研究作品 No_185
【ある寺社奉行の死】
シリーズ作品【大奥婦女記】の第十話
〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月
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| 文政十二年十月下旬、脇坂淡路守安董が寺社奉行となった。寺社奉行というのは名の通り、社寺を総轄する役目だが、地位としては大切なところにあった。寺社奉行を勤めれば、次が若年寄り、次が老中、大老と出世するいわば官界の登竜門といわれていた。しかし脇坂淡路守の寺社奉行は、この年がはじめてではない。その前、文化十年に一度勤めたことがある。この時は谷中の延命院事件というのを徹底的に検挙して、坊主どもを慄え上らせた。この延命院事件というのは、住職の日当という日蓮宗の坊主が、多数の大奥女中の帰依を得ていて、遂には五十数名の女を籠絡した一件であった。大奥女中の行状は、そのころ眼に余るものがあったが、何分、相手が大奥であるから、歴代の寺社奉行が見て見ぬ振りをしていた。迂闊に手をつけたら己の失脚となる。それを、脇坂安董が暴いて裁いた。 |
「ある寺社奉行の死」は、将軍を中心に描かれていたこれまでと少し違う方向から書かれている。
しかし、書き出しでの感じで無謀な予見と言える。
日蓮宗の坊主である、「日当」の所業が中心のようだ。
「大奥婦女記」には、悪徳坊主と言える人物が歴代登場する。
「予言層」=亮賢:濃い眉毛が黒々と一文字。仁和寺の僧、桂昌院の信任で護国寺の僧正となる。予言僧。
「献妻」=詮応大僧正:綱吉の学問好きを苦々しく思う。桂昌院に忠告するが一喝される。
「女と僧正と犬」=隆光:大和の辺陬の一寺の伴僧にすぎなかったが、亮賢の引き立てで、桂昌院に認められる。
「元禄女合戦」=覚彦:仁和寺門主の元にいる僧。醍醐報恩院の老僧覚順の推挙で江戸に下り、右衛門佐の懐妊の祈祷を行う。
「日当」(ニットウ)は、「日動」・「日潤」とも呼ばれていて正確なところはハッキリしない...
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
●延命院事件
延命院では江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こった。
この事件は延命院住職であった日潤の女犯事件であり、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだスキャンダルとなり、江戸を揺るがせることとなった。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、大変男前であり、話も上手だったと言われている。そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになった。
こうした情報を得た寺社奉行脇坂安董は、取締りを決意するが、大奥も関係していることから安易に動くわけにはいかず、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから摘発をした。享和3年(1803年)7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子などもそれぞれ処罰された。
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延命院
所在地 東京都荒川区西日暮里三丁目10番1号
山号 宝珠山[1]
宗旨 日蓮宗
本尊 大曼荼羅 |
「延命寺事件」を脇坂安董(ワキサカヤスタダ)が暴いて裁いた話なのだろう。
【谷中延命院一件】
「谷中延命院一件」は、大奥女中を巻き込んだ女犯スキャンダル事件である。当時の延命院住持は日潤といい、歌舞伎役者初代尾上菊五郎の隠し子だと言われるが、異説もある。この日潤が多数の大奥女中と密通しているという噂が飛び、享和3年(1803年)、安董は女密偵を使って慎重に内偵を進め、5月26日みずから延命院に踏み込んで日潤ら破戒坊主を検挙、日潤は7月29日に死刑に処された。安董はこれで一気に名を馳せた。
●脇坂 安董(わきさか やすただ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
脇坂 安董(わきさか やすただ) は、江戸時代中期から後期にかけての大名・寺社奉行・老中。播磨国龍野藩8代藩主。
官位は従四位下中務大輔、侍従。龍野藩脇坂家10代。
貂の皮(テンノカワ)

「またでたか 坊主びっくり 貂の皮」
貂の皮は、脇坂家の馬印(大名が自身の位置を示すための表示具)として、行列には常に使用されていた。
貂(テン)=イタチ科の動物
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