護聖寺
現住所:福岡県北九州市小倉南区大字辻三307
(撮影日/2015年8月3日)
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福聚寺
現住所:福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7
(撮影日/2015年8月3日)
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東禅寺
現住所:福岡県宮若市湯原62
大失敗か? 現場を撮る(「或る『小倉日記』伝」等/10月21日の更新)で、 「或る『小倉日記』伝」のゆかりの地として東禅寺を取りあげた。 「東禅寺」は全国各地にあるが、福岡では福岡県宮若市湯原62の東禅寺が 小倉にも近いし、確信的に早合点した。いや、早合点かも知れないと気づいたのは 「松本清張地図帖」(帝国書院)P40を再読したからでした。(11月27日のこと) 同書によれば、東禅寺は森鴎外旧居(小倉北区境町)近くにあったという...と書かれている。 地図で調べても記載が無い。(近くにあったという...と、過去形で書かれている) すでに無くなっているのだろうか? 東禅寺については細かい描写はない。 >東禅寺は小さい寺だった。塀の内側から木犀が道路に見えていた。 >ふじと耕作とが庫裡に廻ると眼鏡をかけた小肥りの僧が白い着物をきて出てきた。 >胡散げに耕作をじろじろみた。 大失敗でした。わざわざ出かけたのであるから失態でもある。が、笑えるエピソードとして 自己を慰めている今日この頃です。 お詫びして訂正します。 2015年11月28日記 |
(撮影日/2015年8月3日)
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■鴎外旧居
北九州市小倉北区鍛治町一丁目7-2
(撮影日/2015年8月2日)
撮影現場 | ●護聖寺/現住所:福岡県北九州市小倉南区大字辻三307 「バスを降りてからの山道はひどかった..」と書かれている通り。 「三岳梅林公園」の奥にあり、車でもなかなかの道であった。 梅の季節以外には、居住者以外の車はほとんど通らないだろう。 ●福聚寺/福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7 広寿山にある寺だが、山麓にかなり広い敷地に建物がいくつかあった。 ●東禅寺/現住所:福岡県宮若市湯原62 こぢんまりした寺だが風情のある寺だった。参詣者がいた。 近くに梅の木が多くあった。 ※作品登場順 日程の関係で、鴎外旧居(8月2日) 8月3日に護聖寺→東禅寺→福聚寺と廻った。 |
作品登場場面 | 作品登場場面 ●護聖寺 次に耕作は「安国寺さん」の遺族を訪ねたいと思った。 短篇『二人の友』では安国寺さん、『独身』では安寧寺さんとなっている。 .....安国寺さんの本名は玉水俊虠(しゆんこう)といった。 大正四年の鴎外日記には、「十月五日。僧俊虠の訃報至る。福岡県 企救群西谷村護聖寺の住職なり。弟子玉水俊鱗に弔電を遣る」とある。 .....耕作は弁当の入った鞄を肩から吊し、水筒を下げ、わらじを はいて出かけた。ふじは気づかったが、大丈夫だといって出発した。 バスを降りてからの山道はひどかった... ●福聚寺 交錯は期待をもった。広寿山というのは小倉の東に当たる山麓の寺で 福聚禅寺といった。 旧藩士の菩提寺で、開基は黄檗(おうばく)の即非である。鴎外は 小倉時代に『即非年譜』というのを書いているから、よく広寿山を訪れた かも知れない。 その頃の寺僧がまだ生きているとすれば、思わぬ話が聞けるかも 知れなかった。 それは暖かい初冬の日だった。耕作は山田てる子と連れ立って 広寿山に登った。 ●東禅寺 東禅寺は小さい寺だった。塀の内側から木犀が道路に見えていた。 ふじと耕作とが庫裡に廻ると眼鏡をかけた小肥りの僧が白い着物をきて出てきた。胡散げに耕作をじろじろみた。 ----------------------------- 黄檗(おうばく):日本における仏教の宗派 木犀(もくせい):モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。(ギンモクセイ) |