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          冗談工房

       【実録・家系図
                    
【副題:戸籍謄本】

       目   次  登録日
 ①「姪孫(テッソン)  2025年3月21日登録
 ②「法事へ出席  2025年4月21日登録
 ③「柴﨑家と村上家の姉妹と藤田家  2025年5月21日登録
 ④「柴﨑キクの死亡  2025年6月21日登録
 ⑤「1926年(大正十五年)五月二十七日  2025年7月21日登録
 ⑥「謙二と和恵の松市家への同居  2025年8月21日登録
 ⑦「松市の決断と和恵の同居の意味  2025年9月21日登録
 ⑧「疑似家族の形成  2025年10月21日登録
 ⑨「戸籍上の解けない謎    2025年11月21日登録


2025年11月21日更新



ページの最後


 

「松本清張の蛇足的研究」のTOPページへ   ● なぜ『実録・家系図』を書き始めたか!

清張の作品は、小説でも五〇〇作品程度有ります。
私はホームページの中で、現在160作品を超えた程度紹介しています。
その中で、自叙伝的な作品と言われる「骨壺の風景」・「田舎医師」・
「父系の指」・「暗線」に行き当たりました。
清張の自叙伝としては、本人も自叙伝としている「半生の記」があります。
「半生の記」を含めて、清張の父『松本峯太郎』が出てきます。
勿論、本人がそのままではなく、それらしき人物や、別名で登場します。
これについては、「半生の記」のあとがきで
 
私は、自分のことは滅 多に小説 に書いては 居ない。
いわゆる私小説というのは私の体質 に合わ ないのである。
 そういう素材は仮構の 世界につくりかえる。
そのほう が、自分の言いたいことや感情 が強調されるように思える。
 それが小説の本道だという気が する。
独自な私小説を否定するつもりはないが、自分の道とは 違うと思っている。
 それでも、私は私小説らしいも のを二、三編くらいは書いている。
が、結局は以上の考えを確 認した結果になった。   
  
と記述している。「仮構」と表現しているように、虚実織り交ぜて、小説として書いているようだ。私も自叙伝的作品と言われる作品の最後に、真実であろう、自叙伝の「半生の記」を読んだので、登場人物には戸惑ってしまった。その中で、
松本峯太郎の生涯・出生の秘密に大変興味を持ちました。それは、私の父の生涯に対する共通点を読み取ったからでした。
家系図の作成を思い立ち、本籍地から戸籍謄本を取り寄せてみました。
以上が、戸籍調べの始まりでした。
結果、その深みにはまり込んだのでした。
『○○の戸籍』と題する文章を書き上げました。
すべて実名で書いています。それは、私の兄弟へ向けての文章だから問題ないと判断したのでした。事実経過に対して、思い込みや、空想もまじえての文章になりました。『○○の戸籍』は、改定を重ねて、決定版を兄弟へ送りました。

この、『実録・家系図』は、思い込みや、空想をできるだけ排除しました。ですから、『実録』が相応しいと思っています。もし私に小説にする能力があれば、原案に出来るのではとも考えています。
何処かで事件でも起きれば小説になるのでは...
私にはその能力はありません。


『○○の戸籍』の○○は、父の名前です。



2025/04/21
素不徒破人

『実録・家系図』 
姪孫


私は、柴崎タネの姪孫です。
私が「姪孫」と言う言葉を知ったのは、私の父柴崎謙二の戸籍を調べ始めたときでした。
「姪孫」とは、甥姪の子(兄弟姉妹の孫、孫の再従兄弟姉妹)、またはその配偶者(甥姪の婿・嫁)である。 又甥・又姪(またおい・まためい)らしいのです。
柴崎タネは、私の大伯母です。つまり、祖父の姉です。祖父は、三人兄姉で末っ子でした。(タネ・松市・伝治)
家系を言葉で説明するのは難しいものです。特に関係者で無ければイメージすることが困難です。
家系図で示せば少しは、理解しやすいと思います。
理解して戴けるでしょうか?
「姪孫」を知ったのが、父の戸籍を調べ始めたときだと書きましたが、父の戸籍謄本上に姪孫の文字を見つけたのです。意味を調べました。戦前の戸籍謄本では時々出てくる言葉のようです。父の戸籍は姪孫で始まっていました。
勿論、父は、既に死亡していますが、十八歳の時、戸籍上柴崎ナツの籍に入籍していました。ナツは六十九歳でした。戦前の戸籍ですが、当時代々の家督を相続したのは、父の父(私の祖父/伝治)の兄(松市)でした。
大伯父の松市が戸主でした。
当然戸籍は戸主を筆頭に書かれていて、弟の子(甥)が父の立場でした。
戸籍上は、少し複雑な動きがありましたが、結果柴崎ナツの戸籍に入籍していたのです。
それでは、柴崎ナツはどのような人物なのか説明しなけれなりません。
家系図で説明します。父から見れば大伯父に当たる人物(兄)に妹がいました。「大叔母」と呼ぶのかも知れません。大叔母からすれば、兄の子(甥)の子(父)で、姪孫になるのです。
父が柴崎ナツ籍へ入籍したときは、ナツは離婚して、家系図で言えば大伯父の籍に入籍していたのですが分家して独立した戸籍を持っていました。謂わば後取りとして謙二は入籍したのでした。
戦前の戸籍法については、ほとんど知識がありませんが、「姪孫」という親族関係であれば、入籍させることは簡単だったようです。謙二は未成年ですし、親(伝治)の承諾があれ問題なかったと思えます。親(伝治)承諾は勿論、戸主である松市の承諾も必要だったかも知れません。
何れにしても、当時は戸主が絶対的な権力があった時代でしょうから、ナツの分家を含めて、謙二のナツ籍への入籍は、松市の主導だったと言えるでしょう。
 それでは、柴崎タネと私の関係はと言えば、父謙二と柴崎ナツの関係にうり二つです。
戦後の話になるので、私の戸籍上の立場は、両親の子供としてそのままの立場が、記録上も残っています。
不思議な一致という意味では、タネも離婚して、私から言えば、大伯父(松市)の籍に入っていました。これまでに説明していた通り、タネは、大伯父の姉に当たりますが、戦後も家督相続した弟(大伯父/長男・松市)の籍のママでした。
私はこのことを突然自覚しました。
何の脈絡も無く父と似たような境遇だったのだと、改めて感じたのでした。
「何の脈絡も無く」とは、いささか面はゆい気がするのです。それは、父謙二の戸籍を調べて家系図でも作ろうと行動して、一応完成させていたからです。
運命論とか、因縁とか、偶然の出来事から関連性や因果関係を見いだすことが好きです。
 これは、好きと言うだけで、その信奉者ではありません。むしろ否定的に考える立場に身を置く者です。典型的な例をお話します。
 父の法事の時の話をします。




2025/03/21  「松本清張の蛇足的研究」のTOPページへ
法事へ出席
 【小説 家系図としてスタートさせましたが、『 実録・家系図』と改名】

この小説もどきは、私の語りとして話が進みます。
私には東京に住んでいる兄夫婦がいます。
父の法要の為、数年ぶりに郷里に帰ることになりました。私は神奈川県に住んでいるのですが、郷里に帰ることは何も相談していませんでした。
兄夫婦も帰ることは知っていましたが、どのような手段で帰るかは知りませんでした。帰郷の手段としては、飛行機か新幹線で、私は通常なら新幹線を利用していましたが、今回は羽田発の飛行機で帰る予定でした。
搭乗して飛行機の座席に着いて驚きました。
記憶は曖昧ですが、中央の3列シートでした。そこで兄夫婦に会ったのです。
兄夫婦とは相談はしていませんが、法要に出席するという目的は同じだったので、同じ時間帯の飛行機を利用する可能性は高かったと思います。
偶然ではありますが、日時から考えて、無関係の場所に向かうのとは少し事情が違います。しかし同じ列の席に座るとなると可能性はかなり低くなります。
法要の席では、「亡き父の引き会わせ」などと、無難な話で終わりました。私は天邪鬼的な性格なのか、確率論的には、それなりの確率があるように考えたものです。
さらに、人為的な可能性を考えました。
空港で搭乗手続きをするとき、座席の指定は特にしませんでした。航空会社が、座席指定時に名字の一致から同じ席を振り当てた可能性を考えました。席は満席状態でしたから振り当てるについて、何らかの考慮があったのでは・・・と、穿った見方をしたのでした。
もう一つ例を挙げます。
この小説もどきは、実在する戸籍謄本を下敷きに書いています。
家系図作成の為に、父方と母方の戸籍謄本を取り寄せ調査した内容が全てです。
その中で誕生日の一致を見つけることが出来ました。
祖父の誕生日と伯父の誕生日と私の誕生日が一致しているのです。偶然の可能性は大いにあると思いますが、私の誕生日には秘密があり、戸籍上の誕生日と実際の誕生日は違うことを母から聞かされていました。
すると、私の誕生日は人為的に何らかの目的を持って決められた。
届けられた可能性があると言うことになります。
法事の話とは別な話になりますが、世の中には不思議な話があるものです。

柴﨑ナツと柴﨑タネの共通点は、この話の肝になると思うので、もう少し説明します。
二人は六十歳を前後して婚家から離縁されています。現代的な表現をすれば離婚ですが、ナツは再婚で子供は出来ませんでした。戸籍謄本から見えるのは、夫に先立たれ、代替わりした結果、子供のいないナツは、実家に帰されたと読み取れるのです。子供が出来なかったとは言え、六十歳を過ぎた老女を実家に帰すことの残虐性を感じてしまいます。
タネはどうだったのでしょうか?
タネも子供が出来ませんでした。五十七歳で離婚です。二十一歳で結婚していますから、36年間の結婚生活です。
ナツにしてもタネにしても、自立していた女性とは言えません。二人は農家の嫁ですから、特に経済的には自立できていません。二人が実家である松市の籍に入籍していることでも理解出来ます。
タネは松市の籍に入籍後、松市の妻(フユ)が死亡してから、戸籍上は姉弟だけの戸籍となっていました。戦後になってから、松市とタネは同じ年に亡くなっていますから、戸籍は廃籍となっています。
一方、ナツの戸籍は謙二が家督相続して、戦後も独立した戸籍として受け継がれています。私の兄に当たる二男が今でも引き続き守っています。
家督相続した松市の戸籍ですが、相続した時点では、祖母(ヨシ)・母(ハナ)・姉(タネ)・弟(伝治)、松市を含めて5人家族でした。叔母のナツは既に結婚していました。
柴﨑家(松市)は、先々代(松吉)が建てたであろう、それなりの大きさの茅葺きの家屋がありました。
ヨシが死亡、タネが結婚で、松市が十六歳で相続した後では3人家族になります。それからの柴﨑家は・・・まだ書き切れない変遷を続けます。話の前提が長くなりましたが、前提は別の角度からさらに続くのです。
柴﨑家を相続した松市は、二十七歳で結婚します。



2025/04/21   「松本清張の蛇足的研究」のTOPページへ
 柴﨑家と村上家の姉妹と藤田家
松市の妻は、フユ・弟の伝治の妻はキクと言います。
私の母和恵は、旧姓を藤田と言い、父は、藤田賢造、その妻がトヨノと言います。
フユは、村上家の四女、キクが五女、トヨノが六女でした。
私が、家系図作成の為、戸籍謄本を調べたときに知った最初の驚きでした。
松市、伝治兄弟は村上家の姉妹を妻にしていたのです。
それだけではありません、私の母(和恵)の父(母方の祖父)は、村上家の六女を妻にしていたのです。
回りくどい説明になりましたが、私の両親は従妹同士の結婚だったのです。
血筋という意味では、柴﨑家と村上家は姻戚関係からも極めて濃い関係だと言えます。
それぞれの結婚時期から人間関係が構築され結果として複雑な家系を成立させていました。
最初の関係は、明治三十九年、松市とフユの結婚でした。松市は二十七歳、フユは二十五歳でした。
柴﨑家と村上家は、直線距離にして10km程度の位置関係にあり、世話をしてくれる者があり見合い結婚だったようです。
村上家は子沢山で6人姉妹以上であることは確実ですが、その内訳は分かりません。
男の子がいたかどうかは不明です。
ただ、地元には村上姓の家が今でも数軒あるので旧家で数人の男子がいたとしても不思議ではありません。
それに、フユとキクの年齢差が九歳あります。二人の間に男の兄弟がいても不思議ではありません。

フユは四女で、松市、五女がキクで、伝治と結婚。六女トヨノが藤田家の長男(賢造)と結婚したのでした。
柴﨑家で、松市とフユの婚礼が行われたとすれば、妹たちの、キクとトヨノは同席したことが考えられます。
子沢山の村上家と三人家族になっていた柴﨑家の婚礼が世間並みに執り行われたことには疑問があります。
松市と伝治は十歳差です。フユとキクは九歳差で両家に年頃の子供がいることは認識されていたでしょう。
それは、兄弟が、姉妹を妻に取る事には何も障害が無かったと言えます。むしろ良好な付き合いが前提に有ったと言えます。
松市が結婚してから、4年後に伝治が結婚しますが、松市夫婦には子供が出来ていませんでした。
伝治夫婦には、すぐに子供が出来ました。
長男謙一が誕生しました。
それとは別に、大正元年、藤田家では賢造が嫁を取ります。それが、六女の村上トヨノだったのです。
その結婚は、伝治とキクが結婚した2年後、長男謙一が誕生した翌年でした。
時系列に示すと以上のようにそれぞれの家族が出来上がります。
柴﨑家の伝治・キク夫婦には二男(謙二)・三男(啓)と誕生します。
残念ながら、戸主の松市・フユ夫婦には子供が出来ませんでした。
当時の家系は、戸籍謄本などを読み解くと理解出来ますが、戸主を中心に「家」を単位に編纂されています。
戸主が家督相続し代々受け継いで「家」を維持していました。
柴﨑家は、松市が戸主で、弟の伝治は、結婚はしたものの分家はしておらず、同じ茅葺きの家に住んでいました。
伝治に三男の啓が誕生した時点での柴﨑家は、松市・フエ・ハナ(松市・伝治の母)・伝治・キク・謙一・謙二・啓の8人家族でした。
母親を含め兄弟夫婦と子供達は、それなりの大きさの家屋だったので居住は可能でした。
貧しいながらも慎ましく暮らしていたであろう柴﨑家に突然の不幸が襲います。

2025/05/21
柴﨑キクの死亡 
●柴﨑キクの死亡
 伝治の妻が二十七歳の若さで死亡したのです。死亡原因は語られていませんが、最近では聞かない言葉ですが、「産後の肥立ちが悪かった」のかもしれません。
夫の伝治は、三十一歳、五歳・四歳・二歳の子供を残しての死亡は柴﨑家の運命を大きく変えてしまったと言えます。
幼い三人の子供は、同居していた松市の妻、フユと祖母に当たるハナが面倒を見ていたことは想像に難くありません。
家系を語るとき、血縁としての家系図が中心となります。しかし、戸籍謄本などは、養子縁組など、取り婿取り嫁などと言われて、系図の中に他人が入り込む余地もあります。さらに、何処に住んでいたかも重要な要素と言えます。家族なら同じ場所に住んでいたと言える訳ではありません。
家族同然に暮らしていたが、それが、一般的に言える両親と子供達の核家族、少し拡げても祖父母・両親・子供達、2世帯程度の同居ならまだ説明も簡単ですが、それ以外にもいろいろ考えられます。
それらのことを説明しながら追々、話していきますが、柴﨑キクの死亡で激変する柴﨑家は、新たな事態を迎えるのです。

 ここで戸籍謄本の記述の一部を紹介します。
   紹介するのは、柴﨑謙一が戸主で、廃籍に至った時の届出、謂わば廃籍届の写しです。内容は当時の謙一の状況を示しています。(実物なので伏せ字にしています)
戸籍謄本の文字を書き出してみます。
初めの項目を読み解きましょう。

『大正九年壱月七日親権ヲ行フ父其家ヲ去リタルニ因リ後見開始同日後見人戸主■■■■就職ニ付届出大正十一年壱月』
 ■■■■は人名で、柴﨑松市です。この記載は、柴﨑謙一の戸籍謄本の記述です。主語は謙一ですから、「親権ヲ行フ父」とは、柴﨑伝治です。「父其家ヲ去リタル」は、伝治がこの家を去ったことを示します。当時の謙一は、柴﨑家の戸主である松市の籍に入っていました。それは、父伝治も同じでした。勿論、謙一の弟達も同じ事です。記述が謙一の欄で、しかも、謙一が戸主になっての記述である事に意味があります。謙一の経歴を示しているのです。

  以下読みやすく記述します
 大正九年壱月七日親権ヲ行フ父其家ヲ去リタルニ因リ後見開始同日後見人戸主■■■■就職ニ付届出大正十一年壱月拾日受付

 ●●●●●戸主■■■■甥分家届出大正十五年貳月十七日受付

 大正十五年五月二十七日親権ヲ行う者アルニ至リタルニ付後見終了同日記載 

父が去り、当時九歳であった謙一に後見が始まったことを示しています。
戸主の松市は、弟の伝治を分家させたのですが、子供達を「同行」させていません。妻を亡くし、分家した弟伝治をわざわざ一人で分家しているのです。不自然極まりない分家です。

この記述では、謙一の弟達(謙二・啓)の後見は確認できません。
おそらく、この戸籍謄本が謙一のものだからでしょう。

伝治は、子供達を残して何処に行ったのでしょうか?。
当時の分家は、戸主である松市の承諾なしでは実現しません。この分家には奇妙な事実がもう一つあります。出て行ったとは言え、伝治が分家した場所は、以前の住まいの場所と同じでした。松市が家督相続した場所です。その場所は、住居表示が○○番屋敷と呼ばれた古い呼称から「●●●●●番地」となり、現在でも使用されている住居表示です。
●●●●●は、住所です。
それでは、「甥分家届」とある、次項目を読み解かねばなりません。
戸主■■■■甥とは、謙一のことです
分家は名目上と言えます。それでも分家は行われました。しかも、後見人を松市が引き受けています。
引き受けたのでしょうか?
松市主導の分家劇であることは火を見るより明らかです。
ここまでの戸籍謄本に矛盾は無いように思えますが、強いて挙げれば、謙一の分家が松市の後見の最中に行われていることです。日付で言えば、大正十五年2月17日です。後見と分家の登記は可能なのか疑問の残るところです。
分家後10日で後見の終了ですが、このズレが気になるところです。
『戸籍謄本には、分家の記述は再三登場しますが、本家の記載はありません。「本家」とは分家に対応しただけの記述で、俗称と言えます』

松市は、なぜ分家を主導したのかを検証するには、時系列がヒントになります。
大正五年十一月二十四日、柴﨑キク死亡(伝治の妻)大正九年一月七日、伝治、柴﨑松市家から分家。
大正十年三月一日、「健」誕生。
(伝治、イト夫婦の長男/イトは後妻)
大正十年三月七日、柴﨑伝治と山田イトが結婚
(長男誕生と結婚が前後しているのは愛嬌)
大正十年八月十一日、「健」が死亡(五ヵ月)
大正十一年九月九日、柴﨑ナツが離婚。
(松市籍へ入籍/新住所)
大正十一年十月十五日、鶴代誕生
大正十二年三月九日、柴﨑ナツが松市籍から分家
大正十五年二月十日、柴﨑謙一が松市籍から分家
結婚から最初の子供が誕生するまでの期間について、「愛嬌」としましたが、当時の結婚が、妻に子供が出来た時、初めて結婚を認める、届け出ることが常態化していたとも思えます。柴﨑家や藤田家の戸籍謄本にそのことが散見されます。

 柴﨑謙一が松市籍から分家したときは、柴﨑家は、松市家が本家で、伝治家・ナツ家・謙一家の分家戸籍が存在していました。ただし、ナツ家と謙一家は、一人だけの単独した戸籍でした。この時の戸籍と同居していた家族構成は正確には不明でした。
 正確には不明の家族構成ですが、家屋は2ヶ所に分かれていたと考えられます。
時系列は、戸籍謄本から正確に再現できますが、同居などの生活実態を戸籍謄本からは読み取ることが出来ません。
 前妻のキクが死亡してから約4年後、大正九年に、伝治は分家しています。戸籍謄本の記述では、「其の家を出ています」。さらに1年後、伝治は、再婚し、子供を授かっています。その経緯が愛嬌と書きましたが、「健」誕生の十月十日前には、伝治とイトは男女の仲だったのです。
伝治の分家は、伝治が男鰥(オトコヤモメ)になってから3年後です。
松市主導の不可解な分家劇は、その後の伝治の再婚を見据えたものと考えることもできますが、私は、別の考えを持ちました。
 松市は、伝治を勘当同様に処分したのではと考えたのでした。有り体に言えば、育児放棄の状態になり、女に走った伝治を丸裸で一方的に分家して、放り出したと考えました。松市の立場ならそれが可能でした。伝治の三人の子供達を人質的に後見に取り、自ら後見人に就職したと考えたのでした。
反面、松市がこのようなことをする人間では無いと思える事実があります。叔母のナツが離縁され松市籍に復籍する時や、姉のタネが離婚され復籍する時も住まいまで用意して受け入れているのです。
ならば、松市の分家劇の主導は、伝治が再婚することを容易にする為の親切心からだと考えることも可能です。私には、松市の人物像が理解出来ません。
分家のおかげで、伝治は、イトを後妻に迎えることが出来、独立した戸籍を持ち、生まれた「健」(五ヵ月で死亡)の後に、長女の鶴代を授かり、明夫も生まれ家族を構成しました。

一見、めでたしめでたしの結果ですが、伝治と先妻の間に出来た、三人の子供達は、松市籍に残したママです。明夫が生まれる三ヵ月前に、謙一は松市籍から分家しています。
ここでも松市の戸主としての主導が発揮されたとも言えます。伝治と後妻の間に出来た明夫は実質的には、伝治家の後取りになります。
謙一の立場は、可哀相な存在となるのです。戸籍上の時間的経過が示していますが、明夫の誕生三ヶ月前に謙一を分家して、戸主として独立させています。これは、ナツを独立した戸籍として分家とした処遇と同じ手法と言えます。
 一筋縄ではいかないのが柴﨑家の家系です。
五・二十七事件を知るひとはいないのでしょうか?



2025/06/21   「松本清張の蛇足的研究」のTOPページへ
 1926年(大正十五年)五月二十七日 
家系の中に決定的な矛盾が存在していました。
本家として存在し、家督相続された松市家の戸籍と分家した三つの戸籍。そこに存在した二つの家屋。
合計で四っ存在する戸籍という固まりに対して家屋は二軒しか存在しません。物理的矛盾です。
家屋が建設された経緯も柴﨑家には重要な出来事でした。今でも、住宅の建設はその家族にとっては一大事業であり、出来事です。柴﨑家の家屋は松吉が建てています。
家屋は、松吉・松治・松市と家督相続されています。松市の代になって、伝治が再婚して子供ができる時期に松市家は大人数になります。松市は、伝治家族の為に家屋を建築することを計画します。新築では無く移築で住まいを準備します。移築は伝え聞かされた事ですが、伝治家族の為の移築は私の妄想です。
この顛末がどうしても解明できませんでした。ですから証拠がなく、妄想になってしまいました。
其の最中に、松市・伝治の叔母に当たるナツが離縁して帰ってくることになります。当初の計画、目論見とは違って、隣地に移築・建築された家屋には、松市夫婦と叔母のナツが住むことになったのでした。
柴﨑家が抱える矛盾の始まりでもありました。
本家には、伝治・謙一・謙二・啓・イト・鶴代・明夫が住みます。
隣地に建てた家屋では、松市・フユ・ナツが、住みます。これは、家屋の大きさや人数から言って合理的と言えました。
ナツが婚家から離縁されたことは先に書きましたが、あえて「離縁」と書くには少し理由があります。
ナツが、松市籍へ復籍した時の戸籍謄本の写しがあります。



実物なので、伏せ字にしていますが、①は、住所で、戸主、②藤井六郎と続きます。
さらに、伯父妻戸主③柴﨑松市となり、叔母入籍届大正十一年・・・で受付が完了しています。
読み解くと、戸主の藤井六郎の伯父妻が、戸主の柴﨑松市の叔母の入籍届を出しているように読み取れます。藤井六郎の伯父とは、ナツが嫁いだ藤井新平に当たると考えられます。藤井家は、新平から藤井六郎へと代替わりがあったと読み取れます。
③で、柴﨑松市叔母入籍届は、まさに、ナツの松市籍への入籍を示しています。

藤井家の実情は、調査の対象外でしたので詳しいことは何も分かっていません。
 ここで、松市・伝治の母であるハナがどちらに住んでいたかが気になるところですが、ハナは、本家で伝治と共に生活をしました。伝治家には、大人の女は、後妻の若いイトだけでした。幼い子供達が沢山居るのでハナは、馴れ親しんだであろう本家の家屋で生活することを選んだと思います。
イトは二十三歳で再婚、三人の子持ちである伝治に嫁いだのでした。自らの子供が生まれたと同時期に前妻の三人の子を育てることは、ハナの同居を考えても問題ないと思いますし、ハナは八十五歳で本家の住所で死亡しています。
合理的な選択ではありましたが、外見上は、本家を伝治に譲ったように見えました。松市は、隣地に立てた移築・建築した住居に移ったのでした。
内包した矛盾は、戸籍謄本上では、依然として柴﨑家の戸主は松市であり続けたのです。本家は本家と呼ばれますが、謄本上の位置は、松市籍から分家した伝治の籍であり、後に謙一の籍なのです。
奇妙な実態は、家督相続した松市の籍は住所を隣地に移しながら分家の様相を見せていました。現実に「部屋(ヘヤ)」(分家を意味する)と呼ばれていました。
時期としては、大正十二年三月九日で、ナツが復籍後分家した時期として書き留めることが出来ます。
大正十五年二月十日、謙一が松市籍から分家して
1926年(大正十五年)五月二十七日を迎えます。
伝治は、分家した籍を廃家・廃籍にします。


伝治自らの行為なのか、松市の意を受けての行為なのか判然としませんが、伝治の戸籍に記載された全ての人物は、廃籍後、松市の籍へ移るのでした。
ここで、前述の戸籍謄本の記述がはっきりします。
伝治が松市の戸籍に戻った為、伝治の先妻との間に出来た子供達と同じ戸籍と言うことになります。当然、謙一の後見は終了します。
「大正十五年五月二十七日親権ヲ行う者アルニ至リタルニ付後見終了同日記載」が、実現する事になるのでした。同日、伝治・謙二・啓は、松市籍から謙二の籍へ入籍するのです。
この経緯は、注意深く見る必要があります。
伝治が廃籍する約三ヶ月前に謙一は、松市籍から単独で分家しているのです。これは、前にも書きましたが、後見中の謙一を分家することが可能だったのか疑問があります。
一夜にして戸籍は激しく変動します。面白いことに、其の変動は戸籍謄本上のことだけです。住まいは何一つ変わらないのです。
柴﨑家の変遷は、大正末期(大正十五年)で一応決着します。一応の決着と言わざるを得ないのは、私にとっては重大な出来事が待ち構えていました。



2025/07/21
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 謙二と和恵の松市家への同居
落ち着きを見せた柴﨑家ですが、松市家に謙二が同居し始めます。
当時の「部屋」には、二つの戸籍が存在しました。
「部屋」とは分家のことで本家に対応する呼称ですが、経緯から言っても、単純に分家とは言えません。 
松市籍とナツ籍です。松市の妻フユを含めて三人の「家族」構成と言ってもよかったのです。
そこに謙二が同居した証拠があります。
1930年(昭和五年)五月十三日、岩﨑ナツ籍へ謙二が入籍。戸籍謄本の記載です。
これがくせ者で、1935年(昭和十年)十月十日入籍したナツの戸籍の住所に住所を定めたとする、
「附票」を発見したのです。
入籍後に住所を定める矛盾もさることながら、1933年(昭和八年)六月十五日、柴﨑ナツは死亡しているのです。
謙二は同日、ナツの家督相続をしています。
公的文書である、戸籍謄本や附票の矛盾はこれまでも度々遭遇していましたが、これらの経緯を改めて読み解く必要に迫られました。

もう一つの「附票」に遭遇しました。
1930年(昭和五年)八月五日、藤田和恵が、十歳で柴﨑松市家に転居しているのです。
柴﨑松市と和恵の父賢造は、以前に述べたように義兄弟(妻同士が姉妹)です。和恵の独断で決まることではありません。時期は、謙二がナツ籍に入籍した年でした。(入籍の三ヶ月後)
公的文書で辿ると矛盾が山積しています。
和恵の「附票」に記載されている時期が、十歳であることは明確なのですが、当時和恵は尋常小学校へ通っていました。転居によって転校しなければなりません。
八月五日なので、夏休みと言うことも出来ますが、調べると新しい事実に行き当たります。

和恵は転校していなくて、1935年(昭和十年)三月二十五日、生まれ育った場所の尋常小学校の高等科を卒業していました。(同窓会名簿と学校に確認)
転居しての通学は不可能です。
公文書と実態は一致していなかったのです。
経過を見れば、
①ナツの松市籍への復籍(ナツが婚家から離縁される)
②ナツの分家(住まいは松市の家屋)
③謙二のナツ籍への入籍
④和恵の松市家への同居(ナツは松市と同居)
問題は、②の時点で、謙二が同居していたかどうかです。むしろ、①での同居の可能性もあります。
率直に公文書(謄本・附票)を読めば番号順になると思います。
続けると
⑤和恵の尋常小学校卒業(和恵、十四歳)
⑥謙二の松市の住居に同居(ナツと同居と同じ意味)
⑦謙二と和恵が結婚(1938年(昭和十三年)八月一日)
⑥が謙二と松市・ナツの同居時期、とすることが出来ますが、和恵の場合は、公文書の矛盾もあり特定できません。
推測できるのは、和恵が卒業した尋常小学校の資料などから、⑤であろうことが推測できます。
二人の松市家への同居は、なぜ実現したのだろうか?
はじめに謙二の同居について考察してみます。
柴﨑家は、伝治の妻が亡くなり、伝治の再婚、後妻の間に子供が誕生。そこに、ナツが離縁で復籍。内部的には、伝治の分家、謙一の分家など体制は大きく変わっていましたが、住まいは古くからの茅葺きの家だけでした。
同時に、隣地に家屋を建てる時期でした。人数的にも茅葺きの家は飽和状態に近かったといえます。
しかも、其の家族構成は複雑でした。
伝治の先妻の子は、長男謙一は、後取りとして本家に残し、二男謙二は、松市家の後取りにすべき存在として、隣地に建てた家屋に、松市・フユ・ナツと共に移り住んだと考えました。
この私の考察は、新たな問題を持ち込むことにもなったのです。
三男の啓は、どうしたのだろうか?
もし、謙二が松市の養子になれば、謙二が柴﨑家の後取りになる事を意味していた。
家督相続は謙二が有資格者と言うことです。
謙一と謙二の立場が逆転してしまうのです。
住む場所は違えども、謙二が本家の正統な後継者となってしまうのです。
今でこそ、本家とか分家とか一昔も二昔も古い話で、余り意味を持ち得ません。
しかし、旧戸籍法の下での家制度は、其の関係者を縛り付けてたと思います。
柴﨑家は戸主に子供が出来ない問題を抱えつつ、「家」に対する問題に直面していたと言えます。
戸主である松市は決断しました。



2025/08/21   「松本清張の蛇足的研究」のTOPページへ 
 松市の決断と和恵の同居の意味
松市は、後取りを作ることが出来ませんでした。
実子での後取りは勿論、養子での後取りも諦めました。
しかし、柴﨑家の戸主としての座は死守しました。
これは、私の結論的感想ですが、具体的に手はずを整えました。
経緯から、謙二を養子にと考えた節があります。
恐らく、伝治が反対したのでしょう。謙一の立場もあり松市は諦めたと思います。
しかし、松市夫婦には不安がつきまといます。夫婦には暮らしを伴にすべき家族が居ません。「本家」と呼ばれる大所帯で暮らしてはいても、頼れるべき人間が居ない不安定な状況でした。
正直肝心なところがハッキリしませんが、松市が隣地に家屋を建て移り住んだ時期は、出戻りのナツと松市夫婦という先の見えない状況だったと考えられます。
松市の決断は具体化されます。
再入籍したナツを分家して独立させます。六十歳を過ぎた出戻りの女に単独で戸籍を与えます。
ナツを分家独立させた3年後、謙一を分家独立させます。その後、謙二をナツ籍へ入籍させます。
一連の経過は、ナツが松市籍へ復籍後七年で完結します。
「本家」の継承は、実質、謙一に委ねられます。
松市夫婦は、後に夫婦になる、謙二と和恵夫婦が引き受けることになるのです。
松市は、戦後夫婦単位の戸籍になるまで、家督相続した戸籍上の戸主としての立場を守り通しますが、柴﨑家の家督は断絶したと言えます。
決断したとは言え、松市はもがくのでした。
和恵の同居です。
これには解明できない事情が、和恵の実家の藤田家にあったようです。
和恵が、柴﨑家に「奉公」に出されたとか、来たとか言われたようですが、それを聞いたのは、私が、柴﨑家の家系を調べ始めてからのことでした。
それも、兄嫁から聞いたのでした。結果として、実家を継いだ二男の嫁から聞いたのでした。
私は十八歳で実家を離れています。親子の生活は、たかだか十八年です。
それに比べ、兄嫁は結婚後三十年以上謙二・和恵夫婦と生活を共にしています。
子である私よりも和恵の事を知っていても不思議はありません。
和恵の奉公先が柴﨑家でも、「本家」ではなく、松市が隣地に住んでいた「部屋」と呼ばれる家に移ったのは考えるべき点です。
松市と伝治兄弟は、村上家姉妹を通じて、藤田家とも義兄弟の関係でした。松市家には、妻のフユが居て、藤田賢造の妻とは姉妹です。伝治の先妻キクは妹ですが、既に死亡していました。
和恵にとっては、松市の妻フユは、伯母に当たります。伯母夫婦の家に奉公に出されたと考えられます。
当然、松市と藤田賢造の話し合いだったと思われます。「奉公」の理由ですが、兄嫁からの伝聞ですが、和恵には姉がいて、当時として高等教育を受けていました。其の姉と同じ進路を考えていたようですが、藤田家の経済状況がそれを許さなくなり、松市宅から洋裁学校のような所へ通う条件だったようです。
藤田家は子沢山で、和恵の姉の頃までは比較的裕福だったようです。
口汚く言えば、口減らしだったのでしょうか?
松市は和恵を養女にでもと考えたような形跡があります。ただ、謙二と和恵の松市家へ同居時期が判然としない為、松市の考え方は分かりません。
戸籍謄本によれば謙二は、1926年(大正十五年)一旦兄の謙一籍へ入籍しています。
その後、柴﨑ナツ籍へ入籍しています。(1930年(昭和五年))
謙二は、十八歳の時ですが、戸籍謄本が正しいとすれば、藤田和恵はまだ同居していません。
しかし、附票からは3ヵ月後からは同居が始まったことになります。和恵は十歳です。
和恵の尋常小学校卒業の経歴から決定的な矛盾と言えます。
尋常小学校の高等科を十四歳で卒業していますから、直後に、松市家に転居したとしては、転居の事情からしても必ずしも結婚を前提にした転居では無かったと思われます。
和恵は、十八歳で謙二と結婚しますが、二人には数年間の同居生活があったことは間違いないと思われます。
この経緯は両親から何も聞かされていない私としては、年頃の男女が自然な結びつきで結婚に至ったのではと考えました。
長男(私の兄)の誕生日が、戸籍上の結婚日の一月後なのです。実際は、松市と藤田賢造の間で何らかの目的があったのではと妄想するしかありません。
十八歳での結婚は、当時としても比較的早かったと思われます。比較の問題でしょうが、和恵の姉妹は二十歳程度で全て結婚しています。
この実録・家系図では直接触れませんが、和恵が結婚する二月前に姉が結婚、一月前には、母が亡くなっています。
ともかく、ナツ籍に入籍した謙二は、入籍の3年後ナツが死亡して、家督相続をしています。が、その前年に松市の姉、タネがナツ同様、婚家からの離縁で、松市籍へ復籍していました。
謙二と和恵の結婚は、家督相続した謙二の戸籍へすんなり入籍し、和恵には、直接の嫁姑関係にあたる係累はありませんでした。
松市達が住む家屋には、松市・フユ夫婦と松市の姉のタネ、そして、単独戸籍だった謙二が同居。それに、藤田和恵の組合せでした。
夫婦と松市の姉タネ、謙二夫婦と長男の生活が始まった2年後、松市の妻フユが死亡。
松市家(松市籍)は、松市六十二歳。タネ六十四歳の姉弟だけの戸籍になりました。
実質は、謙二・和恵の甥夫婦の世話になるのでした。



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疑似家族の形成
私にとって柴﨑松市家は二世帯住宅でした。
私の話ですから、戦後の話です。
戸籍も基本は夫婦単位になっていました。
私は、松市とタネ姉弟を夫婦と思っていました。
祖父母夫婦だと思っていました。姉弟と知ったのは昭和三十六年頃です。タネが死亡、同年、続いて松市が死亡し母から聞かされました。ですから、それまでは、私は祖父母と両親と兄弟で生活していたと理解していたのです。

「産みの親より育ての親」と言う言葉があります。この言葉に当てはまるか疑問はありますが、「本家」に住む実の祖父(当時、祖母は後妻)に対しては祖父としての感情は今もって湧きません。
松市とタネこそ祖父母としての感情が残っています。
生活の中での記憶は刷り込みとなって記憶の奥底に残ります。
親子の感情は、幼少期には記憶の量としても一方的と言えます。十八歳で実家を離れた子供と親の関係でも言えると思います。私に当てはめれば、十年程度が親と共通の記憶と言えます。十八歳以後は同等以上の関係性はありますが、記憶に残るべき事柄は極めて少なくなります。前述しましたが、兄嫁と母和恵の関係からもいえます。兄嫁は私以上に濃密な関係性を30数年以上も築いているのです。
知り得た事実、聞き得た事実は、伝聞を含めて私は到底適いません。生活を共にするという重みを感じ無い訳にはいきません。
疑似家族と言えば、「本家」も疑似家族に近い状況でした。
謙二は、松市家から分家したナツ籍に入籍しています。この時点で、謙二は、単独の戸籍から出発しました。「本家」に残った謙一は、父親の伝治の戸籍を呑み込んで一つの家族を構成しました。これに至るには想像も出来ない経過を辿るのでした。
最初に分家した伝治の戸籍が、伝治と後妻のキクと長男(先妻の子から数えれば四男)でしたが、長男は五ヵ月で死亡、長女の鶴代の構成でした。二男(先妻の子から数えれば五男)と言うべきか明夫が生まれます。
誰の企みなのか、伝治の戸籍は廃籍となり、松市籍に入籍します。これは見せかけの入籍です。
伝治一家は、伝治の前妻の子謙二と啓を伴って謙一籍へ入籍となります。
これが一夜にして実現します。ただし、これらの動きは戸籍謄本上の事で、謙二の生活環境以外は何も変わっていません。
前妻の子と、後妻の子が入り交じり、継母と暮らすことになるのです。謙一籍へ入籍した謙二はナツ籍へ入籍となります。松市・伝治の母ウメは伝治と同居はしますが、戸籍は死亡するまで松市籍のママです。やがて、謙一も弟の謙二の結婚後三ヵ月で結婚しますが、二人は戦後すぐに離婚します。二人の結婚生活は不幸な結果に終わりました。漏れ聞く噂は少々残酷な話です。戦争という結婚生活の中断もあったのでしょうが、夫婦は二人の男の子を授かりながらも結婚生活は破綻しました。
謙一や謙二の戦争体験など殆ど情報が無い中、突然貴重な情報が飛び込んできました。
(2025年5月のことです)
私には、叔父に当たる明夫の一人娘、従妹の一美がいました。年齢は私より十四歳くらい下なのですが、時期にしては、短期間だったと思いますが、歳が離れている割には、私の家によく遊びに来ていました。
私の母や、叔母(一美の母)は、面白がって、冷やかし話題にしていました。
一美とは両親の葬儀や法事などの行事で顔を合わせることはありましたが、何十年も真面に話した事すらありませんでした。経緯や子細は省略しますが、謙一・謙二・明夫の出征当時の写真が送られてきました。大袈裟かもしれませんが、歴史に埋もれていた当時の状況が時系列を含めて「画像」として、突然眼の前に現れたのでした。
謙一の出征時が、1940年(昭和十五年)七月三〇日と判明したのです。時系列を辿ると、妻が妊娠中の出征、出征中に長男が死亡しています。
残された妻は、夫の出征中に二男を産んでいます。
 さらに残酷なのは、謙一が敗戦により兵役から帰って来ると、妻子は実家に帰っていました。その間の事情は想像でしか話せませんが、結果として直接的に離婚へと続くのでした。謙一の落胆は想像を絶するものだったでしょう。
謙二は、五歳の長男と生後6ヵ月の二男を残して出征しています。明夫に至っては出征後一ヵ月で敗戦です。
徴兵制の残酷さは田舎の片隅で農家の担い手を巻き込んでその人生を弄びました。
 私はこの事実だけでも戦争の残酷さを告発しなければならないと思っています。

謙一は、戦後すぐに再婚します。二男二女を設け、安寧な暮らしを手に入れます。
謙一の弟(三男)啓が結婚します。啓も戸籍上は複雑な動きをします。誕生時は松市籍、伝治が分家した時は、謙一や謙二と同じく、松市籍に残ります。分家した伝治籍が廃籍になり、松市籍へ復帰すると、先に松市籍から分家していた謙一籍へ父の伝治と兄の謙二と共に、謙一籍へ入籍します。

啓は、謙一籍の時結婚しますが、結婚の3年前、二十六歳の時養子縁組で戸籍を抜けています。
この養子縁組は1年で破綻し、謙一籍に戻っていました。
戦後、謙一籍は一旦廃籍になり、謙一籍の記載者は、全て松市籍へ入籍します。戸籍法の改正で、松市籍の夫婦者は、夫婦を単位として全て別々の戸籍を持つようになります。
前述の通り、終戦を迎え戸籍謄本は新たな顔を見せます。
1946年(昭和二十一年)謙一籍は廃籍になり、謙一の戸籍に記載された全員が松市籍へ再入籍します。伝治に至っては、再々入籍です。
考えられる原因は、農地改革の関係ではと思うのです。小作人へ農地の解放が行われました。解放する農地の分割を簡単にする為に、統廃合をしたのではと考えます。これは、私に知識が無い為、想像でしかありません。
同様に、伝治と後妻(キク)の間に生まれた明夫も結婚して独立した戸籍を持つに至ります。
家族構成の複雑さは、伝治の死亡により表面化します。伝治の死亡によって、戸籍上では正確に把握できていませんが、同じ家屋に住んでいたはずである、戦後再婚した謙一夫婦と、その後設けた子供達と暮らす家屋の中で、伝治の後妻キクだけは、血のつながりの無い他人となってしまいます。
長女の鶴代は二十歳で死亡していて、キクの頼りは、所帯を持った明夫だけと言うことになります。
必然と言うべきか、明夫はキクを引取り暮らすことになりました。



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戸籍上の解けない謎
柴﨑家の一族が住む場所のことですが、「本家」と呼ばれる茅葺きの家屋がありました。その家屋の左隣に、松市がどこから移築・改築した家屋があり、戦後建て替えられました。私も建て替え前の家屋で暮らしていたことになりますが、その記憶がありません。
「本家」の右隣に明夫家の家屋が新築されました。しばらくの間は「本家」が謙一家族の住まいで、左隣が謙二の家族の住まい。そして、右隣が明夫家族の住まいでした。この時期には三男の啓は別の場所で独立していたと思います。
謙一、謙二は兄弟。明夫は継母の子で、腹違いの兄弟という関係でした。
三男の啓が出てこないのは、既に独立していて、警察官として転勤族だったと思われます。子供の誕生地からそれを覗うことが出来ます。
外見上は、兄弟仲良く軒を並べて暮らしていたのです。


ここで、戸籍謄本における疑問に話しを移します。
家系の調査は戸籍謄本に頼りました。
基本的には、証言できる人物は全て鬼籍に入っているからです。
戸籍法は、度々改正され、明治・大正・昭和と改正されています。最近では、平成6年式コンピュータ化された戸籍に変わって、縦書きだった以前の戸籍は、順次横書きのコンピュータ化された戸籍に変わっています。
 ●戸籍法の変遷 
戸籍法が変わって作り直された時より前の戸籍が「改製原戸籍」です。
正しい読み方は、「かいせいげんこせき」と読みますが、専門家の間では「はらこせき」とか「はらこ」と呼ばれたりするのが、この原戸籍です。

これまでに戸籍法は4回改正されましたので、4種類の改製原戸籍があります。
これには、戦後、昭和23年式戸籍になった前のもの、平成6年の法改正でコンピュータ化された以前のものなどがあります。戸籍簿の表紙の右欄外に「改製原戸籍」と書かれています。

平成6年式コンピュータ戸籍
縦書きだった以前の戸籍は、順次横書きのコンピュータ化された戸籍に変わっています。

昭和23年式戸籍
戸籍の単位が、「家」から「家族単位」に変わりました。「戸主」が「筆頭者」に変わり、「華族」「平民」などの身分呼称もなくなりました。実際に昭和23年式戸籍に変わるのは昭和32年から昭和40年くらいの間です。

大正4年式戸籍
「戸主トナリタル原因及ヒ年月日」という記述が廃止され、戸主の事項欄に記載するようになりました。ここらへんの戸籍が出てくるということは、相当複雑な場合が多いと思います。

明治31年式戸籍
戸籍の一枚目に「戸主トナリタル原因及ヒ年月日」欄が作られました。
ここでは、筆で書いた読めない戸籍に出くわすことが多いと思います。
ここまで古い戸籍が出てきたら、確実に専門家に見てもらった方が良いでしょう。

それぞれの時代の戸籍謄本を調べる事になりました。取り分け、明治三十一年式戸籍と大正四年式戸籍が対象になりました。記述自体が筆で書いたもので、正確に読めない戸籍に出くわすことになりました。
前後の関係から明らかに間違いであろう記述もありました。
一例を挙げれば、入手した柴﨑ナツの戸籍には長女の記載があります。しかし、次ぎに登場したときは、二女の記載になっていました。
以後数回登場するのですが、全て二女です。柴﨑ナツは二女だったと思われますが、長女の存在は戸籍謄本上発見できませんでした。入手できた戸籍謄本という条件付きですが、不思議な戸籍謄本です。

一例としましたが、実は調査の中で三件の同様な
記載を発見しました。
これは先に述べましたが、私の母、和恵の父は藤田賢造と言って、藤田家の長男でした。当時の藤田家には、賢造の弟に正雄がいましたが、三男の記載です。藤田家の戸籍謄本には二男の名前が見当たりません。
三件目の発見です。
実はこの三件目の発見は、私に妄想を膨らませることになりました。
これまでに、松市と伝治の関係を兄弟としか表現していませんでした。これは、これから書くことに対する内容を注意深く避けていたのです。
松市は長男であることは度々書いていました。が、伝治は三男でした。戸籍謄本には明確に記載されています。二人は十歳以上、年が離れています。
二男の存在を十分想定できます。
年齢差で、その間に兄弟が存在するであろう想定は、以前、村上家の姉妹で四女と五女の間でも同様の想定をしましたが、松市と伝治の間でも同様のことが言えます。しかも、ここでは、二人は長男と三男の戸籍上の記載まであるので現実味は歴然としています。三件の事例を挙げましたが、その全てが同じであることも興味深いのです。
柴﨑家の、松吉(長男)とナツ(二女)の年齢差も十歳です。
母方の祖父賢造(長男)と正雄(三男)に至っては、二十歳の年齢差です。
戸籍謄本に名前が載らない可能性は、理解出来ません。例えば死産に近い状態で生まれた場合?とか、誕生後すぐに死亡した? でも、それでは戸籍謄本に記載されないでしょうし、誕生後数十日でも生存していたのなら、名前も付けられると思います。
 ●死産の定義など
死産の定義には厚労省による法令上のものと、日本産婦人科学会による医学上のものの2つがあります。法令上の定義は「妊娠12週以後の死児の出産」とされ、医学上の定義は「妊娠22週以降の妊娠中絶による死亡胎児の出産」とされています。後者の場合の妊娠中絶とは、人工か否かを問わず、妊娠中あるいは分娩中に胎児が死亡した場合も含みます。

つまり死産とは、「死亡した状態の胎児を出産すること」でありますが、法令上と医学上の定義には期間のズレが生じています。一般的には法令上の解釈が適用され、妊娠4月目以降に死児を出産することを指します。

妊娠12週以降かつ22週未満で死産した場合、役所には死産届の提出が必要です。この場合は子供は母胎内で亡くなったとみなされるため、法令上子供はこの世に存在したことにはならず、出生届を出す必要がありません。よって戸籍に記載されることはなく、名前を決める必要はありません。性別を記載する欄は設けられていますが、未判明の場合は空欄で構いません。

妊娠12週以降に中絶を行った場合や、流産が死産届の対象です。 人によっては赤ちゃんの戸籍を作りたいと考える場合もあるでしょう。 残念なことに、死産届では赤ちゃんの戸籍は作られないことになっています。 また死産では出生届の提出は不要とされています。

兄弟の関係性も長男があり三男が記載されているのですから、二男の存在は明かだと思います。
私に妄想を膨らませた、松市の弟、伝治の兄を仮に「卓治」とします。
これまで、妄想は具体的に書きませんでしたが、ここで、妄想の翼を大きく広げます。
「卓治」は、生まれると直ぐに、里子に出されたのです。里子の先では実子として育てられました。
里子先は、内田家で、内田宗一として成長しました。
なぜここまで、妄想を拡げるかと言えば、妄想の根拠と言える事実があるのです。

伝治の三男、啓は、兄達とは違って農業を生業とすることはありませんでした。
他の兄弟と同様、幼くして母親を亡くし、継母に育てられました。実質は伯母のフユに育てられていたと考えられます。
啓は、公務員(警察官)としてそれなりに出世しました。
私は戸籍謄本の中に、啓の養子縁組の記述を見つけたのでした。
啓の経歴は初めて遭遇する事実でした。
両親から何も聞かされていませんでしたし、私の兄弟の誰も知りませんでした。
それは、謙一の戸籍からでした。
謙一の戸籍は直接私が入手できる立場ではなかったのですが、私の父、謙二の家系を調べる中で関連する戸籍として入手できたのでした。啓が戸主の戸籍か、謙一が戸主の戸籍謄本を入手しない限り知ることが出来ない事実でした。
啓は、内田宗一夫婦と養子縁組をしていたのです。
1940年(昭和十五年)啓は、二十六歳での養子縁組でした。
ところが、この養子縁組は、一年で破綻します。
啓は、養子縁組の破綻後一年程度で結婚しています。
誤解の無いよう確認のため書きますが、内田宗一が柴﨑家の二男である根拠は、どこにもありません。
里子に出された事実も発見出来ていません。
この想像は、一人前になった啓が、養子に行き、破談で復籍している事実から膨らんだ妄想でした。
この場合の復籍は謙一籍ですので、私には確認できませんでした。
戸籍謄本上の謎は、前記(前ページ)のコラム枠で示した内容が、疑問の回答だと思います。私は回答者の指摘を二つとも体験することになりました。
妄想と事実が混在しているのですが、奇妙な事実と言えます。
  【Yahoo!の知恵袋で発見しました】

【質問】
戸籍謄本で記載の脱落している兄弟について
家系図を作ろうと戸籍謄本を取得したところ、曾祖父の兄弟について疑問が出てきました。
曾祖父は三男ですが、二男が抜けているのです。以下のような記述になります。

戸主:山田太郎(以下仮名、高祖父)
妻:ウメ(高祖母)
長女:ハナ
長男:太郎
三男:三郎(曾祖父)
四男:四郎

●回答●
特段不思議とは思いません。
前の戸籍には載っている場合
高祖父の前戸主の時代に次男は死亡または養子に出された
前の戸籍にも載っていない場合
役所に何らかの処理ミスがあった
このどちらかでしょう。

※私はこの回答で解決済みとは思っていません。
 高祖父の前戸主の戸籍でも不明でした。
ただ、現時点では、この回答が限界だと思います。

入手した戸籍謄本は、一番古い物が明治三十一年戸籍で、前戸主が松吉になっているものでした。

松吉の両親や生年月日は不明です。
戸主は、松治で、両親や生年月日もハッキリしていました。
戸籍謄本に続いて、過去帳を入手しました。過去帳は、謙一家(本家・伝治)と謙二家(部屋・正一)に伝わる物ですが、本家筋(謙一家)の物は偶然と言ってよい経緯の中で手元に届きました。
家系を調査する中で、私の兄弟以外で共通の時期を過ごした人物がいました。従弟の芳正です。
芳正は私の一つ下で、謙一の長男です。謂わば本家の後取りですが、謙一の再婚後の子です。彼と私は共通の少年期を過ごしています。彼に会い、「本家で語られたであろう家族のこと」を聞くつもりでした。諸般の事情とでもしますが、経緯は省略します。その望みは叶いませんでした。
それでも、本家に伝わる過去帳が届いたのです。

松吉以前は不明ですが、過去帳から戒名を知ることが出来ました。しかし、戒名から実在していたであろう人物が特定できません。俗名が分からないのです。関係性も分かりません。
 当時の百姓が、どのような名前を名乗っていたのか手掛かりがありません。
過去帳からの死亡年月ですが、下記の通りです。
1808年・文政6年7月3日
1834年・天保5年8月28日
1835年・天保6年10月2日
1846年・弘化3年6月30日
1847年・弘化4年11月14日
1861年・文久元年7月14日
1867年・慶応3年6月3日(俗名・柴﨑松吉)
 最古の物が、1808年・文政6年7月3日ですので、200年以上昔になります。

・ 十返舎 一九 1765年〜1839年(明和2年〜天保10年) 58才
・ 滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年) 56才
・ 雷電 為衛門 1767年〜1825年(明和4年〜文政8年) 56才
・ 佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年) 54才
・ 近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年) 52才
・ 徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年) 50才
・ 間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年) 48才
上記が、当時活躍していた人物です。

入手した過去帳(本家の物)は、すべて同じ筆蹟で、戦後に書かれたものと思われました。
過去帳は、コピーで一部分と思われるものでした。松市・伝治の母(ハナ)以前の名前がありませんでした。大正期以後の伝治や謙一関係の死没者が見当たらないなど、物足りない過去帳でした。
「部屋(ヘヤ)」にも過去帳が存在し、フユ・タネ・松市・謙二・和恵の過去帳が存在していました。
本家の過去帳に比べ新しい名前が記載されて、謙二が、松市と同居後の死者が記載されている比較的新しい過去帳でした。
これは現物を確認したので間違いないが奇妙な間違いを発見しました。(これは、さほど重要な問題ではないので、今回は触れないことにする)
実質、謙二が当主となり松市関係の「墓」を守る立場になった形跡がハッキリ見えるものでした。
逆に本家の過去帳は、伝治から、謙一へ相続された実態が読み取れるし、本来なら松市が守るべき立場だった柴﨑家の系譜が記載されている。
本家に現存する過去帳は、現物を見ていないが、松市と伝治の複雑な関係を反映しながら、伝治から長男謙一への家督相続が、家系の実態からすればなし崩しに終了しているのでした。それは、謙一籍が、松市籍の分家として始まっているからです。

私の想像より意外に歴史があるのだと思いました。
少々「家系図」から離れてしまいましたが、家系図の作成に当たって気がついたのですが、改めて言うほどのこともなく当然の事なのですが、「家系図」は血筋の系図と云えます。
家系図は、血筋を中心にした系譜を辿り示すことができます。戸籍謄本などで補完説明をすることができます。今では戸籍謄本と住民票で生活実態を把握できるが、実際のところ心許ない。当事者が忠実に届出などしていない場合その実態の把握までは難しい。
戦前であれば尚のことで、当事者が亡くなれば殆ど解明は出来ません。




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