特別紹介作品No 002
【半生の記】 〔週刊文春 1965年8月15日~10月3日〕
(『半生の記①』) 【半生の記②】(完)
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昭和三十六年の秋、文藝春秋社の講演旅行で山陰に行った。米子に泊まった朝、私は朝早く起きて車を傭い、父の故郷に向かった。
これについて、以前に書いた一文がある。
--中国山脈の脊梁に近い麓まで悪路を車で二時間以上もかかった。途中、溝口などという地名を見る
と、小さいときに聞いた父の話を思い出し、初めて見るような気がしなかった。
私が生山の町を初めて訪れたのは、戦後間もなくだった。今は相当な町になっている。
近くにジュラルミンの原料になる礦石が出るということで、その辺の景気が俄によくなったということ
だった。矢戸村というのは、今では日南町と名前が変わっている。山に杉の木が多い。町の中心は
戸数二十戸あまりの細長い家並みだが、郵便局もあるし、養老院もある。小雨の中を私の到着を待
って、二十人あまりの人が立っていた。
松本清張全集 34 半生の記・ハノイで見たこと・エッセイより【「文藝」 1963年(昭和38年)8月号~1964年(昭和39年)1月号】
(原題=回想的自叙伝)
-----「半生の記」 中見出し---------------------------
父の故郷/白い絵本/臭う町/途上/見習い時代/彷徨/暗い活字/山路/紙の塵/
朝鮮での風景/敗戦前後/鵲(カササギ)/焚火と山の町/針金と竹/泥砂/絵の具/あとがき
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■父の故郷・白い絵本・臭う町・については要約。「途上」以後は少し短く、まとめて書く。■
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●父の故郷
●白い絵本
峯太郎は、八十九歳で死んだ。母のタニは、七十六歳で死んだ。清張は一人息子。
清張は、この両親に自分の生涯の半分を拘束されたと述べている。
少年時代は親の溺愛
十六歳頃からは家計の補助に
三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きが取れなかった。
「骨壺の風景」詳しく書かれている。
●臭う町
棗(なつめ)の実の話が出てくる。確かに最近見かけない。(ここに書かれている時期が1960年代)
だから?今でも見かけない。
下関時代の話である。
近所の蒲鉾屋の世話になる。悲惨な生活もまた、「骨壺の風景」に描かれる。
●途上
父に連れられて、職業紹介所(職安の前身)の窓口に行った。
時代は少し進んで、大正13年、清張は15歳。川北電気(株)の給仕になる。清張の希望は新聞社のような所に入りかった。
※2022年7月21日 続きを再開
川北電気に就職した時代の話から、清張が文学に目覚める時期の話に移る。
川北電気には3年間いた。
芥川龍之介・菊池寛・戯曲では、鈴木泉三郎・関口次郎・岸田国士・山本有三。
漱石、鴎外、花袋、鏡花など一通り読んだ。
清張文学の基礎が出来上がりつつあった時代でもあった。
八幡製鉄に勤める職工で、文学仲間も出来交流する。エピソードとして、仲間の\作品発表会で披露した短編が
「プロレタリア文学」的だと評価される。
しかし、清張にはその方面の知識がまるで無かった。八幡製鉄の職工連中は、「文芸戦線」など購読していた。
芥川龍之介が自殺した時期でもあった。芥川龍之介の影響を受ける。。
●見習い時代
北川電気企業社(本社大阪)小倉出張所が閉鎖され、失職。
「画工見習募集」の貼り紙を頼りに面接を受ける。
絵には、学校の成績でも自信があった。しかし募集は、小学校を出たばかりの者を採用するのが目的だった。
清張は二十歳に近い年齢だった。
つてを頼って、高崎印刷所の見習い職人になった。
小学校を出たばかりの少年と同じ、いや、彼らにこき使われる有様だった。
先の見込みのない、仕事に見切りを付け画工を目指すため職場を変える。小さな石版印刷所に勤め始める。
印刷所の主人が、仕事を放擲(ホウテキ)するようになり、清張が全てを賄う羽目になる。結果清張に仕事が身につく。
働きづめの身体は悲鳴を上げた。肺炎になった。
父の飲食店は不況に揉まれながら、小さく、小さくなっていった。が、父は、相変わらずの生活態度だった。
厳しい一家の生活を何とか安定させたく、十円程度しかもらえない給金ではどうにもならなかった。
一人前の給料を取るために職場を変える。清張苦闘の時代でもある。
(清張略歴より)
昭和3年3.15事件
昭和4年4.16事件
昭和4年の3月中旬、家に刑事が来る。清張には多少の心当たりがあった。『戦旗』の配布を受けていた。
留置場に十数日間入れられた。拷問も体験している、蔵書は父によって焼かれた。
●彷徨
最初は、前の「見習い時代」に戻る。
清張は九州で一番大きい博多の島井オフセット印刷所へ移った。(清張略歴では嶋井オフセット印刷所)。
相変わらず安い給金だったが、初めて親元を離れて一人暮らしを始める。
金は無かったが、清張には自由が手に入った感じがした。
印刷屋の画工として注文も入るようになり多少自信になる。
小倉の洋菓子店が、包装紙の図案を高名な東京の画家に依頼する話があり、その場に清張も呼ばれた。
画家は、骨董屋の図録から適当に模様を選んで「書き散らして下さい」と清張に命じた。
文字だけは画家が自分で書くというのだ。それが評判の二科の新進作家の実態だった。清張は27歳になっていた。
●暗い活字
父の飲食店が駄目になり、小倉の北方という所にある兵営の前に餅売りの露店を出した。
>父親は不器用で、無計算で、どんな商売をしても成功するはずのない人間だった。
清張の家庭が悲惨に描かれている。
祖母のことが語られている。父峯太郎の養母、カネについてである。「骨壺の風景」に詳しい。
清張の母も義母には尽くしていたが、清張も祖母には可愛がってもらった。
祖母は、
>「父っつぁんのような男にはなるなよ」とよく言った。
>が、それは父に甲斐性がないからではなく、「父っつぁんの耳はこまいけに運がなかったのじゃ。
>それに女房運もようなかった。男は女房がようないと出世せんけに」と言った。
>父の不運を生まれつきと,不幸な配偶者のせいにしていた。
この頃の清張は、まだ文学を志す気持ちは持ち合わせていなかった。
それでも、北九州に文学運動の風が吹いてきた。「とらんしっと」という同人雑誌が出たりした。
のちに『九州文学』を発行する同人達が集まっていた。しかし、清張には無縁だった。
●山路
昭和21年、印刷屋の主人が死んだ。これを機に印刷屋の職工を辞めようと考えた。
その後の生活が不安でためらっていた。この頃清張は結婚をしていた。
両親も魚の行商を続けるには年老いてきた。
清張に決定的な転機が来る。
昭和12年の1月のある日、朝日新聞を見ていると、九州支社を増築し印刷を始めるというのである。
印刷を始めるなら、広告もあるだろう、デザインなどの版下を描く者も必要だろう。だが、朝日新聞は余りにも大きすぎた。
ここで清張の行動力が発揮される。今までも、それぞれの場面で行動力を発揮していたと思うが、この件に対しては
舌を巻くと言わざるを得ない。
コネのない清張は支社長に直接手紙を書く。
もちろん、就職の依頼であった。殆ど期待はしていなかったが、来社を求める返事が来た。
面談後雇われることになったが、入社というのではなく、歩合の仕事で、一枚いくらという契約で専属という条件だった。
今の仕事と殆ど変わらなかったが、四,五十円ぐらいの今の収入には十分なると言われ一安心する。
印刷屋は辞めて、新聞社の仕事と印刷屋から回ってくる版下の仕事で生計を立てた。
新聞社の仕事は益々忙しくなった。
アルバイト的に印刷屋の版下の仕事続けるわけにいかなくなり、新聞社の仕事に絞ることにした。
やがて長女が生まれる。嘱託を解かれ、正式に入社となった。
ただ、朝日新聞は、身分制がハッキリしていて、給料日も違うし、待遇も違った。
●紙の塵
清張は、朝日新聞社で約20年間働いた。この約20年間には、契約での期間、嘱託の時期、兵役に3年が含まれる。
>朝日新聞社に勤めている間、私は概して退屈であった。
と書いている。その理由が
>生活が最低の線で保障されていたため、一日一日を生き抜いて行く緊張感を失った。
と書いている。
その簡において、貴重な体験をしている。
サラリーマンとしての悲哀である。社内に蔓延る身分制度、学歴社会。本社と東京支店の関係。
本社採用と現地採用。全てが、清張作品の源泉になっているような気がする。
宴席などのエピソードが悲哀を持って語られている。
校正係の主任にAさんと言う人が居た。彼によって清張は考古学に興味を持ち始める。
憂鬱な日常から逃れるには考古学は気休めになった。
それを、将棋を指したり、マージャンをしたりする事とあまり変わらないと表現している。
H氏は、西部本社の代表だった。H氏は将棋が好きだった。たまたま居合わせた縁から、」将棋の相手をした。
その時のエピソードが印象的に書かれている。そのことが「紙の塵」の意味なのだろうか?
清張に「赤紙」が届く。
兵隊での体験を清張らしく述べている。
>...ところが、この兵隊生活は私に思わぬ事を発見させた。
>「ここにくれば、みんなが同じレベルだ」と言う通り、新平の平等が奇妙な生甲斐を私に持たせた。朝日新聞社では、
>どうもがいても、その差別的な待遇から抜けきれなかった。
>歯車のネジという譬えはあるが、私の場合そのネジにすら値しなかったのである。
最初の召集は教育召集は三ヶ月で解除になるが、その後三ヶ月で再召集。復員するまでに2年間かかる。
二度目の召集が突然やってきた。
清張のやった事は、「蔵書印」を造り、蔵書に押印する事だった。これを当時三歳だった長男が手伝った。
●朝鮮での風景
入隊すると、召集理由ががわかった。
ニューギニアの補充兵だった。三ヶ月前の教育召集で会った、中田と言うガラス屋の職人、前田という炭坑町の八百屋と同じだった。三人とも三十三,四歳、教育召集の時は若い連中が沢山いたが奇妙に感じた。
>「どちらも、在郷軍人会の教練にはあまり出ていなかったらしい」(ハンドウを回されたか?/後の作品のテーマになる。)
「ニューギニア」と、聞いただけで、兵長や上等兵の襟章を付けている古い召集兵ほど蒼い顔していた。
釜山への連絡船に乗せられる。
ニューギニアへは、東京、大阪から来る召集兵を京城(ソウル)で集合させ兵団を編成し現地に送り込む算段らしい。
教育召集の時清張達に辛く当たった衛生兵長がいた。彼は伍長になっていた。
当時の元気は無く、「今度はもう駄目たい。おまえたちも覚悟をしてあとから来いよ」と田中伍長は少し微笑った。
田中伍長の乗った輸送船は撃沈されニューギニアに届かなかった。そんな噂を聞いた、伍長が助かったとは思えない。
幸いな事に、ニューギニア行きは中止になった。輸送船が無くなっていた。
兵隊生活の丸二年間、清張は「私は何をしたであろうか」と自問する。
家族は妻の郷里の田舎に疎開していた。畑仕事で、百姓の手伝いらしい、父の手紙で知った。
清張の朝鮮での生活は衛生兵であったせいでもあり、比較的緊張感の欠ける体験が綴られている。
清張作品に結実する、『遠い接近』・『任務』、あるいは『絢爛たる流離』を読むと面白い。
●敗戦前後
敗戦の色が濃くなっても、朝鮮の地にはあまり影響は無かった。
玉音放送は朝鮮で聞く事になった。
>軍隊というところはそんなものだ。やくにたたないことが、さも有用げな仕事として通用する。
>戦争の過程でどれだけ大きな無用が有効そうに通用したか分からない。だが、これは軍隊だけではなく、官僚的な
>大きな組織には必ず存在していることである。
「走路」(「絢爛たる流離:第四話」が作品として結実している。
引き揚げ船は山口県の仙崎に着く。(私にとっては馴染み深い名前である)
仙崎に着けば、軍隊は解散かと思えばそうでもなかった。
兵隊達は、将校と一緒に民宿だった。准尉はまだ師団司令部宛に書類作りをしていた。
まさに滑稽な無用な作業なのである。兵隊達もここからは、列車に乗り帰京しても一向にかまわないのであるが
清張にはその勇気が無かった。相変わらず将校や下士官の飯炊きを続けていた。
兵隊の中では、早速郷里に電報を打つ者もいたが、それはしなかった。
清張は、これから始まるであろう一家6人の生活が不安だった。
一着の新しい軍服と、毛布と、軍靴とを詰めた袋を背負い、混雑する列車で九州に向かった。(1945年終戦)
●鵲
佐賀の神崎という駅に着いた。
どういうわけか、開放感に浸った。清張の両親は清張に頼らざるを得なかった。それは、必要以上に清張を束縛した。
駅に降り立った清張は、彼が決断すれば一人で行動できた。家族からも逃げ出す事が出来た。
父の過剰な愛情を呪うのであるが、それからも逃れる事が出来た。
そんな気持ちが、開放感をもたらした。それは、軍隊生活で経験したことでもあった。
清張独特の感情なのだろうか?
>脚絆の巻いた靴が私の身体を運んで行くのである。
>逃亡の空想は、田舎道を辿るにつれて少しずつ失われてきた。
彼を迎えてくれたのは、鵲の鳴き声だった。
>毛布で作った袋を背負い、その実家の百姓家の表に立つと、背の高い妻の母がびっくりして、
>「いつ帰んさったかんた?」
清張が佐賀の妻の実家へ帰る状況は、私の父が兵隊から帰ってきたときの、母に聞かされた話に共通するものがあった。
たった数日の佐賀での体験だが、
清張は言う。人間地獄の中に飛び込んだ思いがした。
新聞社に出た。まだ、兵隊から戻った者はいなかった。
>「今ごろ出て来てもしょうむないさかい、もう少し休んでんか」
先輩のTが言った。
佐賀に帰るより小倉で独りのうのうとしていたかった。
しかし、のうのうとする余裕は無かった。七人家族の生活がかかっていた。箒の仲買を始める切っ掛けを掴む(1946年)
●焚火と山の町
1946年(昭和21年)37歳。八人家族になっていた。
新聞社の給料では到底足りなかった。生活のため、箒の商売を始めた。
箒の仲買は、恰好のアルバイトになった。
日曜日を利用して小倉市内だけではなく、門司や八幡の小売店を訪ねた。
品不足の時代だったので、あまり苦労することなく注文は取れた。
夜汽車に乗って広島まで足を伸ばして商売をした。
原爆の落ちた広島の市街を荒物屋を訪ねて箒を売り歩いた。夜汽車で行き、夜汽車で帰るつもりだった。
商売は順調に進んだ、しかし忙しかった。注文が入れば佐賀まで行って箒を仕入れなければならない。
とうとう、大阪まで足を伸ばすことになった。
恐ろしく強行スケジュールになる。
午後六時頃汽車に乗る。翌朝七時頃大阪に着く。天王寺に行き、京都を回って夜汽車に乗る。
翌朝五時に広島に着く。
冬に向かって寒くなった時期のことである。
中見出しの「焚火と山の町」の焚火とは、広島駅前で未明にやっていた焚火。「当り賃」を取っていたらしい。
さらに足を伸ばして、大津まで行った。比叡山を越えたわけだ。
さすがに、商売敵も増えてくる。箒の製造も材料の不足で数が不足する。針金が必要だった。
「切符」(「絢爛たる流離:第八話」が作品として結実している。
●針金と竹
「針金と竹」は、もちろん箒の話である。
箒の商売はまだ順調だった。
前半は針金の話。
針金が手に入れば、箒も手に入る。それがなかなかうまくいかなかった。
「切符」(「絢爛たる流離:第八話」が作品として結実している。こちらを読んで戴ければ面白い。
後半は竹の話。
竹の産地は、大分県、熊本県、鹿児島県だった。北九州は竹が少ない。
竹細工と言えば、「豊後の竹細工」(大分県)で、大分県は有名だった。
豊後高田市にせっせと通ったのは、竹を佐賀に届けるためだけではなかった。別に楽しみがあった。
大分県と言えば、国東半島の磨崖仏。
箒の商売だけではなく、旅先の楽しみが清張を小まめに走り回らせた。
●泥砂
「冨貴大堂」を見に行った。
※富貴寺(ふきじ)は、大分県豊後高田市田染蕗(たしぶふき)にある天台宗の仏教寺院.
山号を蓮華山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基は仁聞と伝える。
富貴寺(ふきじ)の大堂:(大分県豊後高田市田染蕗)
正直なところ、これまでの清張の経歴では、この辺鄙な土地の遺構を訪ねるほどの興味を持っているとは考えられない。
「半生の記」を読んでも清張が興味を持って行動する範囲の広さに驚かされる。
その行動力の源泉が「貧困」だったのかも知れないが、凄まじさを覚える。
それは
>この旅の間、私はほとんど食事もしないで歩き回った事が多い。
商売の総決算を語っている。
>この「商売」の総決算はどうだったろうか。
>結局、貯金としては何も残らず、かえって不渡手形の分だけ損になった。
>しかし、あのインフレの進行中、七人の家族を抱えて無事にすんだのは幸いだった。
>憧れていた土地が見られたことは、その利益の中でも大きい。
商売を辞めざるを得なかった理由の一つは、会社が買出し休暇を認めなくなったからだった。
その結果、単調で退屈な勤め人の生活に逆戻りになった。
「箒の商売」を廃めてからのアルバイトは、印刷屋の版下書きと、懸賞金目当てのポスター書きだった。
そんなことをしながら食いつないでいた。
一皿の焼きそば。一杯の中華そば。一杯のぜんざいのエピソードは体験した者で無ければ分からないだろう。
砂を噛むような生活が続く。
将棋相手の沖原なる人物が登場するが、清張作品のモデルの一人として何処かに出ているだろう。
●絵の具
朝鮮戦争が起きる。
小倉の町は、その最前線とも言えた。
当時の状況は、「黒地の絵」にくわしい。
1949年(昭和24年)。清張が40歳頃までで「半生の記」は、終わっている。
私の読み落としかも知れないが、中見出しの「絵の具」の意味がハッキリしない。
●あとがき
1950年・1951年・1952年・1953年(清張略歴)
清張が40歳頃までで「半生の記」は、終わっている。が、連載の依頼は、小説家になる頃までだったようだ。
清張はそれを断った。
しかし、あとがきで補足して、作家生活に入るまでを簡単に描いている。
清張の東京での生活が始まり、「西郷札」が、直木賞候補になっていた。
1954年(昭和29年)45歳
7月、小倉から家族を呼び寄せて、東京都練馬区関町に転居。六畳1間と四畳半2間に8人家族。
1955年(昭和30年)46歳
12月19日、母・タキ78歳で死去。
翌年、朝日新聞社を退社している。
【半生の記】(完)
『半生の記』①
2022年07月21日 記 |
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