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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その八●被告)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!


ページの最後


●弁護士の次は「被告」でしょう

やっぱり「被告」は事件つながりだった。そして「裁判」も同様。

「弁護士」も「弁護」で調べたが意外に少なかった。

奇妙な被告」・「「白鳥事件」裁判の謎」は「被告」「事件」「裁判」「弁護」
すべてそろっていた。
タイトルからして当然と言えば当然。


一年半待て

粗い網版

北一輝論

葉花星宿」(【文豪】2.)


昭和史発掘 第十一話 「桜会」の野望
昭和史発掘 第二十話 二・二六事件 二/北、西田と青年将校運動
昭和史発掘 第二十話 二・二六事件 六/秘密審理
随筆 黒い手帖 現在の犯罪/松川事件判決の瞬間
日本の黒い霧 第十話 推理・松川事件
松本清張社会評論集 U ”黒い霧”は晴れたか(松川判決を傍聴して)
松本清張社会評論集 U 事件と政治的ふんい気
松本清張社会評論集 U 裁判にゆらぐ人権


2009年02月21日


題名 「被告」
●「奇妙な被告 事件は単純に見えた。秋の夜、六十二歳になる金貸しの老人が、二十八歳の男に自宅で撲殺された。犯人は老人の手提金庫を奪って逃げ、途中で金庫を破壊して中の借用証書二十二通の中から五通を抜き、その手提金庫は灌漑用の溜池に捨てて逃走した、というものである。住宅の造成がすすんでいる東京の西郊だが、そのへんはまだ半分は田畑が残っているという地帯だった。若い弁護士の原島直己が、所属する弁護士会からこの事件被告の国選弁護を依頼されたとき、あまり気がすすまないのでよほど断ろうかと思った。ほかに三つの事件(これは私選の弁護)を持っているので相当に忙しい。それを理由に辞退してもよかったが、弁護士会の事務長が、実は所属の他の弁護士がいったん引き受けたのだが、急病で断ってきた、公判も間もなくはじまる予定で裁判所も当惑しているから、できるなら引きうけていただきたい、事件は単純だから適当にやってもらって結構、と、あとの言葉は低くいった。
●「一年半待て まず、事件のことから書く。被告は、須村さと子という名で、二十九歳であった。罪名は、夫殺しである。さと子は、戦時中、××女専を出た。卒業するとある会社の社員となった。戦争中はどの会社も男が召集されて不足だったので、代用に女の子を大量に入社させた時期がある。終戦になると、兵隊に行った男たちが、ぼつぼつ帰ってきて、代用の女子社員はだんだん要らなくなった。二年後には、戦時中の雇傭した女たちは、一斉に退社させられた。須村さと子もその一人である。しかし彼女は、その社に居る間に、職場で好きになった男がいたので、直ちに結婚した。それが須村要吉である。彼女より三つ年上だった。彼は中学(旧制)しか出ていないので、女専出のさと子に憧れのようなものをもち、彼より求愛したのであった。この一事でも分かるように、どこか気の弱い青年だった。さと子は、また彼のその心に惹かれた。
●「粗い網版 福岡県特高課長の秋島正六が内務省警保局からの至急電で上京したのは、その年の十月下旬であった。秋島はなぜ急に警保局に呼びつけられたか見当がつかなかった。また全国的な極左分子の一斉検挙かと思ったが、どうもそのようなふしはない。管内の福岡県では現在、共産党系の活動はほとんど終熄している。この一年間、多少の赤の検挙はあったが、組織的な活動とはいえなかった。共産党は、三・一五、四・一六事件のめぼしい被告が獄中で続々転向声明を出してから事実上崩壊している。満州事変以後国家主義が社会的風潮になっていて、ほとんどこれといった労働運動もみられなくなった。福岡県では水平社運動が活溌な程度だが、これとても正確には極左活動とはいえない。また、かつての八幡製鉄のストライキで名前を売った浅原健三も労働運動界から足を洗うと声明して、いまでは満州国で軍部の特務委嘱をうけて活動している。
●「北一輝論 北一輝は、外見的には社会主義者として出発し国家主義者として終わった。これをめぐって彼の「転向」とか、「一貫性」とか「動揺」とかの問題がある。北の外見がそのまま彼の実体かどうかは本稿で分析していくつもりである。北が一九三七年(昭和十二年)八月に処刑されてから三十八年経っている。(昭和五十年現在)三十七年を経ても未だに北の正体がつかめないというのも「思想家」として珍しい。北への再検討が行われた最初は戦後わずか四年経って出版された田中惣五郎「日本ファシズムの源流−−北一輝の思想と生涯」(白揚社刊)である。それまでは極端なファシストとして、ほとんど研究されずにきめつけられてきた。北一輝像には最後の二・二十六事件での死刑が逆投影している。この判決に最初の「政治的」な疑惑をもち、それをかなり具体的に書いたのが田中の前記の著書(田中はのちに『北一輝』=未来社刊・昭和三十四年=にまとめている)であって、田中が入取したらしい「Y判士の手記」によってその裁判の疑惑を不充分ながら追求している。「Y判士」とは北・西田悦・亀川哲也などの民間「煽動」被告組を審理した判士長吉田悳少将のことだが、田中の執筆当時は裁判側の内部資料がほとんど皆無であった。
●「葉花星宿(【文豪】2.) 戦前の大審院長だった三宅正太郎の「裁判の書」という随筆集は、わたしには興味があって、これまでもその中から二、三度は引用したことがある。この人は趣味がひろく、文章もうまい。今は知らないが、旧い裁判官には尊敬されていたようである。いま、本が手もとに見当たらないので正確な引用はできないが、裁判官が公正な判決をするための心得を自分の経験から説いた文章があった。京都所司代として有名だった板倉勝重だか重宗だかが茶臼を挽きながら障子越しに訴え人や被告人の申立てを聞いたのは、心を鎮めるためでなく、相手の顔を見ると、好悪の印象に気持ちが支配されやすいからで、こういう心がけは裁判官として大事であるという意味のことが書いてあった。三宅は茶道に造詣があったようだから、よけいに板倉政要に惹かれたのであろう。
●「「白鳥事件」裁判の謎 「白鳥事件」は、昭和三十八年十月十七日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却となり、被告村上国治の二十年の懲役が確定した。一審は無期懲役、二審は二十年の懲役が判決されていたものであった。今から五年前に私は『日本の黒い霧』で、「白鳥事件」の名でこの事件のことを書いている。以来、仙台高裁から今度の最高裁に至る裁判の進行を見守りつづけていたが、最終判決は期待に反し前記の判決を宣告した。裁判官は、松川事件に無罪を言渡した同じ人で構成されている。白鳥事件では不起訴の被疑者と執行猶予の被告の自供がほとんどキメ手になって村上国治と精神病院にいる村手宏光を有罪にし、事件関係者三名は所在を絶っている。このことは、松川事件のように全被告が揃っていて、互いの供述を突き合わせ、そこから真実の発見がなされるというような有利な点がなかった。いうなれば、村上国治は単独で転向組三人の証言と対決しなければならなかったところに、彼をはじめ弁護団の苦しい闘いがあった。

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