研究
天明元年当時の状況説明だけである。
題名の「山椒魚」は井伏鱒二の同名の小説(1929年5月)があるが関連はなさそうである。
補足的に当時の様子を書き出してみる。
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。
被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと杉田玄白の著書『後見草』(のちみぐさ)が伝えるが、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしていたため実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており[1][2]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。
(ウィキペディアより)
【山椒魚】
山椒魚の名は、体にサンショウに似た香りがある種がいることによる。
かつては食用として捕まえたサンショウウオを縦に裂いて、片半分を川に放流すると自然にもう片半分が再生してもとのサンショウウオに戻るという伝説から「はんざき」(あるいははんさき、半裂)とも呼ばれていた。
英語名の「サラマンダー (salamander)」は、イモリの仲間のニュート
(newt) も含む。元々は火の中に住む精霊サラマンダー(火トカゲ)を意味する。火トカゲとしてのサラマンダーのイメージは、ある種のイモリの特徴である鮮やかな赤色の腹面からきたものとする説、倒木などの薪の中に潜りこんだものが火にくべられた時に這い出てくることから、火の中から生まれると考えられていたことに由来するとする説などがある。
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