NSG(日本清張学会) 徹底検証シリーズ No09蛇足の 尾ひれ

二番煎じは許されるのか?

「夜が怕い」・「暗線」・「父系の指」に関連して
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(素不徒破人)

徹底検証【09】
2025年10月21日登録

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『耳が小さいのは貧乏性なのか?』

作品の内容が重複して記述される場合がある。
似た内容が登場するのです。
「遠い接近」と「任務」である。二つの作品は、「徹底検証01」で俎上に載せた。

今回の作品は、以前、「徹底検証06」・「徹底検証07」で取り上げています。
前回は、二作品でしたが今回は三作品になります。
夜が怕い」(1990年(平成3年):月刊文藝春秋2月号
暗線」(1963年(昭和38年):サンデー毎日3月
父系の指」(1955年(昭和30年):新潮9月号
作品発表の時間的経過は以下の通りです。
1955年→1963年→1990年

1990年のシリーズ作品【草の径】第七話は、清張最晩年の作品です。
『耳が小さいのは貧乏性.....』の記述は、清張の父に対する話しなのです。
が、父は必ずしも本名で登場しません。別名の記述になっていますが、容易に想像出来ます。
父系の指」では、「父」。「暗線」では、「黒井利一」。「夜が怕い」では、「平吉」
しかし
読めば、清張の実父「松本峯太郎」である事は分かります。
自叙伝的作品とされる、「半生の記」・「骨壺の風景」では、実名で登場します。
松本峯太郎の育った環境・境遇など、「田舎医師」を含めた、六作品は共通する内容を伴っています。
今回、初めに、『耳が小さいのは貧乏性.....』に限って比較してみます。
後半で、峯太郎の経歴(里子に出された経緯など)の記述の共通性を比較してみます。



『耳が小さいのは貧乏性なのか?』
 ①『夜が怕い』【草の径】(文藝春秋)  『暗線』(眼の気流/新潮文庫)  『父系の指』(松本清張全集 35) 
■「夜が怕い」 
(1990年(平成3年):月刊文藝春秋2月号
■「暗線
(1963年(昭和38年):サンデー毎日3月
■「父系の指
(1955年(昭和30年):新潮9月号
以下は、主人公ある、「私」が、父の思い出話を語る場面での
表現である。

父平吉の生涯は貧乏に尽きる。
あんた、身体がそがいに大きいのに
耳が小さいけんおう、耳が細いのは貧乏耳いうて、
一生貧乏暮しじゃ、
運の悪い耳よのう、とつれあいのシマ、つまり私の
母は云いした。
母は、広島県の田舎の産まれである。





※『夜が怕い』(【草の径】の304P)
母の言葉として、「私」(新聞社の文化部次長)に
話している。

「あんたは貧乏性じゃ。そんないい家に
生まれてながら、貧乏なところに養子に
やられたのは、よっぽどの不運じゃ。見てみい。
お父さんの耳の小さいことを」母は、
私に指さして云いました。
実際、父はその肥えた顔に似合わず、
耳だけは萎縮したように貧弱でした。





※『暗線』(眼の気流の92P)
母は、自分の母の言葉として、「私」に話している。
名前は出てこないが、母は、タニ。

母は、私に、いつかこういうことを
云ってきかせた。
「わたしのお母さんがはじめて、おまえの
お父さんを見てのう、かげでわたしに。
あんたの亭主は男ぶりはええが
耳が小さいけい、ありゃ貧乏性じゃと
云いんさったが、まことそのとおりじゃ」




※『父系の指』(松本清張全集35の198P)
●誰の言葉として語られているか? 

平吉の妻である「シマ」の言葉を借りて
私が話している。
平吉は、清張の父(峯太郎?)
●誰の言葉として語られているか? 

黒井利一(松本峯太郎?)の妻の話しとして記述。
話しの現場には、私と父(黒井利一)と母はがいる描写になっている。
私は清張と思われる。(新聞記者)
●誰の言葉として語られているか? 

登場人物は、ほぼ実名。
峯太郎の妻(タニ)が清張に聞かせている。
(タニの母親の話として、話している)
峯太郎の実父が、タニの夫ではない疑問が
窺える。(不貞の子?)
実際の登場人物の名前(「半生の記」から推定) 清張は、「私」として登場

父:松本峯太郎
母:松本タニ

作品によって登場人物の名前は多少違っている。徹底検証06」・「徹底検証07で詳しく検証しているが、
夜が怕い」だけは検証対象になっていない。 読了時期が遅れた為です。「夜が怕い」では、父の名は平吉となっています。

「半生の記」は、「特別蛇足的研究【半生の記①】」・「特別蛇足的研究【半生の記②】」で紹介しています。

『耳が小さいのは貧乏性.....』に限って取り上げましたが、実は、幾つかの共通点があります。
①父の出生の秘密
裕福な家庭の(作品によって多少、程度の違いがある)長男として生まれるが、幼くして、里子に出される。
(母は、父を実家で生んでいる。婚家で姑との折り合いが悪く、離婚状態になった。後に婚家に戻り二人の子供を設ける)
②里子に出された後にも実家(母の婚家)に遊びに行く。実家は西田家。
母が、よりを戻し、弟たちも生まれた家に遊びに行っていた。母は、里子に出した父を引き取る努力をしたが、里子先は返さなかった。
母が、里子に出した父(峯太郎)を不憫い思い遊びに来た峯太郎を愛おしむ描写など、涙ものである。
③里子に出された養子先は貧乏だった。(松本家)
松本家の貧乏生活に不満を持つ父は、出奔する。
④父は広島で病院の雑役夫のような仕事をしていた。女工だった母に出会い、結婚する。
父は、四国で死亡したと伝えられているが、作品によっては東北ともされていて、ハッキリしない。
(松本清張は、小倉や下関で、両親と暮らすが、その経緯は自叙伝でも多くは語られていない)

①②③についてですが
母が、婚家での折り合いが悪くて(姑との不仲)実家に帰り清張の父(峯太郎)を生んでいる。
この経緯について、清張は母が、不貞の後に妊り実家へ帰され出産したのではないかと疑っている。
清張の疑いは杞憂に終わっている。(実際は姑との不仲が原因らしい)

母は、峯太郎を生んだ後に婚家に戻り、二人の男の子を産んでいる。
母が婚家に戻ったのは、姑が亡くなったらしく、母の夫は、姑の云うなりの人物らしく母に対しては未練もあり復縁となったようだ。
生まれた峯太郎は、松本家に里子に出されるが、母の嫁ぎ先の家には時々遊びに行っていたようだ。
この経緯で、細かいことだが今ひとつハッキリしないことがある。
時間的経緯だ。
1.妊娠中の母(カネ)は、実家に帰される。(離縁/姑との不仲)
2.実家で峯太郎を出産。〔母(カネ)の実家は、福田家/日野郡霞〕
3.峯太郎は松本家へ里子に出される。(「半生の記」では、生まれて直ぐ)
4.カネは、婚家である田中家に復縁(姑が死亡して、夫の希望だった)
5.復縁したカネの元(西田家)に峯太郎は何度か遊びに行く。
   ※既に弟が生まれている/峯太郎が、弟と遊んでいるらしい記述がある。「半生の記」によると、小学生の頃。
     峯太郎は、松本家から小学校へ通っていたのか?。
     峯太郎が母の元(西田家)へ行くことを松本家では容認していたのか?
     峯太郎は、自身が貰われっ子(養子)で、本当の母が「カネ」であることを認識していたのか?(知っていたようだ!)
 3.~5.にかけて、峯太郎は松本家で暮らしていたのだろうか?はたまた、カネの実家?
峯太郎は、どこからカネの元に会いに行っていたのだろうか?
峯太郎は、松本家を出奔するが、何歳頃だろうか? 養父母は了解していたのだろうか?

私(素不徒破人)の父の経歴も、いろいろ調べましたが、ハッキリしないのです。それは、伯父と暮らし始めた時期です。
実の父は、隣の敷地にある伯父の住居に住んでいました。私も伯父(私との関係は、姪孫です)。
父以外の兄弟は、実父と同居して居ました。
父だけが、隣地の伯父宅に同居したのですが、10歳~23歳の範囲で判然としません。
ですから、小学校もどちらの家から通っていたのか不明です。
ちなみに、父は伯父とは養子の関係にはありませんでした。
伯父の死亡届は、私の父が出していましたが、戸籍謄本では、「同居人」の関係でした。
伯父は、実父の兄で長男でしたが、子供はいませんでした。
伯父が家督相続をして戸主として存在していたのですが、如何なる訳か「本家」を出て隣地に居を構えたのでした。
もともと、「本家」は、伯父夫婦と実父夫婦、そして子供が暮らしていました。(父の母は、4歳の時死亡しています)
伯父が弟(私にとっては、実の祖父)に「本家」を譲った結果になっていました。(この理由が分かりません)
これらの経緯は、「実録・家系図」で触れていますが、正確に書くことは出来ません。
少々分かりづらいので、系図で示します


松本家は、母の婚家に比べても貧乏だった。
事情があったのだろうが、峯太郎の母は、峯太郎を返してほしく里子先に話をするが、返してもらえなかった。
松本家で育った峯太郎は、出奔する。
「半生の記」でも詳しく触れられていないが、峯太郎は、下関で旅人などを相手にした「餅屋」をしている
養父母夫婦(清張の義理の祖父母)を頼って、一緒に暮らす。
峯太郎についての記述は概ね以上述べたような経歴である。これらの経歴も共通している。

夜が怕い」が、シリーズ作品【草の径】に収録されているが、清張が幾度となく取り上げている『父の話』は、
清張最晩年の作品でも取り上げられている。
余命を覚悟し始めた時期にもその心の奥底に留まっていた思いを書かざるを得なかったのだろう。

①「春の血」・「再春」を【NSG設立記念テーマ】で取り上げました。(作中作品に付いても言及)
②「遠い接近」・「任務」は、【徹底検証01】で取り上げました。(清張の体験的実話のようですが、表現はほぼ同じ)
③自叙伝的作品とされる「半生の記」を含めて「暗線」・「父系の指」・「骨壺の風景」・「田舎医師」、そして「夜が怕い」で完結しています。
それぞれ事情が窺えますが、③については違和感を感じざるを得ません。


●二番煎じは許されるのか?①
私は清張作品以外にはそんなに小説は読んでいません。
それは、「最近買った本」を見て頂ければ分かると思います。
作家が「同じネタ」で複数の作品を書くことは殆ど無いのだと思っていました。推理小説なら尚のことです。
単純に考えれば、食傷気味になり、批判されるべき事だと思います。

「夜が怕い」は、決して自叙伝的作品ではありません。小説として書かれています。
ただ、清張の体験的作品と言えます。

多少純文学的な香りがしますが、作品の内容から、「父の経歴」など書き込む必要は感じません。
ハッキリ言えば、もっと創作したエピソードを書き込んでも
良かったのではと感じます。清張氏自身がかつて語っていたのですが、「仮構」の世界で物語を構築することが、自身向いているとしていました。
ですから、創造的アイデアの枯渇が感じられて寂しい気持ちがしました。「夜が怕い」以外にも言えるのですが、それぞれ疑問はあります。
ただし、なんとなくですが、理解は出来ます。
推敲の結果新しい命を与えたとか、再構築した内容とか、アンサー小説とでも言えるのか、前作の解決編的な作品とか、私なりに理解しました。
しかし、「夜が怕い」だけは理解できませんし、納得出来ません。


1989年(清張は80歳)※清張略歴による。
時代の変わり目に昭和史の小論を発表する一方で、久しぶりの短編「泥炭地」が文芸時評(毎日新聞・夕刊2・22)で話題となる。
また吉野ヶ里についても、シンポジウムや講演会で積極的に発言し、数多く執筆するなど、相変わらず多方面の仕事が続く。
二月十八日から三月六日まで東京女子医大病院に入院、前立腺の手術を受けるが、順調に回復。
六月十一日から連作短篇「草の径」取材のためヨーロッパ取材旅行。アイルランド、オランダ、オーストリア、ドイツを歴訪し、
二十五日帰国した。八月二十五日から九月六日まで井上眼科病院に入院し、緑内障の手術をうける。
この年も一月の芥川賞・直木賞百回記念・菊池寛賞誕生百周年記念をはじめ、各地で九回に及ぶ講演会があり、十月十五日には
次男の経営する松明堂ホールでも記念の講演をおこなった。



●二番煎じは許されるのか?②清張の父の経歴を作品で比較〔番号(①~⑦)は小さいほど古い作品〕
●里子に出された峯太郎は...父の経歴
⑦■「夜が怕い」 
(1990年(平成3年):月刊文藝春秋2月号
⑥■「骨壺の風景(自叙伝的作品) 
(1980年(昭和55年):新潮1月号
⑤■「碑の砂(エッセイ)
(1970年(昭和45年):潮1月号
●夜が怕い




※『夜が怕い』(【草の径】の304P)
●骨壺の風景




※『骨壺の風景』(【岸田劉生晩景】の6・7・11・12P)
●碑の砂




※『碑の砂』(【松本清張全集34】の230・231P)
●主人公である「私」(清張?)の思い出話として綴られている。
私は、作品内容に直接関係ないと思った。
直接関係ないだけでなく、間接的にも関係ないと感じられた。
残念だが、納得のいかない挿話。
●自叙伝的作品である。父(峯太郎)の養父の名前が健吉とされているが、米吉が正確のようだ。
清張一家の小倉や下関の壇ノ浦での生活がリアルに描かれている。
貧乏のどん底がこれでもかと描写されている。
「半生の記」より、自叙伝的だ。
●エッセイですが、半生の記以上に真実が語られているように感じます。
父の出生の秘密が、清張の心の奥底に沈殿していたのではと思います。
秘密が、親戚関係からの手紙で明らかになるのですが、私には納得していなかったとも読めました。その結果が、最晩年になっても心の焔となって「夜が怕い」として書かざるを得なかったのではと思慮しました。
④■「暗線
(1963年(昭和38年):サンデー毎日6月
③■「半生の記(自叙伝)
(1963年(昭和38年):文藝1月号
②■「田舎医師(影の車:第六話)
(1961年(昭和36年):婦人公論6月号
●暗線




※『暗線』(【眼の気流】の96P)
●半生の記



【「半生の記」と自叙伝について】(自叙伝)


※『半生の記』(【松本清張全集34】の6P)
●田舎医師




※『田舎医師』(【松本清張全集1】の406P)
●黒井利一(松本峯太郎)が養子(里子)に出された事情が詳しく記述されている。
清張は、新聞記者として「私」で登場。
父の経歴を詳しく聞くことになるが、父(利一/峯太郎)の出生の秘密が隠されている。
「悪い事情」として、清張の心の奥にわだかまりとして残っているようだ。
一応、エッセイの「碑の砂」で解決している。
●自叙伝。真実が語られているのでしょう。
登場人物
松本米吉(峯太郎の養父)
松本カネ(峯太郎の養母)
松本峯太郎(清張の父)
松本タニ(清張の母/峯太郎の妻)
タニは、広島の農家の生まれ。
字が読めなかった。(一丁字がなかった)
●登場人物で、杉山良吉=松本清張
杉山猪太郎=松本峯太郎
猪太郎は、杉山家の養子になるのだが、実家の姓が不明確で、すべて杉山姓で描かれている。
設定が他の作品と少し違うようだ。
(読み込み不足かもしれない?)
①■「父系の指 (自叙伝的作品)
(1955年(昭和30年):新潮9月号
1955年9月に最初の「父系の指」が発表され、以後
1961年6月「田舎医師」
1963年1月「半生の記」
1963年6月「暗線」
1970年1月「碑の砂」
1980年1月「骨壺の風景」
1990年2月「夜が怕い」
と、発表されている。
46歳から82歳に及ぶ、清張にとっては父の経歴は永遠のテーマだったと思われる。
83歳で死亡しているのだから、恐ろしい執念と言える。
最晩年の作品で或る【草の径】(シリーズ作品)での「夜が怕い」は、【草の径】で読んだ詩の一節が
記されているが、心に残る。

『わが力なきをあきらめしが、されど草の葉で綴る焔文様』

父峯太郎の生涯は清張にとって「焔文様」なのだ!
●父系の指




※『父系の指』(【松本清張全集35】の397P)
●清張の父峯太郎が最初に登場する作品です。
登場人物は実名が殆どです。
後に書かれる、「骨壺の風景」と同じく、自叙伝的作品と呼べるのではないでしょうか?
峯太郎の出生の秘密が問題提起されていると思います。

「半生の記」の中で、「父系の指」がいちばん事実に近いと書いている。
全くの余談だが、私は、清張の父(峯太郎)の出生の秘密に大変興味を持ちました。
私の父の経歴が複雑で、共通性を読み取ったからです。
(実は、複雑さを感じたのは、数年前です。)
戸籍謄本を取り寄せ、家系を調べました。驚きの連続でした。まさに事実は小説より奇なりです。文章を書く事など全くの門外漢でありながら書き残したい衝動に駆られたのです。自分なりにまとめた文章を兄弟に送りました。反応は様々でしたが、誰かに話したい衝動から、このホームページに『実録・家系図』を書き始めました。
     文学的才能は全くないので、幼稚で稚拙な文章ですが話の内容は、清張の父(峯太郎)の経歴に負けないと思っています。(笑)
実録・家系図』を読んで下されば幸いです。

参考
●松本清張の家系図(「半生の記・「碑の砂」・「骨壺の風景」を参考に、素不徒破人作成)



 どの作品も、「私」を主人公として書かれている。
「私」は、松本清張として読むことができる。謂わば自叙伝的作品であるが、清張が云う「仮構」の世界の話とも言える。
母か、母の母親の話であるが、広島弁で語られている。
【コトバンク】
世界大百科事典(旧版)内の貧乏耳の言及
【耳】より
…しかし,聖徳太子像はみごとな福耳を示しているし,江戸時代にその信仰が盛んになった恵比寿,大黒,福助の像も豊かな耳朶を強調している。逆に耳朶が小さく流れているのは俗に〈貧乏耳〉といわれるが,これらの考え方は日本古来というよりも,先に述べたような仏教や古代中国思想が根づいたものと思われる。《和漢三才図会》は明代の人相学書《神相全篇》を引用して,耳が厚くて堅く高くそびえて長いのは長命の相で,輪郭がはっきりしているのは聡明であり,肉が厚ければ財をなすが,薄ければ貧しいと述べている。…


小さい耳に対して「福耳」と言われることがある。むしろ「福耳」の方が一般的な感じがする。特別広島地方での話しという訳でもなさそうだ。



2025年10月21日 記



2025年10月21日 素不徒破人

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