松本清張_s_seityou_k1062.html_遭難(黒い画集:四話)


研究室_蛇足的研究

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2014年08月30日

清張作品の書き出し300文字前後で独善的研究!


研究作品 No_062

 【天城越え(黒い画集:四話)


研究発表=No 062

【天城越え】 〔サンデー毎日特別号〕 1959年11月号

私が、はじめて天城を越えたのは三十数年昔になる。「私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。(株)文藝春秋『松本清張全集4』 黒い画集 初版1971/08/20より

私が、はじめて天城を越えたのは三十数年昔になる。「私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出かけて四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登ってきたのだった」というのは川端康成の名作『伊豆の踊り子』の一節だが、これは大正十五年に書かれたそうで、ちょうど、このころ私も天城をこえた。違うのは、私が高等学校の学生ではなく、十六歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出たのであった。そして朴歯の高下駄ではなくて、裸足であった。なぜ、裸足で歩いたか、というのはあとで説明する。むろん、袴はつけていないは、私も紺飛白を着ていた。私の家は下田の鍛冶屋であった。両親と兄弟六人で、私は三男だった。長男は鍛冶屋を嫌って静岡の印刷屋の見習工をしていた。一家七人、食うのには困らなかったが、父母とも酒飲みなので、生活はそれほど楽ではなかった。

                   研究

              

冒頭の数行は「伊豆の踊子」の引用らしい。
川端康成の「伊豆の踊子」を意識して書かれた作品らしく、違うのは、
『私が高等学校の学生ではなく、十六歳の鍛冶屋の倅であり、この小説とは逆に下田街道から天城峠を歩いて、湯ヶ島、修善寺に出たのであった。そして朴歯の高下駄ではなくて、裸足であった。なぜ、裸足で歩いたか、というのはあとで説明する。むろん、袴はつけていないは、私も紺飛白を着ていた。』
高等学校の学生→十六歳の鍛冶屋の倅
朴歯の高下駄→裸足
修善寺から下田へ→下田から湯ヶ島、修善寺
何とも対抗心むき出しの書き出しである。登場人物の設定が清張作品の真骨頂である。
清張と川端康成の違いは作品のテーマにも関連するだろう。
鍛冶屋の三男坊は峠で何を体験するのだろうか?無事に峠を越えるのだろうか?