研究室_蛇足的研究

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2021年04月21日


清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!




研究作品 No_115
中央流沙

宴会場の料亭は札幌の山の手にあった。廊下の明りが白樺の幹を浮かしている。寒帯植物群の向うには、札幌市内の街のネオンをちりばめて闇の下にひろがっていた●蔵書【中央流沙】:「社会新報」1965年(昭和40年)10月号〜1966年(昭和41年)11月号
〔社会新報〕
1965年(昭和40年)10月号〜1966年(昭和41年)11月号



宴会場の料亭は札幌の山の手にあった。廊下の明りが白樺の幹を浮かしている。寒帯植物群の向うには、札幌市内の街のネオンをちりばめて闇の下にひろがっていた。白樺には落葉がまじっている。眩しい広間の床の前には、三十七,八ばかりの、顔の蒼白い男が座っていた。広い額に尖った顎、ふちなし眼鏡の奥の大きな眼、全体の身のこなしなど、いかにも俊敏な人物という印象をうけた。洋服も舶来ものだしネクタイから靴下に至まで洗練された色彩の統一があった。その横に四十七,八くらいのゴマ塩頭の男が遠慮深そうに座っていた。小柄で、胃でも病んでいるように、頬がこけていた。洋服はかなり前につくったもののようだ。終始、顔をうつ向きかげんにしているのは酒を飲んでいるためだけではなく、身についた性格のようでもあった。農林省食料管理局総務課の事務官山田喜一郎という男である。
作品が発表されたのが「社会新報」。

●出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『社会新報』(しゃかいしんぽう)は、日本社会党とその後継・社会民主党の中央機関紙。

【起源】
『社会新報』の前史には、1945年11月2日の日本社会党結党直後に党機関紙として発行された『社会新聞』、1951年の
左右分裂後、左派社会党の準機関紙として発行された『社会タイムス』がある。
日本社会党の最初の党機関紙『社会新聞』は、最初『日本社会新聞』として、1946年1月から1952年3月まで発行され、
月刊(ブランケット判2ページ)で発刊された。まもなく『社会新聞』と改称し、週刊化の上、有料化された。
この『社会新聞』は、党組織の事業とは別の独立採算制の経営によるもので、最盛期には週2回刊、4ページで、発行部数17万部に達したこともあった。
もう一方の『社会タイムス』は、左右分裂後に左派社会党の機関紙として発行された『党活動』(1951年11月1日
『党活動資料』として創刊、1952年3月10日付から『党活動』に改題)が準機関紙『社会タイムス』(日刊、ブランケット判4ページ)へと継承された。
左派社会党と総評が協力して学者・文化人を結集し、株式会社社会タイムス社を設立した。
社会タイムス社の社長に青野季吉文芸家協会会長、専務に江田三郎、取締役に社会学者の清水幾太郎、総評の高野実事務局長ら、
監査役に鈴木茂三郎委員長がそれぞれ就任。初代の編集長を清水が務めた。レッドパージで新聞社を追われた記者や当時の進歩的知識人が多く
編集に携わった。しかし、日刊『社会タイムス』は、編集体制の不十分さや編集方針が党や総評と食い違うことがあったこと、
販売網の不完全さなどが起因して資金難に陥り、1954年5月に、左右社会党統一を待つことなく2年2か月間の歴史に幕を閉じた。
これが1955年10月の日本社会党の左派・右派の再統一を機に『社会新報』と改題して、ブランケット判2ページの無料の週刊紙として発行された。
その5年後の1960年、『社会新報』は有料で週刊のブランケット判4ページの発行となり、1966年から週2回刊・ブランケット判8ページに移行した。
それ以来、週2回刊が続き、2002年6月に週刊・タブロイド判16ページに移行して、現在に至る。

現在もつついていることには驚きだった。
この作品は、1965年から1966年に掛けて書かれた物だ。したがって、有料化されて後の掲載と云うことだ
さらに、『内容(過去に掲載された記事も含む)』でも書かれている。
政局や社民党の街頭宣伝活動等の速報
連載マンガ「どとうの父さん」(たかはしさとる)
  松本清張の小説『中央流沙』(1965年から1966年まで連載)
  「雨宮処凛のかりんと直言」
  早野透の連載コラム「政治を読み解く」
  佐高信の連載コラム「佐高信の視点」


−−−−−改めて書き出しを...−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
宴会場の料亭は札幌の山の手にあった。廊下の明りが白樺の幹を浮かしている。寒帯植物群の向うには、札幌市内の街のネオンをちりばめて闇の下にひろがっていた。白樺には落葉がまじっている。眩しい広間の床の前には、三十七,八ばかりの、顔の蒼白い男が座っていた。広い額に尖った顎、ふちなし眼鏡の奥の大きな眼、全体の身のこなしなど、いかにも俊敏な人物という印象をうけた。洋服も舶来ものだしネクタイから靴下に至まで洗練された色彩の統一があった。その横に四十七,八くらいのゴマ塩頭の男が遠慮深そうに座っていた。小柄で、胃でも病んでいるように、頬がこけていた。洋服はかなり前につくったもののようだ。終始、顔をうつ向きかげんにしているのは酒を飲んでいるためだけではなく、身についた性格のようでもあった。農林省食料管理局総務課の事務官山田喜一郎という男である。

書き出しは、実に具体的である。
取りあえずだろうが、登場人物が二人。
人物描写も具体的だ。面白いのは農林省の事務官山田喜一郎の方が見窄らしい感じで描かれている。
三十七,八ばかりの、顔の蒼白い男は何者なのだろう。
上下関係からすれば、山田喜一郎の方が下位の感じだが、「顔の蒼白い男」は、エリート官僚かも知れない。
エリートのキャリア官僚と叩き上げの事務官。掲載される雑誌(新聞?)が、当時の社会党の機関紙?。舞台は揃っている。


以下は、書籍の腰巻の画像だが
 

内容を的確に示している。