研究室_蛇足的研究
2022年03月21日 |
清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!
研究作品 No_130 【父系の指】 〔新潮〕 1955年(昭和30年)9月号 |
私の父は伯耆の山村に生まれた。中国山脈の脊梁に近い山奥である。生まれた家はかなり裕福な地主でしかも長男であった。それが七ヵ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところに里子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。里子とはいったものの、半分貰い子の約束ではなかったかと思う。そこに何か事情がありげであるが、父を産んだ実母が一時婚家を去ったという父の洩らしたある時の話で、不確かな想像をめぐらせるだけである。父の一生の伴侶として正確に肩をならべて離れなかった”不運”は、はやくも生後七ヵ月にして父の傍に大股でよりそってきたようである。父が里子に出されるという運命がなかったら、その地方ではともかく指折りの地主のあととりとして、自分の生涯を苦しめた貧乏とは出会わずにすんだであろう。事実、父のあとからうまれた弟は、その財産をうけついで、あとで書くような境遇をつくった。 |
●以下はエッセイ『碑の砂』((エッセイ・発表(潮):1970年(昭和45年)1月号))の書き出し部分である。 私の父の故郷は、鳥取県の南部で、中国山脈の脊梁に近いところである。日野川の上流で、この地方は昔から砂鉄の産地として知られている。父はその村の農家の長男として生まれ幼時に米子市のある家に養子にやられた。里児だったらしいが、先方で返さなかったといわれている。それで松本姓になった。貧乏な家だったようだ。父の生家もそれほど裕福ではないが、山林など持っている中程度だった。その長男の父がどうして里児に出されたかよくわからなかった。父は知っていたかどうか分からないが、何も云わなかった。ただ、父の母に当たるひとは父を生むとすぐ十キロばかりはなれた山の中の実家に帰された。その事情は分からない。ところが何年かして、父の両親は再びいっしょになった。そうして二男を生んだ。復縁したとき、母にあたるひとが父を里親からとり返そうとしたが渡してもらえなかったという。 この作品『父系の指』は、エッセイ『碑の砂』の、15年前の作品である。 書き出し部分では、登場人物の具体名は出てこない。が、同じと云ってよい。 しかし、父峯太郎の境遇が清張の知り得る情報を基に書き込まれている感じがする。 あえて言えば、小説とは名ばかりで、エッセイであり、自叙伝である。 |