研究室_蛇足的研究

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2026年08月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_187
【米の値段】

シリーズ作品【大奥婦女記】の第十一話

〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月

六代将軍の家宣が綱吉のあとをうけて、将軍職をついだ匆々の頃である。家宣が、まだ甲府家で綱豊といったころ、何かにつけて五大将軍の綱吉から冷視された。綱吉はわが子に将軍職を譲りたかったため、綱豊が邪魔になって仕方がなかった。自然、そのころの大奥も、甲府家に対して憎しみをもっていた。しかるに綱吉はどうしても世継ぎが出生しない。遂に彼は諦めて、嫌々ながら綱豊に世を譲った。綱豊が家宣と改めて将軍職につくと、今まで陽の当たらぬ場所にいた甲府系の女中たちは、「それ見たことか」「今度こそ、われらの世じゃ」とばかり、逆に綱吉時代の勢力を大奥から駆逐しはじめ家宣の愛した中臈に、左京の方というのがあった。はじめは、お喜世といって町医者太田宗因の女であった。老女玉江の部屋子に上がっていたのを、綱豊がその美貌を見て所望したのであった。
六代将軍は家宣



家宣は、いくつかの改名を経て、家宣を名乗っている。
新見左近→松平虎松(幼名)→徳川綱豊→家宣

時代背景として
文昭院殿霊廟の鐘楼(旧国宝、1945年焼失前)
宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、宝永通宝の流通と酒税、類憐れみの令の一部を順次廃止した。
さらに、柳沢吉保の辞職により側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用して、綱吉時代から始まった文治政治を推進し、
琉球や李氏朝鮮との外交や宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。
しかし在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去。享年51(満50歳没)。
家綱・綱吉と同様に家宣も後継者に恵まれず将軍職を継いだのは4男で3歳の家継で、
政治は引き続き間部や新井白石らに依存した。