研究室_蛇足的研究

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2026年04月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_179
女と僧正と犬

シリーズ作品【大奥婦女記】の第六話

〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月


綱吉には男の子がなかった。まだ将軍とならないで館林邸にいる頃、お伝の方が男子を出生したことがある。名を徳松と名づけたが五歳で死亡した。それからは二,三侍妾が懐妊したが、ことごとく流産した。育ったのは紀州家に輿入れした鶴姫という女だけである。「男の子が欲しい」綱吉もお伝の方も願っていたが、とりわけそれを希求したのは母の桂昌院であった。「和子をお生みなされ」と時にふれお伝の方に云ってみるのだが、こればかりは人力では及ばなかった。こう上は神仏に頼るほかはなかった。それにつけても思い出すのは、桂昌院がまだ京の八百屋の娘として幼かった頃、彼女を一目見て、ゆくゆくは天下の上にたつ母君となられようと予言し、その後も彼女の懐妊を見て男子といい、それも将軍家をつぐ方だと予言して的中した護国寺の亮賢のことである。「偉い僧−−−」という尊敬に、今さら彼女は彼を思った。
綱吉は犬公方と呼ばれた。
生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。
タイトルの「女と僧正と犬」が、書き出しで全て理解出来る感じがする。

綱吉が将軍になるについては、「京から来た女」でもその経緯が書かれている。
大奥婦女記」を順番に紹介しなかった為、第四話「予言僧」・第五話「献妻」との関係がぼやけてしまった。
予言僧」は、護国寺の「亮賢」。「献妻」は、綱吉の女癖の悪さが書かれているようだ。

綱吉は基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に寄ったことは寛文3年の将軍家綱に随伴した
日光詣での帰路のみであったとされる。
悪法と言われる「生類憐みの令」に関連して、蚊を殺して島流しになったという記録もある。
生類憐みの令は、動物愛護の観点からではなく、綱吉の母が動物を殺すなと僧侶に助言されたことによるものとされる。
その僧侶が「亮賢」。
綱吉の身長について逸話がある。
徳川家菩提寺の大樹寺にある歴代将軍の位牌は、その身長と同じ高さで、綱吉は124cmと本当に小さい男だった。
12将軍の各位牌は、没後に幕府から送られたもので、寺伝は「位牌の高さは将軍の身長にあわせ」てあるという。
説明札に従い家康159cm、秀忠160cm、家光157cm、家綱158cmと辿り、綱吉まで来ると、そこには124cmとあった。
124cmとは小学2年生程度の平均身長ではないか。
どうやら事実らしい、「小児病」だったと言われる。しかし、文献としては殆ど残っていない。
清張はどのように描いているのだろうか?