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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その十六:梅雨)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
(登録キーワードも検索する)


ページの最後


長引く梅雨。
天気予報は曇りマークと傘マークばかり(7月15日現在)
そんなわけで、「梅雨」がテーマというか、キーワード。

梅雨は細い雨と蒸し暑いのが普通だが、今年は雨があまり降らない。

>十月に入って、梅雨のような天候がつづいていた。

>「すっかり梅雨だね」高尾庄平はタクシーの運転手の背中に話しかけた。

梅雨が終わって暑さがはじまっていた。

>慶長十九年夏五月の梅雨明けの暑さである。

さすがに、「梅雨」で、季節が明確になっている。が、
>『十月に入って、梅雨のような天候がつづいていた』は、比喩で、
実際は十月と言うことである。この表現だけが他とは違っている。

季節として、春夏秋冬を表すのと同じように俳句の季語的な表現と言って良いだろう。
「春夏秋冬」は、その十三を参考に。

「雨」「雪」「霧」でもかなりヒットする。
「五月晴れ」「小春日和」「夕立」「雷雨」「秋晴れ」ではヒットしなかった。
清張には曇天が似合うのか?

「晴れ」では、
黒い画集 第七話 凶器・塗られた本・小説帝銀事件・小説日本芸譚 第二話 世阿弥・
大奥婦女記 第四話 予言僧・恐喝者・火の路(上)が、ヒットした。



2019年07月21日

 



題名 「梅雨」
上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
●「神の里事件   播磨風土記・バスガール・巫女・豊道教・高産儒教・鍛冶屋・教祖御神鏡・新興宗教・加古川
 平野部を走って一時間以上にはなる。六月の終わりだが曇った天気の、妙にうすら寒い日だった。梅雨は細い雨と蒸し暑いのが普通だが、今年は雨があまり降らない。連日鉛色の雲が居すわって冷たい空気を隙間風のように送ってきている。東京もそうだがこっちに来ても同じだった。平野部では田植えが行われていた。雨がなくとも川の水があるからだろう。その加古川はバスの窓にたえず附き添っている。町に出たり、丘があったりして、ちょっとの間は消えるが、すぐその鈍い光の川面を気づがわしげに現す。バスの乗客は一二,三人である。途中の停留所で乗降があったが、いまはこれだけである。引地新六を除いてはみんな土地の者らしい。それでも出発点から乗った者はほかに三人はいた。乗客は話をしないで居眠ったように黙っている。外も見えない。もっとも単調な田圃や畑では眺めても仕方がない。
●「式場の微笑  結婚披露宴は、都内のホテルで、午後四時からと金ぶちの案内状にはあった。生憎と朝から小雨が降っている。十月に入って、梅雨のような天候がつづいていた。案内状は、浜井、園村両家の連名になっていた。《−−今般、浜井源太郎長男祥一郎と園村鉄治二女真佐子との縁組み相整い、R銀行常務取締役室田恒雄殿御夫妻御媒酌のもとに、十一月八日午後四時より−−》杉子には新婦になるひととは縁がない。新郎になる浜井祥一郎とは高校・大学時代を通じての同級生で、大学のころは「縁滴会」でも一緒だった。「縁滴会」は大学内の茶道の会で、外からお師匠さんが出張してきた。案内状は父親の名だけしか書いてないから新婦になる女性の環境は杉子に少しも分からなかった。祥一郎の父親は、日本橋で商事会社の社長をしている。雑貨問屋としては老舗のほうで、父親が二代目、祥一郎が三代目をつぐことになっており、げんに彼は若いのに同社の専務兼営業部長だった。
●「雑草群落 (上)   雨は昼間より激しいものに見えた。ヘッドライトの先の舗道に白い水煙が立ち昇っている。「すっかり梅雨だね」高尾庄平はタクシーの運転手の背中に話しかけた。運転手は返事をしない。車を止めて煙草を吸っている。前に車の列がつかえているので、不機嫌だった。新宿から甲州街道へ抜ける西口のあたりはことに混雑する。夜の九時ごろだが、いつもだと、すいているのに、雨のせいで、数も多く、容易に進めない。ワイパーだけがフロントガラスにいそがしく回転していた。遠くの信号が青に変わっても車はわずかに進んだだけだった。運転手は舌打ちして煙を吐く。「雨が降ると、君たちも忙しいね」高尾庄平は愛想を言った。「いくら忙しくても、こう走れないんじゃ商売にならないよ」運転手は、いらいらした声を投げた。庄平は、雨滴れの流れている窓から外をのぞいていた。商店街の明るい灯の下では無数の傘が動いていた。
●「熱い絹 (上)  燃えさかった太陽がようやく西へ落ちたが、濁った靄ともつかぬ雲の中にたゆっている。梅雨が終わって暑さがはじまっていた。せまい通りを歩いているとよけいに汗ばみをおぼえる。商店街の灯も蔭になった店は点いているが、そうでない店は残りの日射しをうけた昼間であった。遠くのビルの灯も、どっちつかずの曖昧なともりかたで、こうした風景は人の心をなんとなくいらだたせる。昭和四十二年(一九六九)七月のある夕方であった。山形佐一は赤坂見附から一本西に入った商店の通りを歩いていた。どういうわけでそんな場所を歩いていたか、あとになってもよく思い出せない。もしかするとデザイナー仲間の会合の帰りだったかもしれない。あるいは、京都からきた友禅染めを扱う問屋と打ち合わせをしたあとだったかもわからない。山形佐一は現在服飾デザインにたずさわっていた。 
●「二すじの道  炎天の下を土煙をあげて西に急いでいる騎馬の軍勢がある。江州守山の附近であった。慶長十九年夏五月の梅雨明けの暑さである。照りつける陽で草も木も茹だったように生色がない。この軍勢は越後六十万石松平上総介忠輝の部隊である。忠輝は家康の六番目の男子だ。今度、大坂の豊臣秀頼方との二度目の手切れにより、大和口の大将を承って合戦に急いでいる途中であった。急いでいるのには理由があった。忠輝の軍が美濃まで来た時、紀州浅野長晟の軍勢が既に泉州樫田で交戦しているという報告が入ったからである。戦機に遅れないためだった。「急げ、早く、早く」二十四歳の忠輝が黒い顔で叱咤した。忠輝は眦裂け、唇大きく、色黒い醜顔である。母は容姿艶麗な阿茶(遠州金谷の鍛冶屋職の後家)だが、生まれた時、その顔を眺めた家康が、「可愛気のない顔だな。棄てよ」と、渋面をつくったといわれるくらいである。 

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