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春、弥生、三月、と言うことで「桜」にしました。桜の花の「桜」です。 さすがに?題名に「桜」はありませんでした。と思ったが 「「桜会」の野望」(【昭和史発掘】第十一話)があった。 書き出しに「桜」が登場すると言うことは、季節が春なのでしょう。 清張作品としては、現代物に「桜」はあまり似合わない...気がします。 時代物作品として ●逃亡(原題=江戸秘紋) ●西連寺の参詣人 ●二代の殉死 ●逃亡者 現代物作品として ◎六畳の生涯(黒の図説 第五話) ◎笛壺 ◎二つの声(黒の様式 第四話) ◎聖獣配列(上) 仲良く四作品ずつ。だが 「逃亡者」の桜は、桜井熊野城主...のなかの「桜」なので、おまけです。 「二つの声」の桜は、水原秋桜子...なのでこれもおまけ 「聖獣配列」の桜は、カウンターは桜材二枚継ぎの本格で...これもおまけ 2015年03月21日 |
題名 | 「桜」 |
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書き出し約300文字 | ||
●「逃亡」(原題=江戸秘紋) | 文政十二年(一八二九年)三月二十一日の巳の刻(午前十時)に江戸神田久間町河岸から火が出た。この朝一時間前にちょっとした地震があったが、ちょうど、出火の起こったころは、西北の風が土砂を吹き立てて、あたりが夜のように暗くなっていた。おりから佐久間町河岸の材木商尾張屋徳右衛門の材木小屋の前では職人たちが焚火をしていた。三月の末というと、すでに上野の桜も散ったあとだが、この日は奇妙な天気でうすら寒かったのである。材木屋の本宅では昼食の用意が出来たといって職人たちを呼び集めた。火を囲んでいた者たちは焚火のあと始末を十分にしたつもりだったが、どこか不十分なところがあったとみえ、残り火が強風にあおられて横の鉋屑に燃え移った。その火はさらに隣のは葉莨屋に移った。材木屋で気がついたときはもう手がつけられないくらいに火が燃え上がっている。激しい風は炎を横倒しに噴きつのらせ、火の粉を霰のように飛散させた。 | |
●「西蓮寺の参詣人」 | 嘉永年間のことだが、下谷二丁目に諸国銘茶や茶道具の小売りを商っている与助という者がいた。しかし、商いは女房にやらせているので、与助自身は町奉行所に出入りして与力や同心の指図をうけている小者、俗にいう岡っ引きであった。与助は三十を五つ六つ越した男で、これまで度々面倒な事件を解いた手柄があり、仲間うちでもいい顔だった。この世界でも実力がないと羽振りが利かない。下谷の与助といえば、奉行所の役人の間でも確かな男だという評判をとっていた。桜と一緒に三月の花見月が終わると四月に入り、朔日からは袷を着る。江戸の人はこんなことには几帳面で、五月五日の端午には一斉に単衣に着替えるのである。江戸の生活ほど季節感を鋭敏に行事にとり入れたものはなかった。その四月朔日の昼間、与助が遅い朝飯を食っていると二人の客が訪ねて来た。一人は浅草の馬道にいる綿屋で彦六といって与助の知り合いだった。もう一人は彼の知らない人物だが、五十に手の届きそうな、横鬢が少し薄くなった男だった。 | |
●「二代の殉死」 | 慶安四年四月二十日の夜、大老堀田加賀守正盛が、その日の未明、寅の刻時分に他界した家光に殉じて、腹を割いて果てた。家光はその年の早春から病を得ていたが、一般にはかくしていた。世上には、取潰しにあった大名の家士など、食禄に離れた浪人共が、不平を抱いて彷徨している。将軍不例のことが洩れて、人心動揺につけ入って、思わぬ騒動が起きぬとも限らない。現に先年、家光死亡が誤り伝えられて、天草の乱が起こった程である。それで今度の病気も、極の内々の大名だけに知らされていたが、侍医の必死の看護もきかず桜の花が疾うに散って、吹上の庭池に菖蒲の花が開く卯月半ばを過ぎて、大漸となった。家光の臥床以来、片時も傍を離れずに看侍していた正盛は、病が篤くなってからは己の屋敷にも帰らず、夜も昼も枕元に詰めていた。 | |
●「六畳の生涯」 (黒の図説 第五話) |
東京都の西のはずれにある区で、郡部の地区に接している一帯は、十年前とは見違えるように多くの家が建ち、きれいな住宅街がひろがっている。ある場所では五,六年前は低湿地で、大きな雨が降るたびに水が出て、雑草が浸かっていたところも、土盛がなされ、体裁のいい洋風住宅がならび、新しい道路が四方につくられている。最近、建売りの家を買った夫婦者が、まだもの珍しそうに界隈を散歩していた。晩春の黄昏で、夕食をすませたあとのそぞろ歩きには気持ちのいい季節である。よその庭のうす暗いところから散り残りの桜が白くにじんだりしていた。「志井田医院か。内科だね」夫は鉄柵の門の前に立ちどまって洋館の看板を見上げた。窓は暗かった。「お医者さまも近いし、安心だわ」夫のうしろにいる妻が言った。「小児科も診るのでしょうか?」「そりゃ診るだろう。こういう場所の医院だからね。内科なら、たいてい小児科を兼ねている」「子供が病気になったとき、応急の手当てはしてもらえますわね。近いからありがたいわ」夫婦は足を動かし、医院の裏につづいている和風の家屋を斜めから眺めた。医者の住居らしく、そこには灯が映っている。二階はなく、長い家だった。表の医院の建物の倍はありそうだった。 | |
●「笛壺」 | 案内記によると、土地に出来たそば粉を武蔵野の湧水で打ったのが昔からの名物だそうであるが、このそば屋は家の構えの貧弱なこと田舎のうどん屋と異なることがない。俺は寺に行きがけに「御宿泊」という看板も読んでおいたから、薄暗い電燈の下でそばを二杯たべ終わると、どうだね泊めてくれるかね、ときいたら五〇くらいの背の低い女房がじろりと俺の風采と老体を改めてみて、へえ、よろしゅうございます、とあまり弾まない声で答えた。四畳半の二階に通されたが、想像した通り、畳は赤茶けて足の裏にしめっぽいし、天井は黒くなって低い。古くて家がいびつになっているとみえ建具が合っていない。窓の障子をあけるのにも二,三回ひっかかった。外はすっかり暗い夜になっているが、真黒い杉木立の間から星のない空の色がわずかに見える。桜が終わりだというのに肌寒い。東京より二度は低いようだ。木立の匂いがする。 | |
●「逃亡者」 | 細川藤孝が明智光秀の応援として丹後に出兵したのは、天正七年のことであった。丹後・丹波攻略は、安土に在城していた信長からの命令である。光秀・藤孝は波多野一族が籠った丹後峰山城を降したが、同じ年、細川藤孝は兵三千余人をもって丹後に向かった。このときは、光秀のほうが応援として手兵三百をつけた。丹後には弓木城に一色、田辺城に矢野、由良城に大島、竹野城に多賀野、峰山城に吉原というふうに小城が犇めいていたが、いずれも尼子の勢力下にあった。藤孝は最初弓木城に向かったが、容易に落ちないと知って、桜井熊野城主を誘い出し、策をもって和をはからせた。一色義有は初めて承服したので、他の諸城も人質を出して和を乞うた。一色は丹後の名家だ。足利の一族で、斯波、渋川、吉良と同族である。足利義満の頃に若狭を領有し、次いで丹後に封ぜられたのがその始まりだ。義有りの頃には衰徴していたが、それでもその名家の一色が降ったので、他の諸城も細川に城を開いたのである。 | |
●「二つの声」 (黒の様式 第四話) |
野鳥の声を録音しようと言い出したのは妻我富夫である。妻我は浅草の洋菓子店主で、富亭という俳号をもっている。富夫の「夫」を亭主の「亭」にひき直したのである。妻我の仲間は、越水重五郎という会社員と、進藤敏郎という金物商と、原沢規久雄という料理店主で、三人とも俳号を持っていた。原沢だけが三十二で、妻我と越水と進藤は五十近くだった。ほとんどが浅草付近に住んでいるので、何かというと顔を合わせる。仲間内だけの句会も月一回必ず行った。俳句には野鳥がよく詠みこまれる。野鳥の句を最も多く詠んだのは水原秋桜子であろう。秋桜子の 仏法僧青雲杉に湧き湧きける 筒鳥を幽かにすなる木のふかさ などはこのごろの季節だ。つまり、六月半ばである。妻我富夫が越水に遭ったときに、野鳥の声を録音してみたいがと言いだしたのは六月十二日だった。彼はこう話した。 | |
●「聖獣配列(上)」 | 銀座の雑居ビル、バアの名が階数に従ってタテにならんだ看板の四階が「クラブ・シルバー」である。開店五周年記念の内祝いは去年の秋にすませた。三月半ばの寒い風が八丁目の道路に舞う晩、時刻は九時をまわったころだが、三十六,七の背の低い小肥りの男が、その倍も丈がありそうな外人の男を連れて入ってきた。入り口近くの席にいたホステスらが男客を見るなり、腰を浮かしておじぎをし、同時に、ママ、ママ、と奥へむけて呼んだ。店は、奥に長く、真ん中がせまい通路で、向かって左側にテーブルが一列にならび、右側は入口からトイレ、更衣室、長いカウンターの酒場となっている。これは正面窓ぎわに近いところでカギの手に折れていて、いちばん奥のテーブルとの間にできたスペースには花をのせたピアノがある。カウンターは桜材二枚継ぎの本格で、磨きこんだ飴色の下から柾目が浮かんでいた。酒瓶棚を背にしてバーテン二人が働いていた。 |