研究作品 No_158
【坂道の家】
(シリーズ作品/黒い画集:第三話)
〔週刊朝日〕
1959年(昭和34年)1月4日号〜4月19日号
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杉田りえ子がはじめて寺島小間物店の店先に姿を見せたのは、夏の終わりかけであった。寺島吉太郎は、その日のことをよく覚えている。化粧品問屋の外交員が来ていて、吉太郎は店の奥の机の上で手形を書いている時だった。陽の明るい外から、人影が射して店の内に入ってきた。店員の高崎とも子が椅子から立ちあがった。「いらっしゃい」手形の印判を捺しかけて、吉太郎はその方へ頸だけ振った。店へはいってくる客には、主人の吉太郎もかならず大きな声で挨拶をすることにしている。二十二三の女で、今まで見かけない顔だった。商売がら、この店の客はほとんど女だが、いつも買いにくる馴染み客と、フリの客とが半々だった。国電の駅が近く、通りがかりに買物していく客があんがいに多い。しかし、そのときはいってきた女は、はじめての顔だが、遠くの人ではなかった。顔に化粧がしてないし、洋服はこぎれいだが、ふだん着のようだった。
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最近では、小間物店なる商売を生業にしている店はほとんど見かけない。
※小間物を売買する商人。 塗物の容器,箱物,眼鏡,刃物,はさみ,櫛(くし),笄(こうがい),ちろりなどの品物。
品物は小間物問屋に集荷され,小売の小間物屋がそれらを仕入れて売った。
女性客がほとんどらしく、国電の駅が近くにあるのなら、都内のどこかだろう。
二十二三の女で、通りがけの客らしい。
主人の寺島吉太郎の値踏みでは、
「はじめての顔だが、遠くの人ではなかった。顔に化粧がしてないし、洋服はこぎれいだが、ふだん着のようだった。」
単純に考えれば、二人の出会いが事の始まりと言える。
問題は、店員の高橋とも子がいることだ。
彼女の役割が見当も付かない。
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