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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その三十:霧)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
(登録キーワードも検索する)


ページの最後


●霧

鬼火の町
山峡の湯村
遭難」(黒い画集:第一話)
凶器」(黒い画集:第七話)
渡された場面
小説 帝銀事件

関ヶ原の戦」(私説・日本合戦譚:第八話)
行者神髄



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●紹介作品No143で「小説 帝銀事件」を取り上げました。
【日本の黒い霧】第八話『帝銀事件の謎』(原題=作家と毒薬と硝煙)など再読しながらキーワードを考えていたとき
「霧」が思い浮かび検索すると上記の8作品がヒットしました。
キーワードによる検索では、以前、その十八で「吹雪・積雪」を取り上げていました。
改めて、天気用語と言うべき単語を調べてみました。「晴」「雨」「雪」「曇」を調べました。
「晴」:16作品=凶器」(黒い画集:第七話)・「小説 帝銀事件
「雨」:27作品=小説 帝銀事件」・ 「行者神髄
「雪」:23作品=「凶器」(黒い画集:第七話)
「曇」:27作品=「行者神髄
それぞれは確認していませんが、内容に共通項でもあるのでしょう、「霧」と重複して登場する作品が複数有ります。
中でも、「凶器」(黒い画集:第七話)・「小説 帝銀事件」・「行者神髄」は、それぞれ二回登場です。
今回は「霧」を取り上げましたが、もちろん「日本の黒い霧」からの連想です。

鬼火の町」・「山峡の湯村」・「遭難」(黒い画集:第一話)・「凶器」(黒い画集:第七話)・「渡された場面
小説 帝銀事件」・
関ヶ原の戦」(私説・日本合戦譚:第八話)・「行者神髄」ですが「霧」のイメージから、
それぞれの作品が「霧」に直結している感じがしてしまいます。

紹介作品で取り上げた作品に限ってキーワードを詮索してみます。
鬼火の町」=天保・水死体・岡っ引き・大奥・銀煙管・屋根職人・大川・徳川幕府・女義太夫.円行寺.片目の男.納所坊主
遭難」(黒い画集:第一話)=登山・寝台車・リュックサック・山小屋・地図・動機・金沢・不倫・姉・従兄・銀行・鹿島槍ヶ岳

渡された場面」=盗用・四国・海峡文学・文芸界・同人誌・陶芸店・千鳥旅館・妊娠・博多の女・織幡神社・犬・書評・冤罪
小説 帝銀事件」=画家・青酸カリ・毒殺・小切手・小樽・GHQ・コルサコフ症状・テンペラ画・スポイト・名刺・731部隊...

共通項は見いだせませんでした。
むしろ、題名から来るイメージは共通するものがあります。(イメージですから内容とは関係ありません)
鬼火の町」は、港町、夜霧てな具合です。
山峡の湯村」は、湯煙が上がる山峡。霧に包まれる村。
遭難」(黒い画集:第一話)は、登山する人物。霧に捲かれて遭難。
凶器」(黒い画集:第七話)は、霧の中にキラリと光る凶器
渡された場面」は、ぼんやりと記憶の中にある場面。たしか霧の中だった。
小説 帝銀事件
は、ズバリ「日本の黒い霧」
関ヶ原の戦」(私説・日本合戦譚:第八話)は、両軍がにらみ合う戦の場所は関ヶ原。霧の中で戦いは始まった。
行者神髄」は、見当が付かないので、書き出しから引用。海岸沿いを走るタクシーの窓からは近くの波しか見えず、
沖合は灰色の海霧が黒い斑ら雲につづき、東の空ほど暗くなっていた。


ちなみに、題名では
彩霧】【霧の旗】【霧の会議】でした。(日本の黒い霧は除く)


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2023年5月21日

 



題名 「霧 上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
鬼火の町 天保・水死体・岡っ引き・大奥・銀煙管・屋根職人・大川・徳川幕府・女義太夫.円行寺.片目の男.納所坊主
天保十二年五月六日の朝のことである。隅田川の上にあついが白く張っていた。浅草側の待乳山も、向島側の三囲い神社も白い壁の中に塗り潰されたようである。「えれえだ。一寸先も見えねとは、このことだ」と、独り言を呟いた小舟の船頭がある。夜が明けたばかりで、六ツ(午前六時)を少し回っていた。舟は千住のほうから来たのだが、折からの上げ潮にさしかかっているので、水の流れも湖水のように動かない。うっかりすると、方向を間違えて、どこかの岸にぶつかっりそうだった。現在なら汽笛でも鳴らすところだが、当時のことで、鼻唄でも唄うほかはなかった。船頭が警戒したのは、不意に、その厚いの中からほかの舟が正面に現れることだった。もっとも、朝が早いのでほかの舟も少ないに違いないが、しかし、一艘でも衝突の危険は同じだった。
山峡の湯村 金山から北へ下呂温泉までの飛騨川沿いは昔から「中山七里」とよんでいる。昭和五年刊行の少々古い地理案内書には、こう出ている。「両岸の絶壁は愈々高く、花崗質斑岩の水の浸食に抗したものが、河床に乱立して時に白泡を吹かしめ、時に緑玉の如き深淵にその姿を映してゐる。沿岸は矗々たる杉林に、梢が煙のやうに見える落葉樹を交え、これに朝のかけた有様は一幅の山水画である。わけて山ふところ、屋根に石を置いた人家の二三が、その一部に点綴する三淵の附近は一層の妙趣がある。中山七里は、古来文人墨客の間には既に推賞されてゐたが、不幸にも交通に恵まれない飛騨山中にあるがため、人口に膾炙せられずして、今日に至ったのである。位置の必要なる必ずしも人と商賈とのみに限らない。」いまでも「中山七里」の風景はそれほど変わってない。ただ、高山線が岐阜から富山に通じ、国道四一号線がこれに沿っているので、金山から下呂までの二十五キロの間、北から杉や檜材を積んだトラックが多い。貨車も杉材を積んで名古屋方面に行く。バスや列車は下呂温泉や高山への観光団体客を乗せ、マイカーの往来も頻繁である。
遭難」(黒い画集:第一話) 登山・寝台車・リュックサック・山小屋・地図・動機・金沢・不倫・姉・従兄・銀行・鹿島槍ヶ岳
鹿島槍で遭難(R新聞九月二日付)A銀行丸の内支店勤務岩瀬秀雄さん(二八)=東京都新宿区喜久井町××番地=は八月三〇日友人二名と共に北アの鹿島槍ヶ岳に登ったが、と雨に方向を迷い、北槍の西方牛首山付近の森林中で、疲労と寒気のために、三十一日凍死した。同行の友人は、冷小屋に救援を頼みに行ったが、同小屋に泊まっていたM大山岳部員が、一日朝救助におもむいた時は間に合わなかった。 2 (この一文は、岩瀬秀雄の遭難の時、同行していた浦橋吾一が山岳雑誌『山嶺』十一月号に発表した手記である。浦橋吾一は岩瀬秀雄と同じ勤め先の銀行員で二十五歳、岩瀬よりやや後輩で、本文中に名の出る江田昌利は三十二歳、同銀行支店長代理である。この三人が八月三十日に鹿島槍ヶ岳へ登った) 鹿島槍に友を喪いて 浦橋吾一   私が江田昌利から鹿島槍行を進められたのは七月の終わりであった。江田氏はS大当時、山岳部に籍を置いていて、日本アルプスの主要な山はほとんど経験ずみだし、遠く北海道や屋久島まで遠征したことのある、わが銀国内きっての岳人だった。これまで江田氏に指導されて山登りが好きになった行員はずいぶんいる。「岩瀬君が行きたいと言っている。二人だけではつまらないから、君を誘ったのだ」江田氏は私に言った。休暇の都合や、山登りに興味のない者を除くと、私だけということになった。職場では仕事の関係で夏季休暇を代わりあってとっていたが、江田氏も岩瀬君も私も、係りが違うので偶然にいっしょに休暇がとれることになったのである。  
凶器」(黒い画集:第七話)  農婦・自転車・未亡人・木槌・餅・大釜・叺・蓑・雑貨商・黒岩村・××平野・五歳の息子
田圃には、霜が雪のように降りていた。平野の果ては、朝で白くぼやけている。昼間の晴れた時でも、青い色が淡いくらい山は遠かった。××平野と九州の地図に名前のある広い沃野であった。冬の午前七時といえば、陽がまだの上に出ない蒼白い朝である。切株だけの田の面の水に薄い氷が張っていた。畦道ではないが、それを少し広げたくらいの小径を、近くの農家の夫婦者が白い息を吐きながら歩いていた。径の上に落ちた縄ぎれにも、小石にも、霜がつもっている。「あんた」女房が、何かを見つけたような声になって、急に先を歩いていく亭主に言った。「あい(あれ)は、何じゃろな?」亭主は、女房の注意にもかかわらず足を進めていた。女房だけが立ち止まったので、間隔が開いた。「あんた、見んしゃい、あいば?」女房は、少し大きな声を出した。「どいや(どれか)?」亭主は、面倒くさそうに女房を振り返った。その女房は、手をあげて指を突き出していた。  
渡された場面  盗用・四国・海峡文学・文芸界・同人誌・陶芸店・千鳥旅館・妊娠・博多の女・織幡神社・犬・書評・冤罪
坊城町は、佐賀県の唐津から西にほぼ三十キロ、玄界灘に面した漁港の町である。小さな半島の突端で、壱岐、対馬沖はもとより、黄海域まで漁船が往復する。古い湊町にはつきもので、遊女町も発達して、そのことだけでも前からひろく知られてきた。町は深い入江を囲っていて、東側と西側とは早道の海上をつなぐ渡船がある。西側に遊郭があった。雹客の朝帰りには楼主のほうで対岸まで小舟を出す。小舟の二階の手すりにならんだ昨夜の敵娼に袖を振られる。朝は海が濃いので、姿や妓楼が見えなくなっても女たちの嬌声はいつまでも舟に届いた。このような情緒はいまはない。むろん遊郭が廃止され、妓楼はアパートとか旅館などとなり、階下の一部がパアになったりしているからだ。けれども昔の遊廓の輪廓は荒廃したままだが残っている。高い屋根に看板をあげた旅館やバアのネオンは夜の暗い入江に色を投じる。  
小説 帝銀事件  画家・青酸カリ・毒殺・小切手・小樽・GHQ・コルサコフ症状・テンペラ画・スポイト・名刺・731部隊・進駐軍・自白・人相書き・面通し・春画
R新聞論説委員仁科俊太郎は、自分の部屋での執筆が一区切りついたので、珈琲でも運ばせようと思って、呼釦を押すつもりであった。窓を見ると、雨が晴れたばかりで、金閣寺のある裏山のあたりの入り組んだ谿間に、白いがはい上がっている。南禅寺の杜も半分は白くぼやけている。ホテルは蹴上にあって高いところだし、部屋は五階だから、このように俯瞰した眺望になるのである。下には大津行きの電車が、まだ雫の落ちそうな濡れた屋根を光らせながら坂を上がっていた。どのような美しい窓からの景色も、ホテルの長滞在の間には感興を失うものだ。仁科俊太郎は、この部屋で茶を喫むことを思いとどまって起ち上がった。場所を変えたいが、外出すると時間がかかる。四階に広いロビーがあるのでそこで憩むことにした。彼は上着をつけて廊下に出た。すぐ下だからエレベーターを利用する必要はない。彼は緋絨氈を敷いた階段をゆっくり降りた。  
関ヶ原の戦
(私説・日本合戦譚:第八話)
 
豊臣秀吉は、慶長三年八月十八日、六十三歳で伏見城内に死んだ。「と散り雫と消ゆる世の中に何と残れる心なるらむ」が、「秀吉事紀」のある彼の辞世の歌という。世間には、「と落ち露と消えるる我が身かな難波の事は夢のまた夢」の辞世がひろく知られているが、「秀吉事紀」に揚げたほうが、彼の死にぎわの心境が託されている。秀吉は、五月五日、端午の節句の儀式をおわって発病したのだが、六月二日から足腰がたたず、しだいに危篤状態におちいった。彼は生に執着した。人間どんな高齢になっても死にたくないものだが、秀吉の場合、生に異常な執念をもった。子の秀頼が幼いからだ。それに朝鮮役に出征した将兵が、まだ帰還していないことも気がかりの一つだった。朝鮮役は秀吉の一代の不覚で、これは過去の秀吉の輝かしい経歴をご破算にするくらいの失敗であった。 
行者神髄  一月下旬から伊豆の伊東に仕事を持って行っていたわたしは、一週間ぶりに宿をひきあげることになった。伊東駅から電鉄に乗らずタクシーで熱海に向かったのは、電車待ちの退屈をきらったのでもなく、一刻も早く熱海駅から新幹線の「こだま」をとらえて帰京を急ぎたいからでもなく、伊東の宿に滞在している間に果たせなかった熱海市の水口町に行っててみたかったからだ。宿では締切の迫った原稿を書いていたので、近くなのにその時間がなかった。二月初めのその日は朝から小雨が降ったり熄んだりして、海岸沿いを走るタクシーの窓からは近くの波しか見えず、沖合は灰色の海が黒い斑ら雲につづき、東の空ほど暗くなっていた。「熱海はどこですか?」
錦ヶ浦を越えたところで運転手は髭の濃い顔を半分横にしてきいた。 

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