| 研究室_蛇足的研究
2026年04月21日 |
清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!
研究作品 No_180 【元禄女合戦】 シリーズ作品【大奥婦女記】の第七話 〔新婦人〕 1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月 |
| 綱吉の夫人は京都の関白鷹司家の女で信子といった。綱吉がまだ将軍となる前の寛文四年の秋に、京から東海道を下って江戸の館林邸に輿入れしたのであった。「関東は気風の荒いところ、まだ東えびすの気質が残っているそうな」十六歳の彼女は、そう聞かされて心に怖れを抱きながら下向したのであった。お付女中万里小路は、彼女の慰め役であり、勇気づけ役であった。神田の館林家の上邸での新婚の生活を経て、夫が将軍となり、江戸城に入っての生活となると、彼女の起居する大奥の女中どもの作法の荒々しいのは、聞いた以上であった。大奥の行儀は、春日局が遺した風習である。それは戦国の遺風であり、万事が質素堅実であるが、少しも女らしい作法は無かった。京の高貴で、典雅な雰囲気の家庭に育った彼女は、まるで数百人の男の世界の中にただ一人棲む思いがした。 |
| >京から東海道を下って江戸の館林邸に輿入れしたのであった。 江戸の館林邸の表現が気になった。 この記述の、「江戸の館林邸」とは、神田の館林家で、館林藩の上野邑樂郡(オウラグン)ではない。 ●館林藩(たてばやしはん) 上野邑楽郡にあった藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。1845年、井上正春が転封となり、秋元志朝が6万石で入封、それ以後1871年の廃藩まで秋元家が藩主として続いた。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。 邑楽郡(おうらぐん)は、群馬県(上野国)南東部に存在する郡。平成の大合併においては、群馬県内の郡では唯一所属する全町が合併を行わなかった。古くは「おはらぎのこおり」とも読まれた。 綱吉は実質的には館林には住んでいなかったのでは」?「女と僧正と犬」でも触れた。 ●出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 綱吉は基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に寄ったことは寛文3年の将軍家綱に随伴した日光詣での帰路のみであった。 綱吉の正室は、関白鷹司家の女で、信子と言った。彼女も「京から来た女」だった。 ●鷹司信子:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 鷹司教平の長女として京都で生れた。通称は小石君。 寛文3年(1663年)10月15日、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉との縁組が発表され、翌4年 (1664年)9月に東福門院の女房が付き従って下向し、18日に神田御殿にて婚礼を挙げた。子宝には恵まれなかったが、綱吉とは一緒に能を鑑賞したり、祭礼見物をしたりと、行動を共にする機会が多く、これは側室のお伝の方が鶴姫、徳松を儲けても変わらなかった。 春日局が権勢を振るっていた時代で万事が質素堅実だった。戦国の遺風を色濃く残していたので、 >京の高貴で、典雅な雰囲気の家庭に育った彼女は、まるで数百人の男の世界の中にただ一人棲む思いがした。 のだった。 浅宮顕子⇒鷹司信子 と正室は、京女が続き、大奥の気風も変わっていった。 |