研究室_蛇足的研究

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2026年06月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_184
絵島・生島

シリーズ作品【大奥婦女記】の第九話

〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月

六代将軍の家宣は病気勝ちであったが、正徳二年九月に齢五十一で死んだ。どういうものか生まれた彼の子は二人とも亡くなり、無事に育ったのは鍋松という庶子だけであった。ようやく四歳になったばかりのこの幼児が将軍職を嗣いだ。家継である。幼い将軍の生みの母は、家宣の愛妾であった左京の方である。彼女は家宣の死後、習慣に従って髪を薙した。月光院といった。将軍の実母という立場は強い。家宣の御台所も月光院の前には存在が薄くなった。前将軍の正室であっても当代と血縁がないから地位が弱まるのも仕方がない。御台所はそのため悲しんで京都の実家に帰ると云い出したほどだった。それにくらべると、たとえ側妾であっても月光院は家継の母であるから大奥では実力第一となった。その上、家継は幼児であるのでしぜんと将軍の後見ということにもなった。仕置(政治)のことは前代からのお気に入りの側用人間部詮房が一切をとりはからった。
前作の「転変」から将軍が変わって、六代将軍家宣になった。
それに伴う、大奥の権力関係が変化していった。
無知なるが故に、はじめは、生島を大奥の女と勘違いしていた。結果がタイトルの「絵島・生島」が大奥の権力争い...
話は、「絵島(江島)・生島事件」だった。生島とは、生島新五郎という歌舞伎役者。

家宣は、二人の子が亡くなり、育ったのが庶子の鍋松。
鍋松は、四歳で将軍職を継いだ。家継と名乗り、7代将軍となった。しかし、六歳で没している。
鍋松の母は、家宣の愛妾で左京の方と言った。左京の方は、家宣の死後、髪を薙して、月光院と名乗った。


●「庶子」とは?
庶子とは、正妻ではない女性(妾など)が生んだ、父に認知された子どもを指す歴史的な用語で、嫡子(正妻の子)に対する言葉です。
近代以降の日本法では差別的な意味合いから使われなくなり、現在は主に歴史や物語の文脈で用いられます。

●「髪を薙した」の意味は剃ったの意味だと思うが正確な読みは分からない。「薙」は、薙刀(ナギナタ)のナギと読む。
将軍(家継)の母は、愛妾といえども、実母で、御台所より実権を握ったと言える。
家継は幼児なので、月光院は後見となることが必然で、政治のことは先代の家宣のお気に入りの間部詮房が一切を取り仕切った。

●徳川家継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。
江戸幕府の歴代将軍の中で最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。

生涯
将軍になるまで
宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の四男として江戸城西ノ丸で生まれる[1][注釈 2]。母は側室・於喜世之方(勝田氏)[1]。童名は世良田鍋松[1]。同年12月4日、本丸へ移る。

家宣の子は病弱で、正室・近衛熙子(天英院)との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)に早世し、宝永4年(1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2か月で早世し、宝永5年(1708年)に生まれた大五郎も宝永7年(1710年)8月に早世した。正徳元年(1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、鍋松だけが生き残った。

側近政治
家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。幼少である将軍の身の回りの世話をするため、元来大奥に限定された女性の行動圏が、この頃は中奥御座之間周辺まで拡大した。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず(『三王外記』)、
正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。

●絵島(江島)
絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。名前は「江島」が正しいとされる。]歌舞伎役者・生島新五郎とともに、江島生島事件の中心人物である。本名はみき。

●江島・生島(生島新五郎)
江島生島事件 江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島が歌舞伎役者の生島新五郎(いくしましんごろう)らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件です。 大奥は、江戸時代将軍家の血筋を守るために設けられた居所で、正妻や側室や将軍の子、女中らが住まい、原則男子禁制です。