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●父・母 「骨壺の風景」 「三味線」 「波の塔」 「菊枕」 「鳥羽僧正」(【小説日本芸譚】第五話) 「葛飾北斎」(【小説日本芸譚】第九話)(北斎) 「火の記憶」 「壁の青草」 「父系の指」 「証言の森」 「記念に」 「天城越え」 ▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽ ●「父」だけだと、かなりの数に上った。「母」で、さらに絞り込むと、12作品になった。 単語としては、「父」は、父親、祖父、父親などで登場する場合が多い。「母」も同様であるが、実母、叔母などである。 「父母」として一対もあった。 作品としては、自叙伝的な作品の「骨壺の風景」・ 「父系の指」が当然のように上げることが出来る。 印象的な作品は、 「火の記憶」だろう。 ▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△ 2022年7月21日 |
題名 | 「父・母」 | 上段は登録検索キーワード |
書き出し約300文字 | ||
「骨壺の風景」 | 祖母・大満寺・遺骨・小倉・下関・壇ノ浦・餅屋・蒲鉾屋・米相場・旦過市場・禅宗・新しい位牌・自叙伝・多磨墓地・安来節 | |
両親の墓は、東京の多磨墓地にある。祖母の遺骨はその墓の下に入ってない。両親は東京に移ってきてから死んだが、祖母カネは昭和のはじめに小倉で老衰のため死亡した。大雪の日だった。八十を超していたのは確かだが、何歳かさだかでない。私の家には位牌もない。カネは父峯太郎の貧窮のさいに死んだ。墓はなく、骨壺が近所の寺に一時預けにされ、いまだにそのママになっている。寺の名は分からないが、家の近くだったから場所は良く憶えている。葬式にきた坊さんが棺桶の前で払子を振っていたので、禅宗には間違いない。暗い家の中でその払子の白い毛と、法衣の金襴が部分的に光っていたのを知っている。読経のあと立ち上がって棺桶の前に偈を叫んだ坊さんの大きな声が耳に残っている。私が十八,九ぐらいのときであった | ||
「三味線」 | 隆介は、息子の順治から結婚したい女がいると打ち明けられたとき、まだ少し早いなと思った。順治は二年前に大学を出て、今ある商事会社の社員になっている。隆介は、息子が二六,七になってから嫁をもらってやるつもりでいた。「相手はどういうところの人だ?」親子の間でも、近頃ではめったに話し合うことはない。それが、この話になると、順治のほうから進んで打ち明けた。母親に話す前にじかに父親に申し込むのは、やはり近ごろの若い者だと思った。「向こうのお父さんはF社の人事部長をしているよ」F社というのは窒素関係の会社で、かなり有名である。そこの人事部長なら、家庭としてはまず申分ないと思った。隆介は、変なところから嫁がこないですむのにまず安心した。娘は二十一だという。短期大学を卒業して、いまデパートで働いているといった。「デパートか」隆介が少しがっかりすると、息子は、その娘は売場ではなく、事務所で計算係をしているひとだといった。きっかけは、自分の知っている女がそのデパートにいて、その友だちだという。 | |
「波の塔」 | 最初の日は名古屋に泊まった。次の晩には、木曾の福島に泊まった。最後が上諏訪であった。諏訪では、窓からヒマラヤ杉越しに湖面の見えるホテルに泊まった。中央沿線を一度ゆっくりひとりで歩いてみたいというのが、田沢輪香子の希望だった。女子大を卒業して、すぐにもと思ったが、父も母も容易に賛成せず、また、卒業生同士の会合がつづいたりして実現しなかった。「ひとりで?」父は、はじめ聞いたとき渋い顔をした。「若い娘が。ひとりで行くのは困るな」父は、ある官庁の局長をしていた。夜がおそいので、朝早く相談するほかなかったが、それも役所からの車が迎えにきて、待たせているような忙しい時間のときが多かった。「お母様はどう言ってる。?」父は、母からとうに話を聞いているのに、そう言うのが癖だった。毎晩、外でおそくなるので、一応は家の中で母をたてていた。「お父さまさえ、よろしかったらって」輪香子が答えると、「そうか、考えとく」 | |
「菊枕」(ぬい女略歴) | 三岡圭助がぬいと一緒になったのは、明治四十二年、彼が二十二歳、ぬい二十歳の秋であった。結婚は双方の父親同士が東北の同県人で、懇意であったためである。ぬいは九州熊本で生まれたが、これは父親が軍人で家族と任地にあったのである。父親は聯隊長などをして各地を転転としたから、ぬいも赴任の先々で大ききなった。父親は現役をひき一家は東京に居を構えた。ぬいが東京お茶の水高等女学校を出たのは、そのためである。在学当時のことについては格別のことをきかない。ただ、作文が巧みであったという。その時、もう一人同級に作文のうまい娘がいた。二人はそのため互いに意識していたが、仲良くは出来なかった。その娘は、後年、名のある女流作家となった。ぬいの母親は士族の女で端麗な顔だちをもって郷里に知られていた。 | |
「鳥羽僧正」 (【小説日本芸譚】第五話) |
宇治大納言源隆国という者がいた。年をとってからは、夏は暑さを避けて、平等院の南の山際にある南泉坊という所にこもっていた。もとどりを結いわけて、おかしげなる姿で、むしろをいたにしいて涼み、大きなうちわで近侍に扇がせなどして、往来の者を呼びとめ、むかし物語をさせるのを常とした。おのれは、うちにそいふして、語るままを双紙に書きうつした。天竺のこと、震旦のこと、日本のことのさまざまな話を十五帖におさめた。世の人が、これを興じ見て、「宇治大納言物語」として伝えた。「今昔物語」は、このようにして隆国によって書かれたといわれる。後人が、大納言の物語にもたれるを拾いあつめ、その後の出来ごとをかきあつめたのが「宇治拾遺物語」となった。隆国は醍醐源氏の流れである。祖父高明は醍醐天皇の子で、源朝臣の姓をうけた。左大臣のとき故あって筑紫に配流されたが、翌年召しもどされた。公事典礼を述べた「西宮記」は高明の著である。父の俊賢は関白藤原道隆にその才能を認められてからは摂関家に追従して出世した。当の隆国は叔母が関白頼道の殊遇をうけた。頼道の女の立皇后に際しては皇后宮大夫となり、のち権大納言にすすむ。後一条から白川まで五代の天皇に歴任した。 | |
「葛飾北斎」 (【小説日本芸譚】第九話)(北斎) |
葛飾北斎は、宝暦十年本所割下水に生まれた。父は徳川家御用達の鏡師で中島伊勢といい、母は吉良上野介の臣小林平八郎の孫女であった。元禄十五年、赤穂浪士復讐の夜、平八郎が防戦して斃たれたとき八歳の娘は、成長して中島伊勢の妻になって北斎を生んだという。書肆柴文の話によると、北斎はこれを自慢にしてよく人に語ったそうである。だから北斎の姓は中島だが、彼が生まれた本所はもと下総国葛飾郡に属していたので葛飾領の北斎、つまり百姓の北斎と自称した。卑下したように見えるが、彼の本心は逆で、彼の倣慢な自負がそこに潜んでいる。幼名は時太郎、後に鉄蔵といったが、八右衛門、仁三郎ともいった。画名を変えることも度々で、勝川春朗、勝春朗、叢春朗、群馬亭、魚仏、菱川宗理、辰斎、辰正、雷辰、雷斗、戴斗、北斎、錦袋舎、画狂人、卍翁、卍老人などで、ほかに不染居、九九蜃、白山人、などの号がある。画名は変える度に門人に譲り、その都度名目料を取った。そのため門人の間に評判が悪かった。住居を変えることも頻りで、生涯の転居は九十三回に及び、甚だしきは一日に三ヵ所も移転した。 | |
「火の記憶」 |
失踪.兄.結婚.母.父.別な男.ボタ山.三人.市長.手紙.張りみ.N市.B市.九州.胃癌.喪中ハガキ.刑事 | |
頼子が高村泰雄との交際から結婚にすすむ時、兄から一寸故障があった。兄の貞一は泰雄に二,三回会って彼の人物を知っている。貞一の苦情というのは泰雄の人柄でなく、泰雄の戸籍謄本を見てからのことだった。その戸籍面には、母死亡、同胞のないのはいいとして、その父が失踪宣告を記されて名前が除籍されていた。「これはどうしたのだ、頼子は高村君からこのことで何か聞いたかい?」滅多にないことだから、貞一が気にかけたのであろう。頼子の家では父が亡くなってからは万事この兄が中心になっている。三十五歳、ある出版社に勤め、既に子供がいる。「ええ、何かご商売に失敗なすって、家出されたまま、消息がないと仰言っていましたわ」それはその通りに頼子は聞いていた。が、泰雄がそれを云ったときの言葉の調子は何か苦渋なものが隠されているように感じられた。それで悪いような気がして、そのとき、頼子は深くは訊かなかった。 | ||
「壁の青草」 | 「前略元気のことと思います。こちらもいろいろと仕事に追われて、依頼の品おくるつもりでしたが、のびのびとなったことをおわびいたします。ノート一冊、鉛筆二本、葉書五枚、少しだけど、また近々送りますゆえ、きょうはこれだけでがまんして下さい。お金を少しでも入れようかと思ったが、いいか悪いかわからないのでやめました。さしつかえなければ次回に送ります。父もいっしょうけんめい頑張っております。おまえもからだを大切にまじめに服務してください。母からもくれぐれもよろしくと云っています。 父より」 ×月×日 補導部長がじきじきに、こんどの名簿は校正まちがいをするな、といってきた。だいぶんたいせつな仕事のようである。ゆうべ、健ちゃんがぼくのくびにつけたキスマークをほとんどの人間に見られてしまった。みんなにひやかされたが、そのうち、健ちゃんのくびにもそれがついていることがわかると、もうひやかしではなく、うらやましい態度に変わった健ちゃんはどうおもうかしらないが、ぼくはキスマークをみられたということをさして恥とはおもっていない。 | |
「父系の指」 | 不運・伯耆郡矢戸村・里子・養子・出奔・印賀鉄・砂鉄・安来節・淀江町・和傘・車夫・女工・S市(下関市)・餅屋・学生と受験・田園調布・長い指 | |
私の父は伯耆の山村に生まれた。中国山脈の脊梁に近い山奥である。生まれた家はかなり裕福な地主でしかも長男であった。それが七ヵ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところに里子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。里子とはいったものの、半分貰い子の約束ではなかったかと思う。そこに何か事情がありげであるが、父を産んだ実母が一時婚家を去ったという父の洩らしたある時の話で、不確かな想像をめぐらせるだけである。父の一生の伴侶として正確に肩をならべて離れなかった”不運”は、はやくも生後七ヵ月にして父の傍に大股でよりそってきたようである。父が里子に出されるという運命がなかったら、その地方ではともかく指折りの地主のあととりとして、自分の生涯を苦しめた貧乏とは出会わずにすんだであろう。事実、父のあとからうまれた弟は、その財産をうけついで、あとで書くような境遇をつくった。 | ||
「証言の森」 | その犯罪の発覚は、被害者の夫青座村次(当三十一歳)が附近の巡査派出所に昭和十三年五月二十日午後六時半ごろ出頭して、勤め先の神田××番地東邦綿糸株式会社より帰宅したところ、妻和枝(当二十七歳)が何者かに絞殺されている、と届け出たことからはじまった。派出所の巡査はすぐこのことを本庁に電話で報告すると同時に届人の青座村次の案内で同家に行った。そこは中野区N町××番地、N駅より西南一キロで、青座宅は二十五、六戸ばかりの住宅街の一軒であった。すでに同家の門前には、妻和枝の実父石田重太郎と実母石田千鶴が村次の報せを受けて到着していた。青座村次は帰宅して妻和枝の死体を発見し、妻の両親に電話で報せたあと、巡査派出所に届出たものである。所轄署より臨場した警部補大宮一民作成の検証調書によると、その模様がつぎのように記載されている。 | |
「記念に」 (【隠花の飾り】第八話) |
寺内良二は福井滝子のことをそれとなく両親へほのめかした。彼女はある鉄鋼会社の総務部に七年間つとめている。郷里は北陸で、両親は健在である。ただ、年齢が彼より四つ年上である。そこまではまだよかったが、彼女には離婚歴があって、その過去がひっかかって良二は両親と兄に正面きって彼女との結婚希望が言い出せなかった。良二の父は六十八歳で、会社の役員をしている。彼のぼんやりとした話を聞いただけでも不服な顔をした。母親ははじめから不安を見せた。数日後、良二は兄の家に呼ばれた。兄は大学の助教授だった。飯を食いにこいということだったが、ビールを飲みながら訊かれた。「おまえはその女とどの程度交渉があるのか?」十歳年上の兄は小さいときから良二に君臨していた。両親は自分らの口から言えないので、兄に事情の究明を頼んだのである。 | |
「天城越え」 |
百科事典・星座・蛇・脱皮殻・心臓麻痺・ハンスト・学園闘争・開業医・学園誌・しおり・東京世田谷 | |
私が、はじめて天城を越えたのは三十数年昔になる。「私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出かけて四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登ってきたのだった」というのは川端康成の名作『伊豆の踊り子』の一節だが、これは大正十五年に書かれたそうで、ちょうど、このころ私も天城をこえた。違うのは、私が高等学校の学生ではなく、十六歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出たのであった。そして朴歯の高下駄ではなくて、裸足であった。なぜ、裸足で歩いたか、というのはあとで説明する。むろん、袴はつけていないは、私も紺飛白を着ていた。私の家は下田の鍛冶屋であった。両親と兄弟六人で、私は三男だった。長男は鍛冶屋を嫌って静岡の印刷屋の見習工をしていた。一家七人、食うのには困らなかったが、父母とも酒飲みなので、生活はそれほど楽ではなかった。 |