研究室_蛇足的研究

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2021年08月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_118

逃亡(原題:江戸秘紋〕

文政十二年(一八二九年)三月二十一日の巳の刻(午前十時)に江戸神田久間町河岸から火が出た。この朝一時間前にちょっとした地震があったが、ちょうど、出火の起こったころは、西北の風が土砂を吹き立てて、あたりが夜のように暗くなっていた。●蔵書【松本清張全集 29 逃亡・大奥婦女記:「「信濃毎日新聞・夕刊」(大系社扱い)」1964年(昭和33年)7月号
〔「信濃毎日新聞・夕刊」(大系社扱い)〕
1958年(昭和33年)7月



文政十二年(一八二九年)三月二十一日の巳の刻(午前十時)に江戸神田久間町河岸から火が出た。この朝一時間前にちょっとした地震があったが、ちょうど、出火の起こったころは、西北の風が土砂を吹き立てて、あたりが夜のように暗くなっていた。おりから佐久間町河岸の材木商尾張屋徳右衛門の材木小屋の前では職人たちが焚火をしていた。三月の末というと、すでに上野の桜も散ったあとだが、この日は奇妙な天気でうすら寒かったのである。材木屋の本宅では昼食の用意が出来たといって職人たちを呼び集めた。火を囲んでいた者たちは焚火のあと始末を十分にしたつもりだったが、どこか不十分なところがあったとみえ、残り火が強風にあおられて横の鉋屑に燃え移った。その火はさらに隣のは葉莨屋に移った。材木屋で気がついたときはもう手がつけられないくらいに火が燃え上がっている。激しい風は炎を横倒しに噴きつのらせ、火の粉を霰のように飛散させた。
清張には同名の作品がある。「逃亡」(【無宿人別帳】第四話)  
江戸神田久間町河岸から火が出た。江戸ではいくつかの大火があった。「火事と喧嘩は江戸の華」とか云うが、大変な禍である。

神田佐久間町は幾度も大火の元になったため、口さがない江戸っ子は佐久間町を「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
文政12年3月21日(1829年4月24日)死者2800名、神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。焼失家屋37万
江戸三大大火は、明暦・明和・文化の大火を云うらしいが、文政の大火も負けない規模だった。

書き出しで小説としての手がかりは何もないが...



江戸の火事:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
で上記の絵柄の但し書きが目を引いた。

>『むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。
>牢獄からの罪人解き放ちを「集団脱走」と誤解した役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、
>塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。