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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その二十六:隠匿(物資))

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
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●隠匿〈物資〉
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考える葉
高校殺人事件」(原題=赤い月
雨の二階」(絢爛たる流離 五話)
夕日の城」(絢爛たる流離 六話)
遠い接近

老十九年の推歩は、少々内容が異なります。

清張作品には他にも、終戦間際のどさくさに紛れて大量の軍事物資を隠匿した事件をテーマにしたものがあると思う。
『考える葉』は、ズバリ隠匿事件がテーマになっている。

映画の『球形の荒野』でも、「村尾芳生」に語らせている。(小説では直接触れられていないようだ)

■〈物資〉
書き出しの検索では〈物資〉で、3作品が検出できた。
絢爛たる流離 第五話 雨の二階」・「絢爛たる流離 第六話 夕日の城」・「老十九年の推歩

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※NHKアーカイブスに当時のニュース映画が残されている。

------------------隠退蔵物資事件(いんたいぞうぶっしじけん)------------------------------------
旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、
GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなった事件。
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●NHKアーカイブス/ニュース映画【放送時期:1947年】
物資はまだある 世耕事件

8月22日の隠退蔵物資委員会では経済安定本部の摘発態度が問題となりました。
《中野四郎氏(農民党)》
「安本の事務官が6月5日、7月12日、再三再四にわたって摘発にまいっておりまするが、
実際上は隠匿物資なしという報告をしております。
しかしながら、摘発にあたりました結果におきましては、相当量の隠匿物資、退蔵物資、
ないしは遊休物資と目されるものが続々と出ておるのであります」そこで委員会は8月31日、
安定本部の摘発ぶりを監視するために岩手県花巻市に向かいました。
その結果、市内13個所のうち1個所からだけでも莫大な物資が出てきました。
まず砂糖、それから毛糸、綿糸、ガソリン、以外にもたばこまでが続々現れました。
急がないとほかのが姿を消すかもしれないというので、とりあえず厳重に封印して次の場所に向かいました。
あとまだ出る模様です。

〈舞鶴〉世耕事件以後、隠退蔵物資は各所で話題を集めていますが、
舞鶴元軍港には退蔵物資が残されており、運輸省の手で1か月にわたって引き上げられました。
〈大阪〉また12月18日には、大阪扶桑金属へ労農市民協議会が隠退蔵物資の摘発に乗り込んだことから、
労働組合と衝突するなど、いろいろな問題が注目を集めています。
一方、12月20日、松岡衆議院議長は隠退蔵物資をめぐる人々の不正行為を断固摘発すると声明しました。
《松岡衆議院議長》終戦以来、責任ある地位にあった者が、いかにその職に適正を欠き、
資材を不当にも供給者の利益のために提供したかがきわめて明白なる事実となった。
《加藤勘十氏》もし調査の結果、それが閣僚であれ、高級官吏であれ、政党の庶僚であれ、
あるいは財界人であれ、そういうことには頓着なく、本当に国家再建のその気持ちからですね、行われなければならんと思います。

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2021年12月21日

 



題名 「隠匿〈物資〉 上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
考える葉 銀座・ステッキ・留置所・新興財閥・保守党・調査団・隠匿物資・硯の原石・甲府
その男は銀座を歩いていた。彼は、三十五六ぐらいに見えた。大きな男で、体格がいい。薄ら寒い宵だが、オーバーも何もなかった。くたびれた洋服を着、踵の減った靴をはいていた。ネクタイは手垢で光り、よじれていた。だが、彼は、伸びた髪をもつらせ、昂然と歩いていた。すれ違った者が思わず顔をしかめたのは、その男の吐く息がひどく酒臭かったからだ。夜の八時ごろというと、銀座は人の出の盛りである。四丁目の交差点から新橋側に歩き、さらに最初の区画を右にはいると、高価な商品を売ることで名の高い商店街がある。どの店もしゃれた商品をならべ、通行人の眼をウィンドーの前にひいていた。品もいいが、溜息が出るほど高い正札がついいていた。この通りをどこでもいいが、左に曲がっても右に曲がっても、夜の銀座の中ではいちばん人の歩きが多かった。 
高校殺人事件 武蔵野台・城跡・詩人・沼の底・武古郷土館・若い坊さん・いとこ・享光院・和尚・財宝・横穴・兵隊・防空壕・隠匿物資
高等学校は城山にあった。城山といっても、べつに石垣があるわけではない。武蔵野台地の一画で、普通の小さな丘であった。クヌギ、ケヤキ、カシなどの雑木が密生している。城跡だといわれると、丘の下に空濠の跡が溝のようについていて、わずかにそれだと知られるくらいであった。戦国時代、小田原北条がたの豪族がここに小城を築いていたということだった。この城跡の下には、享光院という寺になっている。由緒ある寺だが、今は荒廃して、めったに参詣人がない。もっとも、交通の便利が悪い。中央線の駅まで都心から一時間半ぐらいかかるが、その駅からバスで五十分ぐらい要する。バスも回数が少ない。バスを降りて、田舎道を二十分ぐらい歩かねばならなぬから、都心からの参詣人がないのも当然だった。しかし、まるきり訪う人がいないか、といえばそうではない。ときたま、四、五人連れの人が寺のまわりをゆっくり歩いているのを見かけることがった。彼らは、手帳を出して、何か案じ顔に首をかしげては、鉛筆をなめていた。多くは年輩者だった。つまり、彼らは俳人であった。 
遠い接近 ハンドウ・色版画工・衛生兵・兵事係・佐倉聯隊・私的制裁・古参兵・ヨーチン・医学書・首つり・竜山・ヤミ市・鈴鹿・隠匿
夏が過ぎ、九月にはいると,どこの印刷所もぼつぼつ活気を帯びてきた。連日徹夜をしてもまだ足りない一二月の忙しさがこのころからぼつぼつはじまる。自営の色版画工の山尾信治には夏でも仕事の切れ間がなかった。小川町の裏通りにすんでいる彼は、神田から四谷にかけて二つの大きなオフセット印刷所と三つの小さな石版印刷所を顧客に持っている。戦争がしだいに激しくなってきていたが、信治の仕事は、減らないばかりか、かえって忙しくなっていた。色版画工は、二色以上の印刷物の原版を描く。原画を見ながら、色別に分解して描き分ける。多色刷りの場合は、三原色の版に補色が二版、それに墨(クロ)版を入れて六色の版を描き分ける。濃淡やボカシにはフィルムの網目をこすりつけて調子を出す。中間色は三原色混合の法則に従って、色と色とをかけ合わせる。 
雨の二階
(絢爛たる流離 第五話)
軍需省。運転手・拷問・隠匿・福岡市・丹沢山塊・ヤミ市・興国商事・焼ビル・長靴・札束・ヒステリー・フランネル
終戦時、畑野寛治は軍需省の雇員であった。西部軍司令部管下の仕事をしているため、福岡に駐在していた。畑野の場合は運転手だった。彼は絶えずトラックを運転して軍需物資の運搬に走り回っていた。管下では、司令部のある福岡をはじめ、小倉、久留米、佐賀などの連隊があり、さらに板付、大刀洗などの航空隊があった。これらの諸隊に補給される物品は、軍用貨物で送られて来るものを軍司令部が軍需部に連絡し、積下し駅で受領して、各隊に回すのである。畑野は、そういう貨車が到着するたびに、福岡市外の軍需省特別倉庫との間をトラックで往復した。当時、三十三歳であった。二十二歳から六年間、自動車隊として転職したことがあるが、除隊となったとき、二度と兵隊にとられたくないため、いち早く軍需省の雇員となったのである。彼の性質が明朗だった上、小才が利くので、上官から可愛がられていた。 
夕日の城
(絢爛たる流離 第六話)
粟島政治経済研究所・豪農・白壁・精神障害・跡取り息子・変態性癖・骨董品・古物商・全裸の男・政治ブローカー
山辺澄子にその縁談があったのは、秋の半ばだった。澄子の父親は、本郷の裏町で古物屋をしている。ひと頃は、終戦直後の物資不足で、古道具も品物さえあれば面白いくらい儲かった。それで多少金が出来て、父親のかねての念願だった骨董を扱うようになった。父親は自分では骨董商と言っている。店の横に小さな飾窓を取り付け、薄縁を敷いて、その上に古い皿や壺、刀などを並べ、ひとかどの骨董商の店の構えを造った。澄子はある会社の事務員をしていたが、二十五歳になっていた。それまで縁談はあったが、どういうものか、まとまらなかった。彼女の過去に恋愛らしいこともないではなかったが、これも結婚までには進まなかった。その縁談を持ち込んできたのは粟島重介といって、戦後に一度代議士になった男である。今では京橋に「粟島政治研究所」という看板を掲げている。 
老十九年の推歩  佐原市の旧い通りを歩いたが、そこは市庁舎など近代的な建物が集まっているところとは離れて場所で、道幅はせまく、車のすれ違いも不自由なくらいだった。古い家並みにあとから新しい様式の家が割りこんだ形はどこの旧城下町にも見られる光景だが、房州佐原は城下町でないにしても、江戸時代に利根川の舟便の発達から物資集散河港として栄えた。古い家並みの中には土蔵造りの商家がところどころ挟まっている。ある書籍店は桟瓦葺きの屋根で切妻造り、二階建ての黒塗り土蔵造り、入り口は狭く、鎧のように重々しく、絵草紙の背景から抜け出たような構えである。また、その近くの蕎麦屋にしてもやはり切妻造り桟瓦葺き、明治中期とのことだった。そういうものを眺めながら小野川べりに出た。 

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