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検索キーワードに見る清張作品の傾向と対策?

(その二十五:両国)

清張作品の書き出し300文字前後からあぶり出すキーワード!
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●両国

三人の留守居役」(彩色江戸切り絵図:第四話)
見世物師」(紅刷り江戸噂:第四話)
武将不信」(別題=不信)
正太夫の舌」(文豪:第三話)

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「正太夫の舌」を除いて時代物。
シリーズ作品の『彩色江戸切り絵図』や『紅刷り江戸噂』などここの登場した作品以外にも沢山有りそうだ。
「逃亡」(原題:江戸秘紋)にも両国が登場する。(場所の説明だが。>両国を西に渡り詰めたところが柳橋


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●出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
両国(りょうごく)は、東京都中央区・墨田区両区の両国橋周辺一帯。また、墨田区の町名の一つである。

おおざっぱに言えば以下のような経緯を経て、隅田川の西岸の名称は両国、日本橋両国、東日本橋と変遷し、一方東岸は向両国、
本所東両国、両国と変遷したため、かつては隅田川西岸にあった両国が東岸へと移動した。

本来、両国とは、隅田川西側の武蔵国側の称である。元禄時代(1688年)からの本所深川開発以降、
現在の両国である旧下総国側(墨田区側)を東両国(向両国・むこうりょうごくとも)と呼ぶようになった。
江戸期には、後の東日本橋地区に留まらず、近隣の日本橋馬喰町、日本橋横山町、日本橋久松町なども含めて、
隅田川の西側の地区が両国の名称を使用し、または両国を冠称していた。
本所、深川は旧来の下町(神田、日本橋、京橋)からは「川向こう」であり、西側が本家の両国、川向こうは東両国(向両国)だった。
路面電車の「両国停留場」、「両国郵便局」など、西岸にあるものに「両国」の名称が使用されるのも、その名残である。

1878年(明治11年)の東京市15区創設後、西側を日本橋両国、東側を本所東両国と言うようになった。
中央区側を西両国と表現するのは俗称である。
その後、両国駅の開業や両国国技館の開館に伴い、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。
1971年には住居表示の実施に伴い、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研堀町などと併せ東日本橋と改められ、
現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに1967年、住居表示実施時に東両国から両国へ改称されている。

東日本橋地区内には東日本橋二丁目両国町会、東日本橋両国商店街が存在した。
現在は共に名称を変更し、東日本橋二丁目町会、東日本橋やげん堀商店会(2004年前後)となった。



2021年10月21日

 



題名 「両国 上段は登録検索キーワード 
 書き出し約300文字
三人の留守居役
(彩色江戸切り絵図:第四話)
小笠原家・阿部家・稲葉家・挟箱・貸衣装屋・付箋・芸者・料理屋・札差・櫛・笄・簪・財布(紙入れ)・戯作者
そろそろ夏に向かう四月末の八ツ刻(午後二時)ごろのことだ。両国に甲子屋藤兵衛という大きな料理屋がある。その表に駕籠が三挺連なって到着した。挿み箱を持った供は居るが、三人とも三十から四十ぐらいの間で、立派な風采をした武士だった。だが、この茶屋の馴染みではない。はじめて顔だから女中が走り寄って、「どちらさまで?」と丁寧に訊いた。甲子屋は、この辺で聞こえた名代の茶屋だからむやみと客を通さない。「われわれはさる藩の留守居の者だが、暫時座敷を借りて寄合いをしたい」と、その中で年嵩たかな男が告げた。帳場の中から様子を見ていたおかみも、藩の留守居役と聞いて心にうなずいた。風采が立派なだけでなく、その渋い中にも粋好みがみえる。とても普通の武士ではこのような呉服の高尚さは分からない。 
見世物師
(紅刷り江戸噂:第四話)
このところ、両国の見世物小屋はいい種がなくてどこも困っていた。見世物小屋は両国と浅草の奥山とが定打ちだった。常設となれば、年じゅう新しい趣向を探していなければ客足が落ちる。両国橋を隔てた東と西の両側がこうした娯楽地だった。両方とも娘義太夫、女曲芸、講釈、芝居といった小屋がかかっているが、見世物もその一つである。ほとんど一年じゅう休みなしに興行をつづけているので、いつも同じものを見せてはならない。観客を飽きさせないように、ときどきは出し物の種を変える必要がある。この前は蛇使いを見せたから今度は一本足を見せる、次はろくろ首、その次は一つ目小僧、夏は化物屋敷きというように趣向を変えた。だが、客のほうはどうせマヤカシものとは分かっていながらも木戸銭を払って見てくれる。しかしどうしても新趣向の見世物小屋へ客足が集まるのは人情だ。
武将不信」(別題=不信) 羽州山形城主最上義光は、秀吉の存生中からしきりと家康に慇懃を通じていた。それも信長の死後、秀吉の全盛に向かっているころであるから、彼は家康のどこかに恃むところがあると見抜いていたのであろう。家康がまだ岡崎にいたころから、七寸八分の川原毛馬で、左右自在、出羽奥州無双の早馬の故に両国と名づけたのを贈った。家康は大そう喜んで、その馬を秘蔵して乗馬とした。それから、毎年、義光は家康に、奥羽の駿馬と鷹とを進上した。「貴下の御厚意はまことに御奇特である。今後とも変わらずに、懇ろに願いたい」家康は律儀に必ず自筆の礼状をくれた。秀吉の滅茶苦茶な文法と下手糞な文字の手紙からくらべると、家康の人柄をうつしたように書風も重厚で知性が匂った。義光は争乱の出羽国を斬り従えて一国の領主となったいわば辺土の武人である。中央の様子もよく分らからぬ北の国にあって、赤光のような秀吉に幻惑されずに、地道な家康に眼をつけた直感は、あとになって己れをいたく満足させた。
正太夫の舌
(文豪:第三話)
七月末の日曜日の午後、自分は作製明治三十六年一二月末日現在「本所区全図」なるものを片手に横網町一丁目十七番地の旧所在地を探して歩いた。著作者東京市小石川区原町百三十二番地飯田錦之助、発行所同区関口水道町四十二番地のこの地図は実に精密である。当時の番地は小さな狭い区画であるから、現今のおおまかな番地の広さと違い、碁盤の目のような柳島横川町、緑町のあたりでも、田圃の畦道がそのまま番地の区画になって、犬牙錯綜の向島の地域でも克明に細かい数字が振ってある。で、わりあいに区画の整った横網町一丁目は一から十九番地まで明瞭に出ている。自分は現在の「墨田区詳細図」をもう一枚持って都電を両国停留所で降りた。すぐ右手つまり南側に日大講堂の円い屋根が見える。いうまでもなく前の国技館、昔の回向院あとで、自分の持った明治の地図によると、この回向院と両国橋と都電両国駅とが探す目標の三角点になる。

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