その
十四
 

その
十四

清張作品の題名は「黒の...」とか「霧の旗」・「波の塔」など「の」が多く使われている。

ぼんやり題名の特徴などを考えていたと、きその特徴を整理してみようと思い立った。

まさに蛇足的考察である!


(第三部).

その十四 21/04/21 砂(砂の器・砂漠の塩・砂の審廷(小説東京裁判)


砂の器【読売新聞・夕刊】(1960年(昭和35年)5月17日〜1961年(昭和36年)4月20日)

砂漠の塩【婦人公論】(1965年(昭和40年)9月号〜1966年(昭和41年)11月号)

砂の審廷(小説東京裁判)【別冊文藝春秋】(1970年(昭和45年)12月号〜1971年(昭和46年)9月号)


「砂」一文字だが、イメージは強烈だ。はかなく、もろく、その姿を変える。
作品は、1960年・1965年・1970年と5年おきに長篇作品として1年近く連載されている。

中央流沙」という作品もあるが、「流沙」で、「流砂」ではない。
ただ、イメージは「流砂・流沙」そのものである。

※goo 辞書
りゅう‐さ〔リウ‐〕【流砂/流沙】 の解説
1 水に押し流されて運ばれた砂。りゅうしゃ。
2 水を含んで流動しやすい砂。りゅうしゃ。
3 砂漠。特に、中国西北方の砂漠をさしていう。りゅうしゃ。


「流砂」も「流沙」も同じ意味で砂漠を指しているとは...


あまり意味は無いだろうが、書き出しを...
■『砂の器
言わずと知れた、超有名作品。映画化され大ヒット。

第一章
トリスバーの客 国電蒲田駅の近くだった。
間口の狭いトリスバーが一軒、窓に灯を映していた。十一時過ぎの蒲田駅界隈は、普通の商店がほとんど戸を入れ、スズラン灯の灯りだけが残っている。これから少し先に行くと、食べもの屋の多い横丁になって、小さなバーが軒をならべているが、そのバーだけはぽつんと、そこから離れていた。場末のバーらしく、内部はお粗末だった。店にはいると、すぐにカウンターが長く伸びていて、申しわけ程度にボックスが二つ片隅に置かれてあった。だが、今は、そこにはだれも客は掛けてなく、カウンターの前に、サラリーマンらしい男が三人と、同じ社の事務員らしい女が一人、横に並んで肘を突いていた。客はこの店のなじみらしく、若いバーテンや店の女の子を前に、いっしょに話をはずませていた。レコードが絶えず鳴っていたが、ジャズや流行歌ばかりで、女の子たちは、ときどき、それに合わせて調子を取ったり、歌に口を合わせたりしていた。


■『砂漠の塩
たしか、恋愛小説だった。

窓の外は依然として白い色がつづいていた。野木泰子は、ときどき、うす眼をあけてはそれを眺めた。眼にうつる変化は何もなかった。機内の客は、ほとんど話し声を絶ち、眠るか、本を読むかしていた。一人の日本娘を含めたスチュワーデスは三時間前に昼食とも夕食ともつかぬものを運んでからは姿を消ししてしまい、懶い機関の音だけが足もとに震えていた。乗客の大体三分の一くらいで、三つならんだ椅子席が、どの列も一つか二つ空いていた。泰子の座っている隣りの席も二人ぶんの手回り品の置き場所になっている。その隣りは、新聞社に勤めているという三十歳の女が椅子を倒して頭をうしろに投げ出していた。日本人が四割、外国人が六割くらいだった。このパリ行きのエール・フランス機の乗客に日本人が多いのは、泰子もその一員となった旅行社の観光団が十五人いるからであった。


■『砂の審廷

副題が、「小説東京裁判」

ずっと前、わたしが購入した古本のなかに、「戦災日記」と題した個人のノートがあった。粗悪な紙の学童用ノートブック三冊にインキの字がびっしりと詰まっている。ぱらぱらとページをめくると、昭和二十年四月から七月までの間、空襲下の東京の生活が書かれているので、あとで何かの参考になると思い、ほかの本といっしょにしまっておいた。わたしは空襲時の東京を知らない。いつだったか、ある日、ほかの本を探すついでにこのノートを取出して開いてみた。「昭和二十年四月十日午前二時、憎ムベキ米機ノタメ戦災ヲ受ク。百七十機来襲。東京都牛込区喜久井町三丁目八一番地 蒲田義孝 五十一年 同 常子 四十七年 同町高橋精三君宅ノ斡旋ニヨリ、同番地長生館二階ニ移転ス。同君宅ト共同炊事生活ヲ始ム。新小川町罹災者二万余名。町内役員ノ労苦思フベシ。観世能楽堂、長生館等ハ収容ノ尤ナルモノニシテ、一部ハ江戸川アパートニモ入レリ」第一ページはこういう書き出しだった。蒲田義孝はこのノートの筆者である。


蛇足だが、「砂の器」も「砂漠の塩」も窓からの風景が出だしだ。



2021年04月21日記