研究作品 No_188
【天保の初もの】
シリーズ作品【大奥婦女記】の第十二話
〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月
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| 十一代家斉は、「やりたいことをやって」死んだ将軍である。彼くらい気儘な栄華をたのしんで死んだ将軍は居ない。侍妾、二十数人、その腹に生まれた子女は五十四人もあった。その子を他の代名たちの夫人にするのに、数が多すぎて困ったという話がある。貰った大名たちの中では、押しつけられて、有難迷惑だった向きもだいぶあった。家斉の時は、大奥、大名、旗本に至るまで奢侈を極めていた。賄賂は横行し、政治はだらしなく、腐敗していた。幕府の財政が窮乏したのは当然である。家斉の第一の籠妾がお美代の方である。彼女について賄賂を贈り、「何とぞ、拙者を西丸御老中にご推薦下され」と頼み込んだ若い大名がある。京都所司代水野越前守忠邦という利かぬ気の顔をした男であった。お美代の方は、水野の男らしい顔をじっと眺めていたが、にっこり笑って、「安心するが好い」と請け合ってくれた。 |
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徳川 家斉(とくがわ いえなり、旧字体: �コ川家齊)は江戸幕府の第11代将軍(在任:天明7年(1787年) - 天保8年(1837年))。第8代将軍吉宗の曾孫。第10代将軍家治は従伯父(実父の従兄)かつ養父。
生涯
第11代将軍就任
一橋家当主・一橋治済の長男として安永2年(1773年)10月5日に出生。母は旗本の岩本正利の娘・富子。
安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿の一橋徳川家の徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。この際に家斉を将軍継嗣とした立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている。竹内誠はこの継嗣決定に何か裏があり、意次の弟・意誠やその子・意致らが家老として一橋徳川家と通じていたことから、意次と治済が必然的に将軍継嗣を出す素地を作り出していたとしている。
家治(50歳)が天明6年(1786年)に病死したので、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に成る。
いきなり家斉の評価から始まっている。
>十一代家斉は、「やりたいことをやって」死んだ将軍である。
侍妾が、二十数人。子女が、五十四人
政治は腐敗し、幕府の財政は窮乏、賄賂政治が横行。救いようのない時代と言えた。


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