研究室_蛇足的研究

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2024年02月20日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_153
突風
(シリーズ作品/紅刷り江戸噂:第三話)

十一月八日は吹革祭りである。鍛冶、鋳物師、錺、白金細工、すべて吹革を使う職人が、この日稲荷を祭って息災を祈る。同じ火の行事で、つづく十六日には秋葉権現の祭礼が行われる。●蔵書【松本清張全集24】(無宿人別帳・彩色江戸切絵図/紅刷り江戸噂)文藝春秋社●「小説現代」1967年(昭和42年)4月号〜1967年(昭和42年)5月号
〔小説現代〕
1967年(昭和42年)1月号〜1967年(昭和42年)3月号


十一月八日は吹革祭りである。鍛冶、鋳物師、錺、白金細工、すべて吹革を使う職人が、この日稲荷を祭って息災を祈る。同じ火の行事で、つづく十六日には秋葉権現の祭礼が行われる。これは火除けの守りで、向島の秋葉社には参詣人が多い。向島の三囲稲荷から遠くないので春などでは遊びがてら行く者が少なくなかった。遊山舟の多くは浅草から出て三囲に上陸し、遊び暮らして舟に戻る。なかには吉原に繰りこむ者もいた。初めから遊山舟に芸者を伴れ、秋葉社の庭を眺めて遊ぶ者もある。古川柳に「秋葉から川へ三味線とりにやり」「狐から上がり天狗で日を暮らし」というのがある。狐は三囲稲荷に托し、天狗はもちろん秋葉社にかけている。また「船頭へ呑めと秋葉へ上りしな」というのもある。しかし、これは春のことだ。吹革祭りも済み、風が冷たくなった十一月十六日の朝のことであった。浅草御厩河岸から三囲の下に渡る舟は、秋葉の祭礼に行く客で混み合っていた。
突風」(【影の車】第八話/全集では除外)が、同姓同名で存在する。

舞台は秋葉権現の例祭。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。
火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。
また、明治2年12月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、
本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。
その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。

秋葉と言えば、東京の秋葉原を思い、勝手に神田近くに何処かに「秋葉神社」が祀られているのだろうと思っていたが違う様だ。
向島の「秋葉社」のことで、火除けの神様と言われている。
>浅草御厩河岸から三囲の下に渡る舟は、秋葉の祭礼に行く客で混み合っていた。



正応年間(1288年〜1293年)に創建された。
元々は稲荷神のみを祀っていたが、遠江国周智郡(現・静岡県浜松市天竜区)の秋葉権現社(現秋葉山本宮秋葉神社)から
秋葉権現の分霊を勧請した。

1702年(元禄15年)に大改築を行い、当地でも著名な神社となった。
鎮火の神として諸大名に崇敬され、境内には各大名から寄進された石灯籠が残っている。
中でも大奥からの信仰が篤く、物見遊山も兼ねた女中の参詣が盛んだったという。




御厩河岸は、浅草三好町(現東京都台東区蔵前二丁目)一帯の隅田川沿いの地のことで、
現在の厩橋の西詰周辺と言った方が分かりやすいかもしれません。
江戸の当時は、ここには厩橋は無く、その代わりに、「御厩河岸の渡し」と呼ばれる渡し船が、
御厩河岸と対岸の本所石原町(現墨田区本所一丁目)とを結んでいました。

「御厩河岸の渡し」は、船上から遠くに富士山を望むことから、別名「富士見の渡し」とも呼ばれていました。
この様子は、葛飾北斎の富嶽三十六景の秀作「御厩川岸より両国橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしのせきようをみる)」に
見ることが出来ます。


鬼平犯科帳にも出てくる舞台のようです。











書き出しで舞台は揃ったが、具体的に登場人物は誰も登場しない。
題名の『突風』も含めて、何も分からない書き出しである。