研究室_蛇足的研究
2020年11月21日 |
清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!
研究作品 No_108 【史擬】 (シリーズ作品:死の枝 第四話(原題=十二の紐)) 〔小説新潮〕 1967年(昭和42年)5月号 |
新井白石の著作「史疑」が現存していると伝えられた最初は、ある新聞社の学芸記者が北陸一帯をほかの取材で歩いて東京に帰ったときだった。この話は、はじめその学芸記者がよく出入りする某大学の助教授のもとに届けられた。その助教授は容易に信じなかったが、だんだん、その記者から話を聞いてみると、まんざら嘘とも思えないようになってきた。所蔵家は、いま福井県の田舎にいるが、元加賀藩の藩儒の子孫だという。名前は宇津原平助といい、もう六十七の老人である。変わり者で、二十年前に家族全部をその家から追い出したあと、今では独り暮らしである。老妻はほかの土地に住んでいる子供たちの世話をうけ、ほとんど親子の往来もないという。家には先祖から伝わる古文書や古記録がおびただしく積んである。宇津原平助という老人は一種の蔵書狂で、その所有の書物を他人に貸さないばかりか、閲覧も許さない。それこそ守銭奴が土中に埋めた壺の金貨をときどきのぞいては愉しむのに似ているというのである。 |
宇津原平助という蔵書狂が行方不明?の『史擬』(新井白石著)を所有している噂を聞きつけた某大学の助教授。 半信半疑ながら、まんざら嘘でもないように考える。 はじめに登場する人物の名前は、宇津原平助だけ。 人物紹介も、福井県の田舎にいるが、元加賀藩の藩儒の子孫だという。 蔵書狂で変わり者、蔵書狂で、「守銭奴が土中に埋めた壺の金貨をときどきのぞいては愉しむのに似ている...」 六十七の老人。具体的で変人ぶりが容赦なく描かれている。 それに比べて、他は ある新聞社の学芸記者・某大学の助教授と、姿が見えない。 それに、『史擬』が、いかなる本なのかも姿が見えない。 『史擬』が、邪馬台国論争に関わっているのか不明だし、新井白石と邪馬台国論争が関わり合いがあることも今回初めて知った。 問題はタイトルにもされた『史擬』が中心になるのだろうか、それとも、変人宇津原平助か・・・・・ −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ●新井白石(アライハクセキ)【コトバンクより】 江戸前・中期の儒者・政治家。 最晩年に心血を注いで完成した作品に『史疑(しぎ)』があるが、これはいまは伝わらず、わずかに『白石遺文(いぶん)』中の 古代史関係論文がそのおもかげを残している。 【邪馬台国論争】より …古くには,《日本書紀》神功皇后摂政39年条などが《魏志》を引用して〈倭の女王〉のことにふれているように, 邪馬台国を畿内大和とし,卑弥呼は神功皇后であると暗に考えられていたが,邪馬台国は, 大和ではないとする考え方がみられるようになるのは,近世に入ってからであった。 邪馬台国を筑後国山門(やまと)郡に最初に比定したのは新井白石であった。 新井は,はじめは伝統的解釈にしたがって,邪馬台国を大和国としていたのであるが, 対馬国以下,狗奴(くな)国にいたるまでの倭の諸小国を,すべて九州内の地名に比定していたので, 邪馬台国だけを九州から切り離して位置づける不合理さに気づいて,邪馬台国を筑後国山門郡とするようになったのであろう。… ● Wikipediaより 新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。 一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、 正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。 家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、 家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。 学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。 また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は君美(きみよし、きんみ)。 |