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A「春の血」と「再春」徹底検証 | |
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比較表 | |
「春の血」(松本清張作) | (鳥見可寿子作)「再春」 |
●初出 「文藝春秋」1958年(昭和33年)1月号 | ●初出 「小説新潮」1979年(昭和54年)2月号 |
●再録 装飾評伝(筑摩書房)1958年(昭和33年)8月 延命の負債(角川文庫)1987年6月25日 |
●再録 隠花の飾り(新潮社)1979年(昭和54年)12月5日 |
全集には収録されていない。最終的には、「春の血」の方が最後に出版されている。 清張自身、「再春」を書くことによって、「春の血」を抹殺しようとする意志はなく、 その作品に自信を持っていたのではないでしょうか。 敗者の弁は、 「トーマス・マンを読んでいなかったのが自分の無知であり不幸であった」 であり 先に書いた作品のほうが勝ちなのである。 に 尽きる。 |
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秋日和が一週間ばかりつづいた日、田恵子がやってきた。庭から入ってきて、陽が当たる縁側に腰かけ、短冊の文字を古書の玻璃版から手習いしている良子の筆つきを眺めていた。その様子に何となくく元気が無かった。もとから撫で肩だが、それが一層落ちているように見えた。 「今日は元気がないわね」 良子は連字を練習しながらいった。 「ねえ、ちょっと」 田恵子は低い声で呼んだ。いつも甘えかかったような声だが、今日は少し口吻が異っているように感じた。良子は筆を止めて眼を挙げた。田恵子は黙って眼顔で招いた。 顔が触れ合うように傍によると、田恵子は良子の耳にささやいた。 「ねえ、あなた、まだあれあるの?」 かそかな口の臭いが良子の鼻に漂った。声にはならず、殆ど囁きだった。一、二、秒見当がつかなかったが、良子はその意味を諒解した。それから自分のことを確かめた。 「あるわよ。どうして?」 どうして、と訊いた瞬間に、良子は解いた。それから顔を離れて、改めて田恵子の顔を見た。きれいで、皺の少ない顔であった。 「あがったらしいわ、もう」 田恵子は微笑していたが、予期せぬ狼狽はかくれもなかった。 良子は、分り切った田恵子の年齢を心の中で検べた。自然と顔が息を呑む表情になった。 「本当? 違うんじゃない? いつから無いの?」 田恵子は首を振り、三月以来無いといった。茫乎とした眼つきになっていた。 「もう、そうかしら? 五十四、五にならないと来ない筈だけどね」 良子は疑るようにいった 「早い人だと四十五、六からそうなんですってよ」 田恵子は悲しそうに反駁した。 良子は、すぐに慰める言葉が出なかった。自分に有って、田恵子に無いというところに心の咎めがあった。不公平な立場は慰撫に当惑した。憐愍にとられては困るのである。さすがの良子も黙ったままでいた。 田恵子はぼんやりしていた。眼を隣家の庭の鳥頭に遣っている。遠い、その強烈な色に救いを求めるようにみえた。意志ではないことが身体で起こた。死と同じように一方的で暴戻な現象である。田恵子は縁に片手を突き、ずり下がって行く意識を支えるようだった。老いが匍い上がってきて彼女の身体全体を支配してしまったのだ。 「大丈夫よ」 と良子はいった。何が大丈夫なのか自分でも咄嗟に出た言葉で意味をなさなかった。それから、急いでつけ加えた。 「私だってもうすぐよ。ばかね。しょげたりしちゃって」 田恵子はそれを聴いて口の中で笑った。気を変えたのではなく、心ではまだ足掻いているに違いなかった |
秋日和が一週間ばかりつづいた日、海瀬良子の家に友だちの新原田恵子が遊びにきた。庭から入ってきて、陽が温めている縁側に腰かけ、玻璃版の古筆を手本に手習いしている良子の筆つきを黙って眺めていた。その様子がなんとなく元気がなかった。撫で肩が一層落ちているようにみえた。 欧州詢の九成宮令泉銘を見い見いして楷書の練習をしている良子にむかって横から田恵子は、ねえ、ちょっと、と低い声で呼んだ。 「ねえ、あんた、まだあれあるの?」 田恵子の、かそかな口の臭いが良子の鼻に漂ってきた。ほとんどささやきだった。 「あるわよ。どうして?」 どうして、と聞いた瞬間に、良子はその意味が解けて、改めて田恵子の顔を見た。きれいで、皺の少ない、白い顔であった。 「わたし、あがったらしいわ」 「ほんとう? 違うんじゃない? いつからないの?」 田恵子は三月前からそれがないといった。その微笑の中に狼狽がひそんでいた。 「もう、そうかしら? 五十をすぎないとこないはずだけどね」 「早い人だと四十四、五ぐらいからそうなるんですってよ」 四十五歳の田恵子はかなしそうに反駁した。そうしてしばらくぼんやりしていた。眼を隣家の庭に燃える葉鶏頭の先に遣っている。強烈な紅い色を摂取したそうにみえた。自分の意志ではないことがいま身体で起こっている。女にとって死と同じように一方的で暴戻な支配であった。田恵子は縁側に片手を突いていたが、まるでずりさがっていく意識をそれで支えているようだった。早くも老いが匍い上がってきて彼女の身体ぜんたいに蔓延しているようであった。 「大丈夫よ。わたしだってもうすぐよ。ばかね。しょげたりしちゃって」 すると田恵子は口の中に呑みこむような笑いかたをした。気を変えたのではなく、心ではまだ足掻いているに違いなかった |
田恵子が一日置いて遊びに来た。良子はそれとなく彼女を観察した。相変わらず、甘さはその所作に纏っていたが、それもよほど落ち着いている。顔があっさりして垢抜けていた。見ると着物まで沈んだ色のものと取り換えている。更年期を越したばかりの女は、こうして次第に淡泊になるのであろうか。 「田恵子さん」 と良子は微笑しながら呼びかけた。 「あなたに、とてもいいお話があるのよ」 夫が持って帰った話を概略を取り次いだ。最初から熱心になることはなかった。田恵子が断るにきまっていた 田恵子は聴いて耳朶を赭くした。羞恥がこのひとの身上である。しかし、眼が熱心になり、光りを帯びてきた。良子は、思わぬものにつき当たって恟然とした。 「考えてみるわ」 と田恵子はいった。無論、承諾の意志である。顔の淡泊が消え、粘液のようなものが皮膚に光ってきたように思えた 「それ見ろ」 と夫は話を聞いていった。 「田恵子さんとお前とでは立場が違うといっただろう。向こうは未亡人だからな」 「五十近くになっても、そんな気持ちが起きるものかしら。ひとりの方が、よっぽど呑気でいいと思うんだけど」 良子は、田恵子の老いの兆しのことを考えていた。想像とは違うようだった。 「そりゃそうさ。六十になっても後妻に行く人もあるからね。お前さんもひとりになったら分かるかもしれない」 「真っ平だわ」 と良子は言下にいった。それから間を置いて、 「いやらしいわ」 と呟いた。ここに居ない田恵子に投げかけていたのである。 |
一日置いて田恵子が遊びにきた。良子はそれとなく彼女を観察した。相変わらず甘さがその身ぶりにまつわっていたが、それも前よりはよほど落ちついていた。顔から脂気がとれ、あっさりとした感じであった。着物まで沈んだ色のものに替えている。普通の年齢よりは早く更年期を迎えた女は、こうしてそれに適合させ、しだいに淡泊になってゆくようだった。 「田恵子さん。あなたにとてもいいお話があるのよ」 良子は、夫の持って帰った再婚話の概略を取り次いだ。熱心になることはなかった。田恵子が断るにきまっていた。 田恵子は聴いて頬をかすかに赧らめた。照れるのがこの人の身上である。しかし眼つきは熱心になり、瞳に光りさえ帯びてきた。 「考えてみるわ」 田恵子は言った。その瞬間、粘液のようなものが彼女の淡泊な皮膚に光ったように見えた。良子は思いがけないものにつき当たって恟然とした。 「それみろ」 帰ってきた夫は良子の話を聞いて言った。 「田恵子さんとお前とでは立場が違うといっただろう。向こうは未亡人だからな」 夫の言い方に、反論はあったが、口には出せなかった。 「五十近くになっても、そんな気持ちが起るものかしら。独身のほうがよっぽど呑気でいいと思うんだけど」 良子は、田恵子からうちあけられた老いの兆しのことを考えていた。想像と実際とは違うようだった。 「そりゃそうさ。六十になっても後妻にゆくひともあるからね。お前さんも独りになったらそれがはわかるだろうな」 「おお、まっぴらだわ」 良子は言下にいった。それからすぐに、 「いやらしいわ」 と呟いた。この場に居ない田恵子に投げかけていたのである。 |
三か月ばかり経って、田恵子は九州から遊びに戻って来た。 良子の所に来たとき、田恵子は終始、身体を曲げて笑いこけた。かおおは、しかし、疲労の色があった。無論、幸福の結果には違いなかった。 「随分、仕合わせそうね?」 良子は観察したあとでいった。 「とても」 と相変わらず臆面もなかった。 「主人ね。とても可愛がってくれるの。うまくゆきそうだわ」 うっとりした口吻がその言葉にあった。良子は炭坑主の顔を思い出し、どこかで寒気を覚えた。それからあまりに愉しみが多い末であろう、田恵子の蒼白い顔に少し腹を立てた。 「ねえ」 と田恵子は昔の甘えかかった調子で呼びかけ、良子ところに躙り寄った。 「ご心配駆けたけどね、あれ、あったのよ」 良子は意味をとるのに迷ったが、やがてそれが解ると、え、と田恵子の顔を瞶つめた。瞬きもしないくらいだった。 「本当?」 ええ、と田恵子はうれしそうにうなずいた。 「最近よ」 奇跡が起こったのだ。田恵子の精神が遂に身体の生理を捻じ伏せたのであろうか。すすみよる老敗の浸食を押し戻したのである。彼女が絶えず笑いこけるのは無理もなかった。絶望から見事に脱出したのだ。 「そう。よかったわ」 良子は、まだ眼を放さず、息を肺まで吸い込んで吐いた。 「有難う。これから、とてもうまくゆきそうよ」 希望に充ちた明るい顔だった。声まで弾んでいる。眼が輝いていた。もはや、お茶の先生の免状を取る必要はなかった。。世にも幸福な女だった。彼女の意志が去った青春を取り戻した。いや、それをとり戻させたのは、炭坑主の熱心な愛し方であったろうか。 「子供が欲しいわ。この年齢になって嗤われるかも分かんないけど」 田恵子の陶酔は、果てしがなかった。 |
三ヵ月ばかり経って、田恵子は九州から里帰りした。良子の家にきたとき、田恵子はすぐに身体を曲げて笑いころげた。仕合わせに満ちた顔には疲労の色がみえた。幸福の結果にはちがいなかった。あまりにも多い愉しみの末か、田恵子は蒼白い顔をしていた。 「ねえ」 田恵子は昔どおりの甘えかかった口調で呼びかけ、良子の傍に躙り寄ってきた。 「ご心配駆けたけどね、あれ、あったのよ」 良子はすぐに意味をとりかねたが、それがわかると、田恵子の顔を瞬きもしないで見つめた。 「ほんとう?」 ええ、と田恵子は全身を動かすようにして大きくうなずいた。 「最近よ」 奇跡が起こったのだ。田恵子の精神的な昂揚がついに身体の生理を捻じ伏せたのである。進む老廃の浸食を喰いとめたばかりか、再びの春まで押し戻した。田恵子がたえず笑いころげるのも無理はなかった。 「そう。よかったわ。お祝ものね」 良子はまだ田恵子から眼を放さないで、呼吸を肺の奥まで引き入れた。 「ありがとう。これから、とてもうまくゆきそうよ」 希望が太陽の光のように放射する幸福な顔であった。 「子供が欲しいわ。この歳になって嗤われるかもわかんないけど」 田恵子の陶酔には涯しがなかった。 |
それから一年ばかりの間、良子は九州の田恵子と何となく文通が隔たっていた。彼女のことを思わないではなかったが自然と途絶えた。すると一年を過ぎたある日突然、田恵子の夫から一通の死亡通知を貰った。 「愚妻田恵子儀、かねて子宮筋腫婦人病を患い療養中のところ、肉腫を併発し、薬石効無く、去る×日死去仕り候。死に至るまで意識明瞭にて、絶えず貴女様のことを何かと口に上げし候。ここに生前の御交誼を謝し−−−」 良子は眼の先が昏んだ。その場に跼り暫く身動き出来なかった。田恵子は死んだ。 「あれ、あったのよ」 と喜んでいった言葉がまだ耳の奥に残っている。青春を奪い返した兆の血ではなかった。彼女の喜びは、彼女の生命を奪う前触れの出血であった。 良子は何度も文句を読み返した。それから、無邪気な友を喪った悲しさが胸に迫り、泪を流した。 |
それから半年ばかりの間、良子は九州の田恵子と何となく文通が絶えていた。彼女のことを想わないではなかったが、しぜんとそうなった。 一年を過ぎた或る日、とつぜん田恵子の夫から。黒枠のハガキをもらった。 「愚妻田恵子儀、かねて療養中のところ薬石効無く、去る四月九日永眠仕り候。茲に故人生前の御交誼を拝謝し・・・・・・」 ハガキの余白には、田恵子は子宮内膜が癌に侵されて、手術するにも手おくれだった、と彼女の夫のペンで書いてあった。 良子は眼の前から急に光が凋み、あたりが夕暮れのように見えてきた。 (あれ、あったのよ) よろこびにはずんだ声が耳にこびりついている。青春に再びたち戻った兆の出血ではなかったのだ。 良子は何度も文句を読み返した。無邪気な友を喪ったかなしさが胸にしだいに迫ってきた。 |
『春の血』は、「再春」に対応させて書き出しました。 良子の夫が持ち込んだ田恵子の再婚話も具体的です。 再婚話を持ち込んだ理由も、重要な背景としてあります。 そして、再婚相手も九州の炭坑主で、容赦のない醜男と して登場します。 結婚式の状況など、かなり書き込んであります。 『春の血』は、文字数12000、40枚程度の作品でしょう。 |
『再春』の中で、鳥見可寿子作とされる「再春」は、これで (上記で)ほぼ全文再現しています。全16ページ中5ページ 程度です。 約1/3ですが、かなりのページ数です。 清張は30枚の短編(著者あとがき)と言っています。 したがって、文字数は9000程度でしょう。 再婚話は具体的に書かれていません。 再婚相手も不明です、九州に嫁いだ程度のことしか分かり ません。 |
漢字も忠実に再現してみました。
全体に「春の血」の方が長い。「再春」の方が単純化されているようだ。
文学的に、どちらの表現がすぐれているか、私には判断しかねる。「再春」に推敲の後がうかがえるように思います。
「春の血」=かそかな口の臭いが良子の鼻に漂った。声にはならず、殆ど囁きだった。
一、二、秒見当がつかなかったが、良子はその意味を諒解した。
それから自分のことを確かめた。
「再春」=田恵子の、かそかな口の臭いが良子の鼻に漂ってきた。ほとんどささやきだった。
「再春」では、かなり削られている。
「春の血」=身体を曲げて笑いこけた。
「再春」=身体を曲げて笑いころげた。
の変化も面白い
そして
作品のテーマは少し変わっている。
「春の血」は、女の血が実は、彼女の生命を奪う前触れの出血であった、そのことです。
しかし
「再春」は、
「再春」発表後、思いがけない非難が「鳥見可寿子」を襲撃する。
その襲撃への
アンサー小説である。
「再春」の最後は、和子(鳥見加寿子)が小説のヒントをくれた、「川添菊子」を疑うが...
しかし、和子(加寿子)は頭を振った。いやいやそんなはずはない。
あの童女のような、純真、あどけなさをもっている川添菊子にそのような邪心があるとは信じられない。
菊子夫人はどこまでも自分に好意を持っていてくれていたのだ。
材題に困っているのを察して癌で死んだ友だちの話をしてくれたのだ。
世の中には「再春」の話も「欺かれた女」の話も実際には多いはずである。
と
結論に進んでいる。
清張的には、「あの童女のような、純真、あどけなさをもっている川添菊子」 こそ疑わしいのではないか?
限りなく「川添菊子」が疑わしい状況で終わるのが「自然」という感じがする。
しかし
「トーマス・マンを読んでいなかったのが自分の無知であり不幸であった」
「これで中央の文壇に出ることも、夫の東京本社転勤も挫折した。鳥見加寿子も永久に消えてしまう−−−」
「和子は、夫が帰宅する前に、町へ人形を買いに出た。まるで家に子供が居るように。」
と
あきらめのよい終わり方である。
清張の結論は
世の中には「再春」の話も「欺かれた女」の話も実際には |
先に書いた作品のほうが勝ちなのである。
だから「再春」は、「春の血」の
「アンサー小説」
なのでは......
それにしても
誰も触れていない、清張自身も...
この経緯をご存じの方は教えて下さい。
2006年8月22日 素不徒破人
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追記
ありました!
本格的に(私にとって、ですが)調べてみました。
と、いってもインターネットだけですが。
既に指摘されている方がいました。
ねずたんとねこたん |
黒革の手帖・隠花の飾り (2004/11/02)
もう一つの世界 - 欺かれた女(2005/04/12)
当然ですが
それにしても
あまり大きな話題にもならず(私が知らないだけなのか?)、今日まで来たのは
「清張研究家」は、大勢いると思いますが、取るに足らないことなのでしょうか?
ここで
私の結論
本来なら『再春』が【隠花の飾り】に収録されるとき
清張氏自身が、「あとがき」で、その経緯を簡単にでも記する責任があったのではないでしょうか
そこでは
「三十枚でも、百枚にも当たる内容のものをと志向した。そのとおりになっているかどうか読者の判断に待つほかはない。」
と記されていますが......
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(終わり)
2006年8月22日 素不徒破人