研究室_蛇足的研究

紹介作品・研究室:完成登録

2016年05月21日

清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!


研究作品 No_072

 【梟示抄


研究発表=No 072

【梟示抄】 〔「別冊文藝春秋」秋32号〕 1953年(昭和28年)2月号

鎮台兵が征韓党の拠っている佐賀県庁に入城したのは、明治七年三月朔日の朝十じごろであった。 【松本清張全集 35 或る「小倉日記」伝・短編1】より

鎮台兵が征韓党の拠っている佐賀県庁に入城したのは、明治七年三月朔日の朝十じごろであった。それまで、しだいに細まってきた微弱な抵抗で、城内には戦闘員が少なくなったことはわかっていたが、首領の江藤新平は、生きているにせよ、死体となっているにせよ、残っているものと予想していた。城内の残兵はわずかな数になっていたが、江藤はいなかった。尋問すると、意外にも江藤はすでに一週間ばかり前に脱走したことがわかった。その他、島義勇ははじめおもだった幹部もことごとく姿がない。参議兼内務卿大久保利通は、山田顕義や河野敏鎌などを従えて、二時ごろ、宗龍寺の本陣についたが、この報告を聞いて険しい顔をした。彼も江藤の死屍か降人を期待していたのである。江藤が薩摩へ向ったに違いないことは、ほとんど推察できた。

                   研究
征韓党とは?
佐賀・与賀町の「延命院」に本拠を置き、「延命院党」「征韓大社」「開化党」「北組」などと呼ばれた。
若年の下級士族が中心。主宰(党首):江藤新平
征韓党に関連して
佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する
士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが
、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。
以上※Wikipedia(ウィキペディア)

「梟示抄」も「西郷札」も明治初期が舞台だ。「くるま宿」も似たような時期である。
最初の数行で登場人物は出そろっているのか?
江藤新平
島義勇
大久保利通
山田顕義
河野敏鎌
「梟示抄」の【梟】は、フクロウと読む。
『梟示』とは
…徳川家康の関東入国以前には日本橋本町4丁目に刑場があったといい,
小塚原刑場は浅草鳥越から聖天町を経て千住の地に落ち着いたもの,
鈴ヶ森刑場は1651年(慶安4)丸橋忠弥らの処刑に始まると伝えられている。
両刑場では磔(はりつけ)および火罪の刑を執行し,
獄門刑については牢内ではねた首を運んで獄門台上に
梟示(きようじ)(梟首,さらし首)した。
出生地,住居地,犯行地に近い刑場が選ばれたが,幕末には小塚原を使用することが多かった。…

どうやら、『梟示』(とは、さらし首のことらしい。『梟示抄』とは処刑者のリスト?


※Wikipedia(ウィキペディア)より
少々ショッキングな画像ですが...
下の墓標をクリックすると江藤新平のさらし首の画像があります。