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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その六:偶然)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!


ページの最後


●少し趣向を変えて「偶然」としました

推理小説の中に「偶然」がたびたび登場しては興ざめです。



遭難」黒い画集 第一話
古本」死の枝 第六話
夜光の階段」(上)
厳島の戦」私説・日本合戦譚 第五話
危険な斜面
神々の乱心」(上)
たづたづし

運不運 わが小説」エッセイ


結構ありました。小説の数からするとこんなものでしょう。
数の問題ではなく
問題は使われ方が「必然」かどうかの問題でしょう。

十万分の一の偶然」を忘れてはいけない。これはタイトルだけでした。

「偶然」とくれば「必然」と...検索したがありませんでした。
では
「偶然」とくれば「結果」???...調べました。(小説だけです)
十万分の一の偶然
美しき闘争」(下)
人間水域
俺は知らない」無宿人別帳 第五話 



2008年06月15日


題名 「偶然」
●「 まったく偶然のことから、見知らぬ同性どうしが知合いになり、特殊な友情を深めてゆく話は、陳腐な物語として顧られないものだが、「陳腐」が日常から発している以上、現実にその例が多い。福江弓子の経験がそれである。ある早春の雨の晩、弓子はつとめているバアからの帰りを客に車で送られた。ほかに同じ店の女の子が二人いたが、客は順々家に近くで降ろして回るつもりだった。これは女の側に有難迷惑な場合があって、いろいろな意味で本当の住所を知られたくない。弓子は神田あたりまで来たとき、此処で降ろしてほしいと客にいった。客は、おや、君のアパートは池袋のほうではなかったのか、と訊いた。他の女からでも聞いていたとみえる。いいえ、ここでいいのよ、弓子は隣で腰を浮かせた。客の向こうわきに坐っている女も、助手席の女も黙って微笑していた。弓子にいちばん気のある客は、道路に降りて傘をひろげた彼女に未練そうな視線を投げた。
●「遭難
(黒い画集 第一話)
1 鹿島槍で遭難(R新聞九月二日付)A銀行丸の内支店勤務岩瀬秀雄さん(二八)=東京都新宿区喜久井町××番地=は八月三〇日友人二名と共に北アの鹿島槍ヶ岳に登ったが、霧と雨に方向を迷い、北槍の西方牛首山付近の森林中で、疲労と寒気のために、三十一日凍死した。同行の友人は、冷小屋に救援を頼みに行ったが、同小屋に泊まっていたM大山岳部員が、一日朝救助におもむいた時は間に合わなかった。 2 (この一文は、岩瀬秀雄の遭難の時、同行していた浦橋吾一が山岳雑誌『山嶺』十一月号に発表した手記である。浦橋吾一は岩瀬秀雄と同じ勤め先の銀行員で二十五歳、岩瀬よりやや後輩で、本文中に名の出る江田昌利は三十二歳、同銀行支店長代理である。この三人が八月三十日に鹿島槍ヶ岳へ登った) 鹿島槍に友を喪いて 浦橋吾一   私が江田昌利から鹿島槍行を進められたのは七月の終わりであった。江田氏はS大当時、山岳部に籍を置いていて、日本アルプスの主要な山はほとんど経験ずみだし、遠く北海道や屋久島まで遠征したことのある、わが銀国内きっての岳人だった。これまで江田氏に指導されて山登りが好きになった行員はずいぶんいる。「岩瀬君が行きたいと言っている。二人だけではつまらないから、君を誘ったのだ」江田氏は私に言った。休暇の都合や、山登りに興味のない者を除くと、私だけということになった。職場では仕事の関係で夏季休暇を代わりあってとっていたが、江田氏も岩瀬君も私も、係りが違うので偶然にいっしょに休暇がとれることになったのである。
●「古本
(死の枝 第六話)
東京からずっと西に離れた土地に隠棲のような生活を送っている長府敦治のもとに、週刊誌のR誌が連載小説を頼みに来たのは、半分は偶然のようなものだった。長府敦治は、五十の半ばを越している作家である。若かった全盛時代には、婦人雑誌に家庭小説や恋愛小説を書いて読者を泣かせたものであった。まだテレビの無いころだったから、彼の小説はすぐに映画化され、それが彼の小説の評判をさらに煽った。長府敦治の名前は、映画会社にとっても雑誌社以上に偶像的であった。しかし、時代は変わった。新しい作家が次々と出て、長府敦治はいつの間にか取り残されてしまった。もはや、彼の感覚では婦人雑誌の読者の興味をつなぐことは出来なくなった。長府敦治の時代は二十年前に終わったといってもいい。ときどき短い読み物や随筆を書くことで、その名前が読者の記憶をつないでいる程度になった。
●「夜光の階段」(上) 三十五歳くらいの男が九州の温泉地の旅館で朝の床から起きた−−−という平凡な日常的動作からこの話を始める必要がある。日常生活の連続の中で何ごとかが起きればそれは異常の発生になるし、何ごともなかったら(たとえその要因を持っていても顕在化しなかったら)退屈な単調さで終わってしまう。異常な事態の要因はその人に内在することもあるあるし、その人に関係なく外部に存在したものが影響を与えることもある。前の場合は、その人に予感なり期待なりがでてきているが、あとの場合はまったく不意打ちであり、偶然である。平凡な生活のなかにはこの二つのものが大なり小なりつきまとっている。床から起きて浴槽に下りて行った男は桑山信爾といって大坂地方検察庁の検事であった。だが、職掌上のことでこの九州の温泉−−−福岡県筑紫野市×町という現在名よりも、昔から武蔵温泉で知られたここに来ているのではない。曽ての上司で、世話になった福岡地検の検事正が病死した。その弔問に博多にきたついでだった。桑山信爾は胃が丈夫でない。痩せている。
●「厳島の戦
私説・日本合戦譚 第五話)
安芸宮島は日本三景の一つとは誰でも知っている。平清盛が華麗な神殿を建てたことも、そこに日本工芸史上有名な、平家納経が所蔵されていることも知られている。だが、戦国時代の合戦場だったとは、それほどひろく知られていない。厳島合戦は、毛利元就が陶晴賢の大軍をおびきよせて一挙に葬った殲滅戦だ。北条氏康が川越の夜戦で十倍の敵軍を撃破した天文十五年(一五四六)の川越の戦いと、永禄三年(一五六〇)の桶狭間合戦と、この弘治元年(一五五五)の厳島合戦とは、日本戦史上の三大奇襲戦である。川越の夜戦も、桶狭間の合戦も、多少、偶然性が働いているが、この厳島合戦は、毛利元就の緻密な作戦が功を奏した点で、ちょうど、上手の棋譜を見るような面白さがある。陶晴賢は、周防山口の大内の重臣だった。大内氏は、中国地方の西部から北九州にまで、その勢力をおよぼしていた一大雄国だが、義隆のとき、その武威を背景に文化方面も大いに興った。天文十七,八年のころである。
●「危険な斜面 西島電気株式会社調査課長秋葉文作が、野関利江と十年ぶりに偶然会ったのは、歌舞伎座のロビーだった。そのとき、秋葉文作は会社の得意先関係の客を招待していた。会社側は彼のほかにも、販売部長や技術部長、宣伝部長などがいた。いや、調査課長である彼はむしろその末席であった。「今夜は、会長が来ているぜ」と、いち早く報告したのは、宣伝部長だった。「二号さんとだ」どれどれ、と部長連中は、開幕になってから、客席の前の方を眼で捜した。最前列より六つか七つめぐらいあとの、ちょうど、まん中あたりに、特徴のある西島卓平の禿頭が、半分後ろ衿の中にはめこんだようにうずくまっていた。西島金属工業、西島化学工業各株式会社の会長である西島卓平は、ひどい猫背である。その横に豊富な髪をした女が、濃い紫色の和服をきて、抜き衿のうなじを白々と見せていた。
●「神々の乱心」(上) 東武鉄道東上線は、東京市池袋から出て埼玉県川越市を経て、秩父に近い寄居町にいたっていた。武蔵野平野の西南部を横断しているかたちである。その途中に「梅広」という駅がある。昭和八年現在の東武鉄道の時刻表で池袋駅から所要時間が約一時間である。ここは埼玉県比企郡梅広町で、人口約一万三千。郡役所、裁判所出張所、警察署、比企郡繭糸同業組合支部、武州中央銀行支店、県立中学校、小学校などが備わっている。駅前通りには商店がならび、料理店も多い。旅館は六軒ある。駅前広場にタクシーが以前からみると相当ふえた。二つの自動車会社が一日平均三十台近くの車を動かして川越市、熊谷市、鴻巣町、玉川村方面へ客を運んでいる。昭和八年十月十日午後二時半ごろ、埼玉県特別高等警察課第一係長警部古屋健介が北村幸子を梅広警察署に呼び入れて参考人として尋問したのは、次のように偶然のことからだった。
●「たづたづし 夕闇は路たづたづし月待ちて行かせわが背子その間にも見む(七〇九)この歌は奇妙にわたしの頭に印象を刻んでいる。別に万葉集や和歌に興味があるのではない。たまたま本屋に寄って万葉集の本を開いたとき、偶然、この歌が眼にふれて頭に残ったのだ。そのときも、どのような心理で本棚に並べてある万葉集を手に取ったかよく分からない。それも東京ではなく、信州諏訪の本屋だった。妙な土地で見たものだ。この歌の意は、「月が出るまでの暗がりの路は、たどたどしくてわかりにくいものです。あなた、どうか月が出るまで待って、その上でお出かけ下さい。その間にもあなたのお側にいとうございます」というのであろう。なぜ、こんな歌がそのとき、わたしの頭に沁みこんだのだろうか。
●「運不運 わが小説 息子の本屋の主催でここに参りまして、どうも変なぐあいです。いつもご愛顧いただいてありごとうございます。ならべられてあるのは、わたしのこれまでの仕事の展示ですが、まことに貧弱で恥ずかしい次第でございます。わたしは、元来、小説家になるつもりはございませんでした。偶然のことからこの道に入ったのであります。昭和二十四,五年ごろのこと、ふとしたことから、当時、朝日新聞西部本社、九州小倉にございますが、社内の資料調査室に備えられた冨山房の百科事典で調べることがあってその項目を見ておりますと、その対ページに西郷札というのが出ておりました。これはサイゴウフダではなく、サイゴウサツと読みます。それは、明治十年、西郷隆盛の薩摩軍が政府軍に敗れて、熊本城の包囲を解いて、日向(宮崎県)に走り、延岡にひとまず再挙の根拠地を置いた。ところが薩摩軍は物資を調達するのに軍票をつくった、一円札、五円札、十円札を発行した。それは、西郷軍のお礼であるから世に西郷札という、との説明でありました。

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