徹底検証シリーズ No10
| ◎講釈師見てきたような嘘を言い◎ 「父系の指」・「眼の壁」・「渡された場面」に関連して ---------------------------------------- (素不徒破人) |
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徹底検証【10】 |
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| 『小説家は、見てきたような事を書き?』 「渡された場面」・「田舎医師」・「眼の壁」・「神々の乱心」に関連して 小説ですから、描写の内容は、創作が当然です。 しかし、登場する場面での描写はリアリティーが求められると思います。 作品の内容で情景描写では具体的に事実(事実らしい事)が記述される場合がある。 例えば 外堀通りを新橋から四谷に向かって車を走らせると、赤坂見附の交差点過ぎる頃から左前方に 神宮球場のナイター照明の明かりがぼんやり見える。 多少でも土地勘のある人なら、上記の記述はおかしいことに気づくでしょう。 溜池から赤坂辺りの外堀通りは、谷底のような場所を走っていて とてもではないが、神宮球場の明かりなど見えない。 単純な情景描写でも、これはマズイと思います。 大都会の情景だけに、いくら創作と言っても現実に存在する場所ですから正確さが求められると思います。 これが片田舎の描写だったらどうでしょうか? 吉則駅方面から、国道435号を秋芳洞へ向かう途中、野崎の交差点を左折すると、河原村へ向かいます。 急な山道になり、正面に石灰石を発掘する露出した山肌が見える。 完全な間違いではありませんが、下線部分の表現は少し違います。(私の故郷の近辺) でも、どうでも良いこととして片付ける事も出来ます。 作家は、必ずしも体験したこと、実際に行った場所を表現するとは限りません。 地名など架空の名称で表現することも多々あります。 二つの例を書きましたが、出て来る地名を架空にしてしまうとリアリティーがなくなり 読者としては、おもしろくありません。 逆に、読者が知っている場所、地名などが出てくると、私などワクワクします。 私は、清張作品を紹介する時、場所の記述があれば、何処だろうかと調べたくなります。 『渡された場面』では、場所の特定を試みました。 結論は、場所の特定は出来ませんでした。 あまり建設的な読み方では無いですが、つい調べてみたくなります。 「事実」の中に創作、仮構が含まれているのだと思います。 何処まで許されるのであろうか?疑問ではありますが、作者の自由と言えます。 場所が特定されることの不都合もあります。 例えば殺人事件の現場にした場合、その土地の人々が喜ぶとは思えません。 「不幸な観光地」になることが予想されます。(不幸な観光地ではないが、『ゼロの焦点』)。 清張の作品で『渡された場面』は、作家が描く場所という意味で面白いと思いました。 旅館の女中をしている恋人から、滞在していた作家の書き損じの原稿を手に入れた作家志望の男。 男は、その内容を自身の作品に反映させる。 場面描写は盗作と言ってよかった。 作家がボツにした表現は、作家志望の男を実力以上に見せることが出来た。 問題は、作家が描写した場所で、その場所に行かない限り表現出来る内容ではなかった。 作家志望の男がその場所へ行っていたのか? 推理小説の面白さが伝わる話の展開でした。
あの有名な『砂の器』の亀嵩についても、清張は、実際に行ったことがないことを講演などで、告白しています。 『眼の壁』につては有名な話があります。 十分な取材に裏打ちされた作品を書き上げる清張だが臨場感を出すため書き加えた文章に落とし穴があった。 読者から指摘があったようだ。
清張作品には、鉄道の旅などよく出てきます。 情景描写は、当然作家としての腕の見せ所とも言えます。 小説ですから、「想像」・「仮想」・「仮構」であっても良いのですが 現実に存在する場所で、間違いや嘘があってはリアリティーが半減してしまいます。 嘘(仮構)を書く意味があれば良いのでしょうが..... 『神々の乱心』の「梅広駅」について
結論 小説家は、見てきたような事を書き、読者にその場面を想像させるだけでよいのです。 講談師や落語家は、話術でその場面を想像させます。 小説家は、文章で場面を描いてくれます。 見る必要はありません。 |
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2026年02月20日 記 |
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