」相手は若々しいが大きな声を出した。「そうですが、あなたはどちらの福島さんですか?」加久隆平は福島という人間には瞬間でも十人ばかり思い当たる。加久はいま東亜鉄鋼の会長となっているが、もともと事業家出身ではなく、官僚上がりの政治家に近かった。
●『官僚』
東経139度線
(1973年(昭和48年)2月号)
 内閣の改造が行われて文部政務次官に群馬県第×選出代議士の吉良栄助が就任した。当選三回、三十九歳である。東京のP大学文学部国史科卒だから、政治家としては毛色の変わったほうだった。当選三回目で政務次官にありついたのは、吉良栄助が派閥の親分に対して当選以来忠勤を励んだせいだった。ボスは党内の主流派である。政務次官というのはわが国官庁機構の上では昔から盲腸的存在である。あってもなくてもいい。これを創ったのは戦前だが、要するに代議士の肩書きに虚栄心を付加する程度である。ある派閥の親分が忠勤を励んでくれた乾分に、君もゆくゆくは大臣じゃから今のうちに官僚操縦法をおぼえとくほうがよかろう、というようなことを云って論功行賞の具にする。当人は感激であるが、古来官僚というものは面従腹背の徒が多く、大臣といえども気に入らなければこれに対して極めて丁重な抵抗をする。
●『官僚』
私説・日本合戦譚 第九話 西南戦争
(1965年(昭和40年)9月号)

西南戦争の誘因は、征韓論に破れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。西郷は満腔の忿懣を木戸孝允、大久保利通などの中央政府に抱いた。その西郷の手で養成されつつあった鹿児島の軍事訓練学校である私学校の生徒が西郷の不遇に憤激し、武力蜂起を実行にうつそうとした。それを阻止していた西郷も遂に力およばず、止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に附随した徴兵制度による全国武士階級の没落、政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、派閥的には長州と薩州の反目が内在している。別の云いかたをすれば、官僚派と軍人組の相剋であり、これを文治派と武断派、進歩派と保守派、新知識と固陋、近代政治指向と軍事独裁指向と、いくらでも対立者の名をつけることができる。
●『汚職』
黒い画集 第八話 濁った陽
(1960年(昭和35年)1月3日~4月3日)

劇作家の関京太郎は、今度、ある放送局から頼まれて、一本のテレビ脚本を書くことを約束した。その作品は、近ごろ年中行事になっている重要なコンクールの参加番組だったので、彼は、慎重に筆を執ることにした。この番組は、各局とも特に力を入れているので、彼としても、受賞はしないまでも、あまりみっともない成績はとりたくなかった。テレビのシナリオを書くのは初めてである。関がもっとも頭を悩ましたのは、そのテーマだが、彼は、やはり、社会性のあるものを選ぶことにした。プロデューサーの杉山も同じ意見であった。関は、かねてから「汚職」に興味を持っている。しかし、近ごろ、汚職のことはかなり、小説やドラマにとりあげられている。それで関の考えとしては、正面から汚職をとりあげることをせず、側面からそれを衝きたい野心があった。 。 
●『汚職』
ある小官僚の抹殺
(1958年(昭和33年)2月号)
密告電話・贈収賄事件・岡山出張・熱海の旅館・第一発見者・自称弁護士・取調室・参考人・被疑者・首つり
昭和二十××年の早春のある日、警視庁捜査二課長の名ざしで外線から電話がかかってきた。呼び出しの相手を指名しているくせに自分の名前を云わない。かれた、低い声である。課長は受話器を耳に当てながら、注意深く声の背景を聞こうとした。電車の音も、自動車の騒音もなく、音楽も鳴っていなかった。自宅から掛けているという直感がした。話はかなり長く、数字をあげて、内容に具体性があり、聞き手に信頼性をもたせるに十分だった。重ねて名前を聞くと、都合があって今は云えないと、かれ声はていねいに挨拶して先に切った。ふだん話をするのになれた人間の云い方であった。いうところの汚職事件が新聞に発表されたとき、人は捜査当局の神のような触覚に驚く。いったい、どのようにして事件の端緒をかぎあてたのだろうかとふしぎな気がする。多くは、彼らの専門的な技能に帰納して、かかる懐疑を起こさないかもしれない。しかし、職業の概念に安心するのは、そのゆえにあざむかれているのである。
●【自殺】
情死傍観
(1954年(昭和29年)9月号)
阿蘇・噴火口・茶店・自殺・心中・老人・小説家・憎悪・利己心
以前、私はある雑誌に『傍観』と題した二十枚にも足らぬ小品を発表したことがある。阿蘇山の噴火口に投身する自殺者を救う老人のことを小説にしたものだった。この老人は実在の人物で、私が阿蘇の内ノ牧温泉に二,三日遊んだ時、その老人に遭って話をきいた。老人は永年、阿蘇の噴火口の登り口のところで茶店を開いていたが、今まで飛び込み自殺を救った数は百人を下らぬと云う。現に私に、人命救助の知事の表彰状を一束にして見せてくれた。この他、自殺の目的で登山してくる者を、途中で発見して無事に説得して下山させた数を入れたら何百人であろうという。自殺に来る者の様子は、慣れた者には大てい見ていて分かるらしい。大岡昇平氏の「来宮心中」の中にもそんなことが書いてある。自殺や心中の多い土地には、どこにもそんな人間がいるとみえる。
●【自殺】
背広服の変死者
(1956年(昭和31年)7月号)
私は明日死ぬつもりである。線路にとび込むか、薬を嚥むか、首を縊るか、未だどれとも決めていないが、とに角、明日決行しようと思う。自殺の方法はいずれにしても、私は一切身許の知れる遺留品は残さぬことにする。名刺の入った定期入れはもとより、ポケットに入っている古領収書や紙ぎれの類、万年筆、煙草ケース、ハンカチなどはみな捨てるか焼いてしまう。勿論、上衣のネームや、ワイシャツについた洗濯屋の縫付けなどもとってしまう。その一部はもう実行している。要するに私はどこの何者とも知れぬ変死体となることを希望する。その理由の一つは、私の死亡をすぐに確認されたくないからだ。少なくとも私の勤めている社には私の死んだことを知って貰いたくない。そうすれば当分は私の月々の給料は家族に渡るであろう。半年か一年間は、それによって食いつなぐことが出来る。これがせめてもの妻子への私の情けない心づかいである。
●【自殺】
八十通の遺書
(1957年(昭和32年)4月号)
大森秀太郎が自殺した。留吉の居る東京から千二百キロ離れた土地の出来事である。留吉が九州から出京して七、八年になる。時々、用事の帰りには、有楽町の駅の近所で地方紙ばかり売っている立売りから、郷里の新聞があれば買ってよむ。その中で、その記事を見つけたのである。「社長さん自殺」という見出しで、一段組みの隅に貧しく載せられてあった。--市××町一ノ三、大森商事社長大森秀太郎氏(六〇)は、×日の夜中、自宅で家人の隙を見て右頸動脈を剃刀で切って自殺した。関係者にあてた八十通の遺書があった。原因は借金苦から。---六行にも足りないこれだけの活字であった。

■【代議士】
絢爛たる流離 第六話 夕日の城
1963年(昭和38年)6月号
粟島政治経済研究所・豪農・白壁・精神障害・跡取り息子・変態性癖・骨董品・古物商・全裸の男・政治ブローカー
山辺澄子にその縁談があったのは、秋の半ばだった。澄子の父親は、本郷の裏町で古物屋をしている。ひと頃は、終戦直後の物資不足で、古道具も品物さえあれば面白いくらい儲かった。それで多少金が出来て、父親のかねての念願だった骨董を扱うようになった。父親は自分では骨董商と言っている。店の横に小さな飾窓を取り付け、薄縁を敷いて、その上に古い皿や壺、刀などを並べ、ひとかどの骨董商の店の構えを造った。澄子はある会社の事務員をしていたが、二十五歳になっていた。それまで縁談はあったが、どういうものか、まとまらなかった。彼女の過去に恋愛らしいこともないではなかったが、これも結婚までには進まなかった。その縁談を持ち込んできたのは粟島重介といって、戦後に一度代議士になった男である。今では京橋に「粟島政治研究所」という看板を掲げている。
■【代議士】
東経139度線
(1973年(昭和48年)2月号)
内閣の改造が行われて文部政務次官に群馬県第×選出代議士の吉良栄助が就任した。当選三回、三十九歳である。東京のP大学文学部国史科卒だから、政治家としては毛色の変わったほうだった。当選三回目で政務次官にありついたのは、吉良栄助が派閥の親分に対して当選以来忠勤を励んだせいだった。ボスは党内の主流派である。政務次官というのはわが国官庁機構の上では昔から盲腸的存在である。あってもなくてもいい。これを創ったのは戦前だが、要するに代議士の肩書きに虚栄心を付加する程度である。ある派閥の親分が忠勤を励んでくれた乾分に、君もゆくゆくは大臣じゃから今のうちに官僚操縦法をおぼえとくほうがよかろう、というようなことを云って論功行賞の具にする。当人は感激であるが、古来官僚というものは面従腹背の徒が多く、大臣といえども気に入らなければこれに対して極めて丁重な抵抗をする。
■【代議士】
速記録
(1979年(昭和54年)12月号)
年齢六十一歳の代議士下渡久太郎は、九州の某県選出で当選二回である。与党だが、まあ何派に属していてもよい。県会議員十二年ののちに落選二回を喫して四年前に下位で初当選をした。二回目に順位が二位に上がったのは、票の地盤が相当に出来たからである。土建業。私大卒。趣味は囲碁・書道・読書・旅行である。趣味に囲碁が入っているのは、ザル碁であり、書道というのは選挙区民のための揮毫用に手習いをはじめたにすぎなかった。健康はいたってよい。若いときから現場を歩いていて足腰を鍛えている。頭髪のないのが損をして実際より老けてみられる。通常国会がはじまるにあたり、下渡久太郎は商工委員会に配属された。前回も同じ委員だったが、これはべつに彼がエキスパートというのではなく、割り振りの上からそうさせられただけである。げんに前の国会では委員会に出席していても何も発言しなかった。

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