研究作品 No_152
【七種粥】
(シリーズ作品/紅刷り江戸噂:第一話)
〔小説現代〕
1967年(昭和42年)1月号〜1967年(昭和42年)3月号
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その年正月六日は雪であった。「よく降るな」と、庄兵衛は炬燵の中にまるくなりながら、中庭の松の上に積もった雪を見て云った。広い家の中だが、しんとしている。「七種が明日にきて、やっと正月らしい気分になったわな」と、お千勢は庄兵衛に茶を淹れながら答えた。「うむ、おおきにそうだ。三ガ日は、まるで休んだような心地がしなかったからの」と、庄兵衛は若い女房のお千勢から渡された湯呑を手で囲いながら、軒から落ちる白いものを眺めた。庄兵衛は、日本橋掘留でかなり手広く商売をしている関東織物の問屋であった。今年四十九の小厄だ。先妻は七年前に死んで、いまのお千勢を五年前に迎えた。年は二十くらい違う。その器量を望んで庄兵衛が川越からもらった。お千勢の親は川越の地主だが、いったん嫁に行ったのが亭主の若死で家に戻ってきていたのだった。 |
七草粥は中国の風習が由来とされています。 中国が唐と呼ばれていた時代、1月7日の「人日の節句」に七種菜羹(しちしゅさいこう、しちしゅのさいこう)という7種類の野菜が入った汁物を食べて無病息災を願う風習があったそうです。
この「人日の節句」と日本の風習としてあった「若菜摘み」が合わさって七草粥になったと考えられています。
「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、子どもの頃に一生懸命覚えた春の七草の名前です。 ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはかぶ、スズシロは大根のこと。 この七草をおかゆにして1月7日に食べる七草がゆの習慣は、江戸時代に広まったそうです。
七草粥とは、1月7日に「春の七草」と呼ばれる七種類の野草を入れたお粥を食べる風習です。 昔は七草粥を食べると邪気を払い万病を防げると信じられていました。 現在はお正月にごちそうを食べ過ぎて疲れた胃を休める意味も持ちます。
「七種が明日にきて、やっと正月らしい気分になったわな」
どうやら、正月をゆっくり出来る仕事ではなさそうだ。
主人公らしい庄兵衛の仕事は、関東織物問屋。
※関東織物株式会社が実在するが関係ないだろう。 関東織物がどんな物かもよく分からない。
七年前に女房に死なれ、後妻を五年前に迎えた。女房はお千勢という。
お千勢は川越の地主の娘だが、嫁に行って亭主の若死にで家に戻っていたところを、庄兵衛が器量を望んで貰ったのだった。
庄兵衛は四十九歳、小厄。お千勢とは二十歳くらい違う。
登場人物の紹介で、何一つ先は読めない。
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日本橋堀留町(にほんばしほりどめちょう)は、東京都中央区の地名で、旧日本橋区に当たる日本橋地域内である。
現行行政地名は日本橋堀留町一丁目および日本橋堀留町二丁目。郵便番号は103-0012。
【歴史】
東堀留川が堀留町の南端部で止まっていたことが、町名の由来となっている。
江戸時代以降、東堀留川、西堀留川など、運河の水運を利用して、諸国物産を扱う船荷問屋が多く集まる街。
旧日本橋小舟町の一部を吸収合併し、現在の形になった。
都電の「堀留町」電停が現在の堀留町交差点付近に存在した。
都電は人形町通りを走り、小伝馬町・新宿・北千住方面、人形町・水天宮前方面とを結んでいた。1969年10月26日廃止。
【七草粥】(上図)
日本橋堀留町付近の地図(左図)
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