松本清張_日本の黒い霧 第八話 帝銀事件の謎(改題)

(原題=画家と毒薬と硝煙)

〔(株)文藝春秋=日本の黒い霧(全12話)(1974/12/30):【日本の黒い霧:第八話(帝銀事件の謎)

特別_002

題名 日本の黒い霧 第八話 帝銀事件の謎
読み ニホンノクロイキリ ダイ08ワ テイギンジケン
原題/改題/副題/備考 ●シリーズ名=日本の黒い霧
(原題=画家と毒薬と硝煙)
●全12話=全集(12話)
 1.下山総裁謀殺論(
下山国鉄総裁謀殺論
 2.運命の「もく星」号(
「もく星」号遭難事件
 3.謀略疑獄−−その氷山の一角(
二大疑獄事件
 4.北の疑惑−−白鳥事件(
白鳥事件
 5.諜報列島−−亡命ソ連人の謎(
ラストヴォロフ事件
 6.
革命を売る男・伊藤律
 7.
征服者とダイヤモンド
 8.画家と毒薬と硝煙帝銀事件の謎
 9.白公館の秘密(鹿地亘事件
10.
推理・松川事件
11.黒の追放と赤の烙印(
追放とレッド・パージ
12.謀略の遠近図(
謀略朝鮮戦争
なぜ「日本の黒い霧」を書いたか
本の題名 松本清張全集 30 日本の黒い霧【蔵書No0118】
出版社 (株)文藝春秋
本のサイズ A5(普通) 
初版&購入版.年月日 1972/02/20●初版
価格 880
発表雑誌/発表場所 「文藝春秋」
作品発表 年月日 1960年(昭和35年)8月号
コードNo 19600800-00000000
書き出し 帝銀事件の犯人は、最高裁の判決によって平沢貞通に決定した。もはや今日では、いかなる法律手続きによっても彼の無罪を証明することは不可能である。云い換えれば、法務大臣の捺印があれば、いつでも彼は絞首刑台に上がる運命にある。(もっとも再審請求が弁護人側から出されているが、必ずしも刑の執行を拘束しない)帝銀事件は、これで落着した。少なくとも、平沢貞通を犯人にすることによって世紀の残虐事件は終止符を打ったのである。しかし、弁護人側からは、最高裁の判決が下ってからも、たびたび再審要求などが出されて、儚い抵抗の努力がなされた。だが、そのいずれも悉く却下されている。今日では、どのような方法をもってしても、平沢貞通を帝銀事件犯人から取り消すことは出来ない。私は昨年(昭和三十四年)『文芸春秋』に「小説帝銀事件」を書いた。かねてから平沢貞通犯人説に多少の疑問を抱いていた私は、この小説の中で、出来るだけ事実に即して叙述し、その疑問とするところをテーマとした。
あらすじ感想  参考文献

    


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<帝銀事件> 1948年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行支店に男が現れ「近くで集団赤痢が発生した。進駐軍が消毒する前に予防薬を飲んでほしい」と行員ら16人に毒物を飲ませ12人を殺害。男は現金を奪って逃走した。
 同年8月、平沢画伯が逮捕されたが、公判で無罪を主張。死刑確定後も再審請求を重ね、87年に95歳で亡くなった。
2015年には遺族が第20次再審請求を申し立てている。
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『小説 帝銀事件』に興味を持って、上記(画像)の本を参考にしながら映像も観てみました。
▲映画は、1964年公開、熊井啓監督の「帝銀事件 死刑囚」
出演:信欣三、鈴木瑞穂、北林谷栄、内藤武敏、佐野浅夫
▲テレビドラマは、1980年/監督:森崎東/脚本:新藤兼人「帝銀事件 大量殺人 獄中三十二年の死刑囚」
出演:田中邦衛(古志田警部補)、仲谷昇(平沢貞通)、橋本功(稲佐検事)、中谷一郎(明石警部補)、木村理恵(田村政子)

基本的には、平沢冤罪説を主流に書かれ、作られた作品ですからそれに影響されてと言えるかも知れません。
平沢犯人説の書籍は特に存在していないようですが、検察調書等、裁判所に提出された膨大な資料があるのでしょうが、
それを一々調べるわけにもいかず。片手落ちかも知れません。
弁護側との食い違いで、検察側の主張を知ることが出来ると思います。

●平沢犯人説としては、担当刑事で名刺班の居木井が書いた記録
居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録」上・中・下(1955年):それぞれ、長野県警察本部警務部教養課発行の雑誌『旭の友』9(4)(105) 、同9(5)(106) 、同9(6)(107)に掲載。平沢を逮捕した通称「名刺班」の主任刑事による詳細な捜査手記。平沢には以前から何度も放火詐欺疑惑があること、平沢の身内や知人は事件直後から平沢が犯人と気づいていたこと、平沢は警視庁での取り調べで実はいったん自白していたこと、平沢逮捕後に自分も妻も世間からバッシングを受け自殺まで考えたこと、平沢がアリバイ工作をしたメモ(証拠品)の写真、など立ち入った内容まで詳細に述べる...

表面上のことかも知れませんが、関係者の数奇な運命を驚きを持って知ることになりました。
今の世の中でも言えるのでしょうが、列挙してみます。
犯人とされた、平沢貞通の家族の運命(加害者の家族)
マスコミの無責任と一般大衆の未成熟な言動
事件の生存者のその後。(最後まで平沢を犯人と断定できないと主張した銀行員の女)
名刺の当人(松井蔚)の経歴。
コルサコフ症候群の症状(そのような病気の存在と事件の関わり)
731部隊と帝銀事件と陸軍登戸研究所 70年前に起きた毒殺事件と日本陸軍との関わり
平沢貞通の養子になった平沢武彦と森川哲朗。
     平沢武彦は森川哲朗の長男だった。平沢を救う会を立ち上げ、再審を何度も試みた父哲朗の
     志を引き継ぎ平沢の養子になることで再審の当事者になった。晩年は精神を病み自殺を数度繰り返し、
     最後には孤独死をしている。
     平沢の家族(遺族)とは、疎遠いなり、協力関係は無かった。武彦の死後、平沢貞通の再審請求は
     遺族が行っている。
帝銀事件の生き残りで、銀行員のM(女性、当時23歳/村田正子)
     村田正子は後に、731部隊関係者真犯人説を追い続けた読売新聞の記者竹内理一と結婚する。

『小説 帝銀事件』は、1959年(昭和34年)5月号〜7月号「文藝春秋社」に連載された。
『帝銀事件の謎』は、1960年(昭和35年)8月号「文藝春秋社」に連載された。
先に小説として書かれ、書き込めなかった疑問を『帝銀事件の謎』に書いたようだ。
連載が終わった途端に『帝銀事件の謎』を書いているのだ。この経緯を私は知らなかったし、むしろ順番が逆だと思っていた。

●以下は、私なりの疑問です。
@三菱銀行中井支店事件・安田銀行荏原支店事件・帝銀事件椎名町支店・安田銀行板橋支店(小切手の換金)の全てに
  平沢貞通のアリバイが無かったのか?
A犯人は現金十七万円と一万円の小切手を取り、証拠も指紋も残さず立ち去ったことになっていますが
  現金はそれだけだったのでしょうか? 目に付いた現金だけを持ち出したにしては、
  「金が必要で」実行した事件にしてはお粗末な成果しか得ていません。
B帝銀事件における、松井蔚名刺の存在ですが、「山下二郎」の偽名刺を作りながら、帝銀事件で使用しなかったのか?
  松井蔚名刺は、安田銀行・帝銀

唯一のアリバイ証明者
実は事件当日の事件発生時刻に平沢氏と会っていた人物がいるのです。それは平沢氏の二女と、その二女と付き合っていた
エリー軍曹という進駐軍の軍人でした。二女は家族なので証人にはなれません。
しかしエリー軍曹は「全くの第三者」なので証人になることができたのです。
もしエリー軍曹が法廷で「その日のその時間、私は平沢貞通氏と彼の東京の家で会っていた」と証言すれば、平沢氏のアリバイは証明されて断罪されることはなかったでしょう。
しかしエリー軍曹は突然、帰国を命じられます。そして帰国してからのエリー軍曹の行方はぷっつりと途絶えてしまい、現在でも行方不明なのです。もう既に生きてはいないでしょう。こうして平沢貞通氏に有利な証拠は消し去られていったのです。
アリバイについてどうしても気になることがあります。
松井蔚氏もはじめは、容疑者の一人とされたようですが、アリバイが有り、すぐに容疑者の対象から外されたようです。
捜査の手法としては、平沢貞通を犯人として目星を付けたなら、逆に彼が犯人でない可能性を徹底的に調べる事が必要ではなかったかと思います。平沢は、家族等関係者の証言ですがアリバイを主張しています。エリー軍曹に確認せず「死刑」の証拠として採用しないとは片手落ちどころか両手落ちの気がします。


法務大臣のデスクの引き出しには死刑確定判決の出た死刑囚に対する死刑執行命令書が入っています。
その書類に署名すれば死刑が執行されるのですが、歴代の法務大臣は誰一人として平沢貞通氏の死刑執行命令書に
サインをしようとはしませんでした。
それは何故でしょうか?密かな申し送りでもされていたのでしょうか?それとも世に溢れる「平沢貞通冤罪説」を
知っており、とてもサインする気にはなれなかったからでしょうか?

昭和62年5月10日午前8時45分、平沢貞通氏は肺炎で亡くなりました。昭和23年8月21日に逮捕されてから、実に39年3か月という長期の収監でした。そして昭和30年の死刑判決確定後は、ずっと「いつ死刑が執行されるのか」という恐怖におびえながらの32年間でした。これは「死刑よりも残酷な刑」と言えるのはないでしょうか。


●平沢に不利な状況証拠
@日本堂詐欺事件
   日本堂事件とは、帝銀事件の前年に発生した詐欺未遂事件で、帝銀事件の平沢定通死刑囚が
   関わったとされている事件である。
A松井蔚の名刺
   名刺は財布と一緒に掏られたとする平沢の証言
B平沢の人相
   写真が似ている。(生存者の証言などによって、否定的状況証拠とも言える)
C事件後の入金

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ここまでは、清張の「帝銀事件の謎」には関係なく書いてきました。

清張は、「帝銀事件の謎」を書いた動機として
>私がこれから書くことは、前回の拙稿に尽くされなかったことの疑問に新しく視点を置きたいと思う。
>つまり、警視庁の捜査主力は、なぜ途中で、傍流だった居木井警部補の名刺班に旋回しなければならなかったか。
>その突き当たった壁は何か。そして、壁の正体とは何を意味するのか。
>今度はそれについてそれについてふれてみたいと思うのだ。

と記述している。
全部で22節というか章に分かれているが、おそらく清張の区分だろう。
1.は、「はじめに」的な書き出しで、前記の文章が記述されている。
2.は、判決が出され、刑が確定したことの権威に対する所感と、事件当時の状況でです。
それは、歴史的制約のある状況であったと言うことです。
昭和23年1月26日の事件。この年の秋、刑事訴訟法は旧法から新法に変わった。「帝銀事件」は旧法で裁かれたのです。
旧法は「自白」が証拠と見なされる。「自白は証拠の女王(王様)である」と言われていたのです。
新法は、物的証拠のない、本人の不利になる自白は証拠として採用されない。とされているのです。
殺人事件の最大の証拠は、「凶器」です。凶器で或る毒薬が特定されていないのが帝銀事件なのです。
物的証拠の無さ、その曖昧さ、薄弱さを清張は指摘しています。
「松井蔚」の名刺、強奪した小切手の裏書筆蹟、アリバイの不成立、事件後被告に手に入ったとされる金の出所、面通しの人相など。
3.は、前項の疑問を少し解説しながら、新しい視点で再考することを宣言しながら、警視庁の捜査が途中で傍流でだった
居木井警部補の名刺班の捜査が反転して、平沢貞通逮捕に至ったかを書くと宣言している。
それは、取りも直さず、捜査の主流であった毒物の調査から軍関係者を捜査していた部隊が捜査の壁にぶち当たったからと
推測し、壁の正体を突き止める決意でもある。

4.は、帝銀事件の経過を書き記している。ここで、GHQの消毒班でホートク中将名が出てくる。
帝銀事件の生き残りで、支店長代理だった吉田武次郎の証言の中でホートクの出てきたのである。吉田は直接平沢と会って
ホートクの名を聞いたと証言しているが、平沢が出した「松井蔚」の名刺については名前を覚えていないと言っている。
ただ、肩書きなどは覚えていたようだ。
犯人は年齢四十五,六歳。長崎三丁目で集団赤痢がが発生、消毒班が来る前に予防薬を飲むように指示され
毒薬を飲むことになった。
ホートクの名は、ホーネット?コーネットと訂正されているが、後に実在の人物とハッキリする。
5.は、生き残りの銀行員達の証言である。
犯人の人物像を口々に語るが、鼻筋の通った好男子。この点は概ね一致していた。
そんな中で、吉田支店長代理は犯人に左のこめかみから頬にかけて茶色いシミがあった。
オーバーは着ていたか手に持っていたかはハッキリせず、背広の腕に腕章を捲いていた。
犯人が長靴履いていたことも支店長代理だけの証言である。
犯人にスリッパを渡し事務所に迎え入れた阿久沢行員(女)も犯人の靴を覚えていないと言った。
それは田中行員(女)も同じだった。
吉田支店長代理の証言がより具体的な気がするが、彼が直接、面と向かって対応しているので理解出来る気もする。
毒薬の、色・味・臭いについての調べで、生き残った四人の話は微妙に違っていた。
生き残った四人とは、吉田武次郎支店長代理・阿久沢行員(女)・田中行員(男20歳)・村田正子(女22歳)
ここで、予防薬と称して飲まされた毒薬についての証言が書かれている。
毒薬を飲まされた茶碗が16個、犯人の分を含めれば17個の筈だが16個しか無かった。犯人が持ち去ったことも考えられる。
毒薬は第一薬として最初の飲まされたものらしく、刺激の強い薬だった。
第二薬は殆ど水らしく、毒物らしいものは発見されなかった。
毒薬は、胃の内容物など東大理学部科学研究室で分析がなされた。
結果は、青酸カリに類するもの、第二薬は水らしいと言う結論で、毒薬は特定できなかった。
清張はこの経緯を詳しく書いている。最大の疑問と感じているようだ。
6.は、帝銀事件に先だって起こった類似の事件の記述である。
一つは三菱銀行中井支店、山口二郎の名刺が使われたが、後の帝銀事件と同様の手口だった。
銀行の支店長の対応が用心深かったため未遂に終わる。
もう一つは、安田銀行荏原支店での犯行未遂である。帝銀事件同様で薬を飲ますまで成功している。
しかし、実害は出なくて、消毒班が来そうだとの口実で通用口から消えた。ここでは、「松井蔚」の名刺が使われ、
その名刺は保存されていた。
二つの未遂事件は帝銀事件と同一犯とされた。清張もそれには異議を挟んでいない。
7.は、帝銀事件後の盗まれた小切手の換金事件です。安田銀行板橋支店
換金時の裏書きの住所は板橋三の三六六一と筆蹟が残されていた。裏書人は後藤豊治、振出人は森越治
住所はデタラメだった。
帝銀事件の帝銀椎名町支店を含めれば、四つの事件は単独犯で、同一犯人と考えられる。
8.は、捜査当局が、全国の警察署に当てた「帝銀事件捜査要項」を記述している。
詳細な説明は長くなるので省略するが、興味深い内容である。清張は「軍関係」への捜査が進んでいいることを直感する。
9.は、刑事部長の通達である(刑捜一第一五四号の九。昭和23年3月22日)
世間は、捜査の行き詰まりを言うが、資料は潤沢で悲観すべき状況には無いと断じていた。
そこには、軍関係へ捜査を進める方針が明確に示されていた。
しかし、平沢に対して逮捕状が出た。8月10日、平沢は小樽で逮捕された。事件が発生して二百十日目だった。
10.は、捜査方針の転換に対する疑問で、事件の犯人像と最もかけ離れていると言ってよい平沢の逮捕に対する疑問を呈している。
毒物に対する知識もそうであるが、アリバイや名刺や小切手の裏書きなど証拠価値としても希薄なものばかりである。
そして共犯者。平沢の単独犯と決めつけているが、それは、目撃者がいなかったと言うだけである。
11.は、凶器の毒薬と、毒薬を飲ませるとき自演した湯飲みと指紋、ピペットである。
ピペットは万延筆のスポイトに化け、毒薬は青酸カリになってしまったのである。
毒薬については、薬液に工作を加えて、自分には無害の液を飲んで見せたと結論づけていた。
12.は、11.の結論から導き出される、毒薬に詳しい犯人像とかけ離れる
平沢に実行をさせる矛盾抱え込んでしまうのである。清張は、ここまでの捜査本部の捜査方針(捜査要綱)を激賞している。
>繰り返して云うが、この捜査要綱は、極めて純粋に、帝銀事件犯人の人間像を浮き彫りにした見事なものである。
それが、方向転換し、平沢逮捕に向かった疑問を
>警視庁は、明らかに、捜査の進行中、一つの壁にぶつかったにちがいない。 と結んでいる。

13.は、犯行に使われた毒薬が「青酸カリ」とされたことに対する疑問である。
捜査当局も単純な「青酸カリ」とは思っていなかったようだ。「青酸化合物」の正体も突き詰められようとしていた。
毒薬の正体は、軍用語で「ニトリール」。登戸の技術研究所や満州の731部隊などが、視野に入っていたのである。
14.は、平沢逮捕、東京への護送と日本堂詐欺事件。高木検事も藤田刑事部長も平沢を「黒」とする確信は無かった。
護送方法に人権批判が起こり、検察側は、一応調べたら釈放すると言っていた位であった。
しかし、そこに降って湧いた平沢の詐欺事件。マスコミも世論も詐欺を働くような人間は、あの凶悪な毒殺事件も
やりかねないと言う状況を一気に作り上げた。当然、捜査当局も平沢に注目するようになるのであった。
日本堂詐欺事件は、単なる小切手の詐欺事件だった、「詐欺事件を働く者には殺人は出来ない、という信念は、
誰より捜査に携わる熟練の捜査員たちが知っている筈だ。詐欺と殺人とは根本的に犯人の人格が違うのである

の記述には全面的に賛同できないが、平沢に対する状況設定のすり替えが起こったとは言える。
毒物に対する認識も変化してくる。高木検事もはじめは、「青酸化合物」としていたが、いつの間にか「青酸カリ」に
変化している。当時、比較的入手しやすい「青酸カリ」は、捜査当局にとって都合の良い毒薬なのだ。
清張は、この毒薬について決定的な問題と認識している。「青酸カリ」なら平沢の犯行の可能性を認めながら、
それが特殊な、「青酸化合物」なら平沢は断じて犯人ではないと言い切っている。
ならば、真犯人は誰なのか。
15.は、「青酸化合物」を使用した犯行の推測である。
毒物そのものの出所と毒物を手馴れた様子で犯行に使用した人物像を推測する。
ここで時系列に事件を記述している。これは私も最も知りたい事の一つです。
1947年(昭和22年)10月14日(火)後3〜4時:安田銀行荏原支店●未遂
1948年(昭和23年) 1月17日(土)前10時:山口名刺の注文
1948年(昭和23年) 1月18日(日)午前中:山口名刺の受取
1948年(昭和23年) 1月19日(月)後3〜4時:三菱銀行中井支店●未遂
1948年(昭和23年) 1月26日(月)後3〜4時:帝国銀行椎名町支店●既遂
1948年(昭和23年) 1月27日(火)後3時30分:安田銀行銀行板橋支店●小切手の換金
同一犯とされる事件で、曜日と時刻に注目している。捜査当局は、銀行の繁忙時間帯として、月曜日の
閉店直後を狙ったとしている。
清張は、勤務の都合上、月曜日と火曜日の午後しか時間が取れなかったのではと推測している。
その推測は、土日が休みで、月・火が午後休み。水・木・金は一日中拘束される勤務状況を想定した。
進駐軍関係者を想定した。
私は、上記の出来事の全てに平沢貞通は、アリバイが無かったのか気になる。
16.は、実行された犯行の計画性である。
小切手の換金にしても午後3時過ぎに向かっている。強奪された小切手が手配されていたなら、忽ち御用で或る。
朝一番に換金したくなるのが犯人の心理であろう。午後にしか行けない理由があるはずだとする清張の説に同意したくなる。
犯行の計画性についてはイロイロ言われてる。一見細密な計画性を覗えさせるが、杜撰な犯行とも思われる。
作家の坂口安吾は、「智能犯というほどのものではないようだ」と述べている。
私は、坂口が「この犯人から特別つよく感じさせられるのはむしろ戦争の匂いである。」
と述べている部分については、同意する。清張は、「ジープ」の介在を注目している。
17.は、「ジープ」に関連して登場する進駐軍中尉と平沢のアリバイを証明できる軍人の帰国
ジープは、当時の都の衛生課員と進駐軍軍人が、和田小太郎方での発疹チフス騒動に来ていて目撃されている。
進駐軍の軍人は、アーレンという軍曹である事が確認されている。
帝銀事件で、犯人が口にした、パーカーとコーネットの両中尉の存在も確認されながら帰国、転属になっている。
平沢の二女と交際があり、アリバイの証人になれるはずのエリーと言う軍人も転属になっている。
これらの事実は、帝銀事件と進駐軍の関わりを示すものにほかならない。
捜査当局の捜査がGHQ周辺に及び始めたが、それはGHQに直接関わると言うことではなく、周辺への捜査が、
満州の731部隊(石井四郎)に関連する資料の完全秘匿が目的のGHQの利益と反することになったためであろう。
GHQは、帝銀事件が早期に解決することを望んでいた。あえて言えば犯人は誰でも良かったのだ。
詐欺事件を起こしていた平沢は、平沢黒説の印象に押しつぶされたのだった。清張は再度記述している。
詐欺と殺人は全く異なった犯罪質なのである。
18.は、捜査が完了した打ち上げ式に出席したGHQの公衆安全課主任警察行政官H・Sイートンが捜査当局の活動を
褒め称えた事実を書いている。
さらに、登戸の第九技術研究所元課員伴繁雄の証言が取り上げられている。
弁護団が要求した伴繁雄の証人として出廷は実現しなかった。
後に法廷に立った伴繁雄は前言を翻し毒物は「青酸カリ」と断言する。
伴繁雄については、「平沢の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビに出演し、
真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。」事実もある。
19.は、731部隊(石井四郎)の活動成果。
成果と呼べるかどうかは問題であるが、公的には誰もすることが出来ない活動をしていたことによる結果は間違いなく
重要なものだった。その資料は、戦争の勝戦国である米国、当時のソ連も喉から手が出るほど手に入れたいものであった。
本来なら戦犯として裁かれるべき者達が戦後を闊歩しそれなりの生活を保障されながら生き延びていたのである。
石井四郎は、GHQの保護下で戦犯になることも無く生きていた。
ソ連の裁判で供述した首脳で高橋軍医中将は細菌戦を準備していた状況を告白している。
20.は、アメリカが、731部隊や登戸の技研から戦犯の罪と引き換えに得た情報を朝鮮戦争に生かしたとされている。
実はアメリカでは早くから細菌戦の研究は進められていて、かなり進んでいたらしい。
ただ、人体実験など具体的な研究は当時の日本の方が先を行っていたのではないだろうか。
どの国もやっていたとして免罪される行為ではない。
21.は、日本の旧軍部から米国へ技術参加したことであると締めくくり、
それが、平沢への懐疑だけではない恐ろしさである帝銀事件の教えるものであるとしている。
22.は、最終章です。
帝銀事件の捜査の進展は、単に平沢が不幸な事件に巻き込まれたかを推測する犯人捜しには
留まらなかったということである。
のっぴきならない状況、影響が国際的に露呈しそうな状況になっていた。そんな背景を持っていたのである。


>帝銀事件は、われわれに二つの重要な示唆を与えた。一つは、われわれの個人生活が、いつ、どんな機会に「犯人」に
>仕立て上げられるが知れないという条件の中に棲息している不安であり、一つは、この事件に使われた未だに
>正体不明その毒物が、今度の新安保による危惧の中にも生きているということである。


清張の結論は、上記の3行で締めくくられています。
今でも色あせない「疑問」に対する回答でしょう。

私の結論は、死刑は新たな殺人事件です。

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帝銀事件の真犯人を捜すことは新たな冤罪を生むことになると、平沢武彦氏が述べていたように
当てずっぽうの推理はしないことにするが、平沢には、決定的にアリバイを証明を含めて冤罪を主張できる場面があったように思う。
それをしなかった平沢に一抹の疑問を感じる。山田義夫弁護士が主任弁護人を辞した理由に納得してしまう。
事件後の入金に対する説明は何故出来なかったのだろうか?
春画を書いていたことは、後にハッキリしていたようなのでなおさら疑問である。
判決は、平沢単独説なのだろうか?

常人には(私が常人であるかは別にして)考えられない、平沢貞通の言動は、
単純に「コルサコフ症候群」の症状として片付けて良いものかも疑問の残るところですが、
結果として12人を毒殺することになる犯罪を実行するとは思えないのが実感です。
帝銀事件には犯人が必要だったのです。無理筋でも犯人らしき人物がいれば「彼」を犯人にする必要が生じたのです。
必要を生じさせたのは、時の権力もそうでしょうが、当時のマスコミでもあり、未成熟な庶民でもあったのだと私は思います。
そして、庶民は成熟したのでしょうか? 今も変わらない舞台は役者は違っても繰り返されているのではないでしょうか?
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■森川哲朗と平沢武彦(森川武彦)/「冤罪」が狂わせた家族の人生
作家の森川哲郎が「平沢貞通氏を救う会」を結成したのは1962年7月のことだ。
森川は署名集めなど精力的に平沢の支援を始める。その森川の長男が後に平沢の養子になる武彦さんだ。
武彦さんは1959年生まれというから「平沢貞通氏を救う会」が結成された時は3歳ということになる。
そして彼は父親の精力的な活動を目の当たりにしながら育っていく。
武彦氏は22歳で平沢の養子になる。
それは、平沢の家族が離散して、平沢の再審請求をする者が居なくなったからでもあった。

1987年5月10日、平沢貞通死刑囚は獄中で静かに95年の生涯を閉じた。
平沢を支え続けた武彦さんに訪れた「平沢貞通の死」は、彼にとってはショックであったろう。
彼は再審請求人として平沢の死後も帝銀事件の再審請求を続けていたが、平沢の死で彼の何かが壊れてしまったようでもあった。

 「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げた武彦さんの実父の森川哲郎氏は1982年に病気で亡くなっている。
後を継いだ形の武彦さんは孤独感も持ちながら養父である平沢との絆を深めていったのだろう。
まだ20代の青年にとって、それはあまりにも重い選択だった。
その後、武彦さんは体と心の病を患い、自殺未遂もあったという。
そして2013年10月、自宅アパートでひっそりと亡くなっているのが発見された。

なお、請求人死亡の為、19次再審請求審理は終了したが、2015年になって平沢元死刑囚の遺族によって第20次再審請求が
申し立てられた。

■予想も出来ない関係者の運命
塩崎雪生と天地真理・酒井政利と山口百恵と名前を列挙すると何が何だか分からなくなりますが、
「帝銀事件」をネットで調べると一つの線でつながるのです。
勿論直線的なつながりではありませんが、「帝銀事件」の裾野は恐ろしほど広大なものに広がります。
この項を書きながら(2023年6月6日)、新聞に眼を通すと「大崎事件」の再審請求の結果が報道されていました。
100歳になろうとする死刑囚の再審は認められませんでした。
この事件は詳しく知りませんが、状況証拠と共犯者とされる証言が
採用されています。(共犯者には知的障害があったとされています)
今の時代でも旧態依然として裁判が行われているかと思うと恐怖を感じますし、清張が危惧した、
帝銀事件は、われわれに二つの重要な示唆を与えた。
一つは、われわれの個人生活が、いつ、どんな機会に「犯人」に仕立て上げられるが知れないという
条件の中に棲息している不安であり、.....
を再認識させられる。

磯部常治は、帝銀事件で平沢貞通の弁護人を担当していた。
1956年1月18日午後1時頃、東京・銀座の第二東京弁護士会副会長磯部常治
(当時61歳。帝銀事件で平沢貞通の弁護人を担当)の自宅で妻(当時52歳)の絞殺体と大学4年生の次女
(当時22歳)の刺殺体を帰宅した三女が発見し警察に急報した。
築地署員が駆けつけ捜査を開始したところ、同家は1階から3階にかけて物色された痕で荒らされており妻はネクタイで
絞殺されており、階下にいた次女は鋭利な刃物で胸や肩など8か所にわたり刺されており、現金、
六法全書、衣類などが盗み出されていることから怨恨ではなく金目当ての強盗とみて付近の聞き込み捜査を始めた。

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坂口安吾帝銀事件を論ずで、以下のようなことを語っている。
(抜粋/初出: 「中央公論 第六三年第三号」1948(昭和23)年3月1日))
帝銀事件はとくに智能犯というほどのものではないようだ。
この犯人から特別つよく感じさせられるのはむしろ戦争の匂いである。私は、外地の戦場は知らないのだが、
私の住む町が一望の焼け野となり、その二カ月ほど後に再び空襲を受けて、あるアパートの防空壕へ
五〇キロの焼夷弾が落ちた。
中に七人の屈強な壮年工がはいっていて爆死したが、爆死といっても、爆発力はないのだし、ただ衝撃で死んだだけで、
焼けてもおらず、生きたままの服装で、ただ青ざめて目をとじている屍体であった。

■宮本百合子(目をあいて見る)
「目をあいて見る」(初出:「サン・ニュース」1948年(昭和23年)5月10日号)
帝銀事件について、
宮本百合子は、「日本人の「おどろくような権力への屈従癖が惨劇の発端をなしている」と指摘している。
帝銀事件として、帝国銀行椎名町支店におこった全行員から小使一家までの毒殺事件は、意味のわからないほど惨酷な毒殺方法で、
すべての人の心を寒くした。犯人の目星がついた、つかないと、推理小説家まで動員されてのさわぎのうちに、日は一日と過ぎている。
人の噂も七十五日、という日本らしい健忘症のうちに消しさられないことを切望する。

この帝銀事件が、わたしたちに教えていることは極めて意味がふかい。
人間を殺すことを平気でやれるように、日夜教育し実践させた戦争の犯罪性が、まざまざと反映している上に、おどろくような権力への屈従癖が
惨劇の発端をなしていることである。椎名町支店長は、痛恨をもって、自分が、怪人物の腕に巻いていた衛生局の腕章にけおされて、
行員にも服薬させたことを告白している。
そして、日本人のわるい癖で役所からというとつい服従する、と歎いて語った。(抜粋)


■森村誠一:「悪魔の飽食」
『悪魔の飽食』(あくまのほうしょく)は小説家森村誠一の1980年代の著作。第二次世界大戦中の日本の
人体実験を告発する内容で、1981年11月に光文社から刊行。
刊行翌年、続編『続・悪魔の飽食』とともに1982年の日本のベストセラーに数えられた。
下里正樹が共同作業者を務めた。
『続・悪魔の飽食』は誤った写真が掲載されていたことが問題となり、絶版・改収。
後に改訂版が出版された。第3部は1983年(昭和58年)に角川書店の「カドカワノベルズ」から単行本として刊行された。


2023年6月21日 記
作品分類 ノンフィクション(短編/連作) 30P×1000=30000
検索キーワード 冤罪・死刑は新たな殺人事件・戦争の匂い・権力への屈従癖・731部隊・登戸研究所・青酸ニトリール・コルサコフ症候群・GHQ