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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その二十三:記憶)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
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ページの最後


●記憶


●「恩義の紐
オール讀物(1972年(昭和47年)3月号)

●「流れの中に
小説中央公論(1961年(昭和36年)10月号)

●「球形の荒野
オール讀物(1960年(昭和35年)1月号~1961年(昭和36年)12月号)

●「殺人行おくのほそ道
ヤングレディ(1964年(昭和39年)7月号6日号~1965年(昭和40年)8月23日号)

●「古本」死の枝:第六話
小説新潮(1967年(昭和42年)7月号)

●「小堀遠州」小説日本芸譚:第六話
芸術新潮(1957年(昭和32年)6月号)

男の記憶(恩義の紐・流れの中に・小堀遠州)と女の記憶(球形の荒野・殺人行おくのほそ道)に大別されるのか?
「古本」は、第三者。

キーワードとして、「記憶」を取り上げたが、題名に関する一考察の「記憶」(火の記憶・入江の記憶)との
共通点がなかった。
印象としては、母親に関係して登場する「男」との関係が強烈で、妙に記憶に残っている。
「火の記憶」がそうで、テレビドラマのボタ山を見つめるシーンが印象深かった。
ところが、「火の記憶」・「入江の記憶」も書き出しの部分では「記憶」が登場しない。
書き出し部分での「記憶」は、タイトルとしてはインパクトがないのか、題名には結びついていないようだ。


2021年02月20日

 



題名 「記憶」
上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
恩義の紐 9歳児・放蕩の父親・ババヤン・ヘラ・雑巾・中国地方・海岸沿いの町・几帳面な妻・祖母・奥さん・滑車
九歳の記憶だからあやふやである。その家は、崖の下にあった。だから、表通りからは横に入っていた。表通りじたいが坂道になっていて、坂を上りつめたところにガス会社の大きなタンクが二つあった。あるいは三つだったかもしれない。とにかく坂の下から上がってその真黒なタンクがのぞいてくると、ババやんのいる家にきたような気になった。子供の眼には目標で安心があるものである。坂道の両側は品のいいしもたやがならんでいた。その間に酒屋だとか雑貨屋だとか八百屋などがはさまっていた。静かな通りで、人はあまり歩いていなかった。三十年も前のころである。まして中国地方の海岸沿いの町では車もほとんど走っていなかった。角二件が板塀の家で、間のせまい路地を入ってゆくと石段が五つほどあって、その家の玄関になる。玄関は格子戸だったか、硝子戸だったかは忘れた。とにかく庭のあるほうの縁は全部硝子戸になっていた。 
流れの中に 9歳児・放蕩の父親・ババヤン・ヘラ・雑巾・中国地方・海岸沿いの町・几帳面な妻・祖母・奥さん・滑車
笠間宗平は五十二歳になった。勤めている会社は、三十年勤続すると半月の慰労休暇をくれる規定になっている。宗平もその資格に達した。会社は休暇に添えて五万円をくれるのだ。たいていの社員は家族を連れてどこか遊びにゆくが、宗平はひとりで旅をするつもりだった。妻は何年ぶりかに温泉地にゆきたがっていたが、宗平はそれを断わった。彼もあと三年経つと定年になる。実は、この旅の計画はずっと以前から考えていて、定年後に行うつもりだったが、それではあまりに侘びしくなる。あと僅か三年でも、やはり働いているうちにその旅をしたかった。それは、宗平が小さいときに送った土地を訪れてみることだった。といって、このような土地には宗平には暗い思いでこそあれ、懐かしさは一つもない。三十数年前も自分の心から遮蔽していた土地をいまさら懐かしむつもりはない。亡父への記憶をその土地へ行って手探りたかっただけである。宗平もほぼ亡父の晩年の年齢になっていた。そのことからこんな思い立ちになったのかもしれない。 
球形の荒野 芦村節子は、西の京で電車を下りた。ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。道の横に古道具屋と茶店をかねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持ちが軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。夫の亮一とは、京都まで一緒だった。亮一は学会に出るので、その日一日その用事に取られてしまう。旅行に二人で一緒に出るのも何年ぶりかだ。彼女は、夫が学会に出席している間、奈良を歩くのを、東京を発つときからの予定にしていた。薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、今は立派に全容を顕わしていた。いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。
殺人行おくのほそ道」  倉田麻佐子に一つの記憶がある。---彼女がまだ大学の二年生だったから、今から五年前に当たる。叔父の芦名信雄といっしょに仙台から山形を回ったことがあった。あれは懐かしい旅だった。「麻佐子」渋谷の家に遊びに行ったとき叔父は云った。「来月は飛び石連休があるね」五月の初めは暦の上でそうなっている。「何か予定があるかい?」信雄は癖の、すぼめるような眼つきをした。長身だが痩せていた。年齢より老けて見えるのも丈夫でない証拠である。「別に決めてないけど」そのゴールデン・ウイークは麻佐子も年の初めから楽しみにしていた。その年の五月は祭日と日曜とが一日おきにあり、これに土曜日が加わっている。「もうとっくに決まっているかと思った」麻佐子は、前から、その連休をどう埋めようかと考えていないではなかった。むしろ思案に過ぎて、決まらなかったといえる。多勢の友達と相談したのがいけなかった。のかもしれない。衆議まちまちで、結局、宙ぶらりんの恰好になっていた。 
古本」死の枝:第六話  東京の西・広島県府中市・古本屋・室町夜噺・栄華女人図・神田・女性雑誌・連載・鉄橋・月刊誌・随筆・批評家・刑事・謎解き
東京からずっと西に離れた土地に隠棲のような生活を送っている長府敦治のもとに、週刊誌のR誌が連載小説を頼みに来たのは、半分は偶然のようなものだった。長府敦治は、五十の半ばを越している作家である。若かった全盛時代には、婦人雑誌に家庭小説や恋愛小説を書いて読者を泣かせたものであった。まだテレビの無いころだったから、彼の小説はすぐに映画化され、それが彼の小説の評判をさらに煽った。長府敦治の名前は、映画会社にとっても雑誌社以上に偶像的であった。しかし、時代は変わった。新しい作家が次々と出て、長府敦治はいつの間にか取り残されてしまった。もはや、彼の感覚では婦人雑誌の読者の興味をつなぐことは出来なくなった。長府敦治の時代は二十年前に終わったといってもいい。ときどき短い読み物や随筆を書くことで、その名前が読者の記憶をつないでいる程度になった。 
小堀遠州」小説日本芸譚:第六話  小堀作介政一に一つの記憶がある。政一が大坂平野の陣で家康に謁したのは、元和元年五月七日であった。家康はこの日の未明、牧岡を発して道明寺の戦場を巡視し、巳の刻に此処に到着したのであった。彼は、しばしば戦場に馴れたる身なればとて武具を着けず、羽織を気軽に着けていた。気軽だったのは、戦場慣れのためばかりではない、前日に大阪城攻囲戦の落着が見えてきたからであった。後は城を落とすばかりなのだ。大和郡山方面の警備に当たっていた政一は、攻城戦に参加するため早朝に平野に来会した。折から家康は参着を知って、機嫌を伺いに大御所の前に出たのだった。家康はこれから八尾方面から来た将軍秀忠に対面するため、輿に乗るばかりのところであった。その忙しい僅かな時間の隙に、家康は政一に会ってくれた。  

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