研究室_蛇足的研究

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2026年02月20日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_178
京から来た女

シリーズ作品【大奥婦女記】の第三話

家綱は画が好きであった。見るのも好きであったが、自分でも描いた。その頃、世間に名高かった画師狩野探幽や永真安信などをよく召出して席画などさせて興がった●蔵書【松本清張全集 29 逃亡・大奥婦女記】●「新婦人」1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月
〔新婦人〕
1955年(昭和30年)10月〜1956年(昭和31年)12月


家綱は画が好きであった。見るのも好きであったが、自分でも描いた。その頃、世間に名高かった画師狩野探幽や永真安信などをよく召出して席画などさせて興がった。ある時、酒井忠勝の邸に行った時など、広大な庭の築山や泉水の模様を家綱は自分で写生した。画には居合わせた重臣まで配し、その家紋まで巧みにかき込んであったから誰誰であるか一目で分かったという。家綱がこのように画に趣味があったのは、彼の虚弱な体質からきていた。弱い彼が四十歳まで生きていたのはむしろ長命の方である。が、彼よりもっと繊弱だったのは、その夫人である。夫人顕子は伏見宮貞清親王の姫で浅宮といった。京より姫宮を迎えたのは、矢島局をはじめ大奥の女中どもが家綱を虜囚にしてわが儘をふるったので、それを抑えるための老中の計らいだった。浅宮に従って、右衛門佐局、飛鳥井局、姉小路局などの堂上家の女たちが下がった。このため大奥の行儀が著しく京風の格式になった。
家綱は、4代将軍。38歳で没している。(生誕:寛永18年8月3日(1641年9月7日)死没:延宝8年5月8日(1680年6月4日))
妻 正室:浅宮顕子
側室:吉田兼起の娘・養春院/佐脇安清の娘・円明院
●将軍就任
寛永18年(1641年)8月3日、第3代将軍・徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれる。
母は七澤清宗の養女・楽子。幼名は竹千代。乳母は川崎(真現院)・三沢局。
父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。
その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。

書き出しは、家綱が将軍になる時期の大奥の様子と家綱の人となりを描いている。
気になる表現がある。
>浅宮に従って、右衛門佐局、飛鳥井局、姉小路局などの堂上家の女たちが下がった。
このため大奥の行儀が著しく京風の格式になった。

下がったの表現が気になった。「上がった」ではないかと思ったのでした。
続く表現が、「このため大奥の行儀が著しく強風の格式になった。」とあります。
前後の関係から「下がった」は、大奥に入ったの意味であろうことは想像出来ます。ただ、「下がった」と表現するのだろうか?
確認したが、「全集29」では、間違いなく「下がった」と書かれています。私の知識不足かもしれません。

矢島局以後の大奥の権力争いは、右衛門佐局、飛鳥井局、姉小路局などに移っていくのだろうか?


●家綱が描いたとされる絵



●狩野探幽の代表作